聖女の首輪と、壊れた偶像
『遺品商会・鴉』の地下室は、いつも通りのカビと鉄錆、そして死者から剥ぎ取った衣類の埃っぽい臭いに満ちていた。 だが今夜は、そこに異質な香りが混ざっている。 最高級の香油と、聖なる百合の香り。
店の真ん中にある粗末なパイプ椅子に、その発生源――聖女ミシャが座らされていた。 手足はロープで拘束されている。 意識はまだ戻らない。金色の髪が薄汚れた床に垂れ、純白のドレスが店の陰鬱な空気の中で浮いて見えた。
「……これが、国を狂わせている元凶」
リリアナが、ミシャを見下ろしながら呟いた。 その瞳は赤く明滅している。憎悪と、探究心が入り混じった複雑な色だ。
「見た目はただの可憐な少女ね。でも、この子の周りには濃密な【魅了】の魔力が渦巻いている。……近くにいるだけで吐き気がするわ」
「俺にはわからん。ただの軽い荷物だ」
俺はカウンターで湯を沸かし、三つ目のカップを用意した。 尋問には飴と鞭が必要だ。鞭はここにある恐怖そのもの、飴はこの一杯の安い紅茶だ。
「う……ん……」
椅子の上で、ミシャが小さく呻いた。 長い睫毛が震え、碧眼がゆっくりと開かれる。 彼女はぼんやりと天井を見上げ、次に目の前に立つリリアナを見、最後に少し離れた場所で銃の手入れをしている俺を見た。
状況を理解するのに数秒。 恐怖が顔に張り付くのに、さらに一秒。
「ひっ、あ……ここは……!?」
彼女が暴れようとするが、ロープが食い込むだけだ。
「騒ぐな」
俺は銃身を布で拭いながら、低く告げた。
「大声を上げれば口を塞ぐ。魔法を使おうとすれば気絶させる。質問に答えれば、紅茶を出してやる。……選べ」
ミシャは息を呑み、震えながら頷いた。 賢い子だ。あるいは、抵抗する気力すらないのか。
リリアナが一歩前に出る。 彼女はミシャの顎を指先で持ち上げ、その瞳を至近距離で覗き込んだ。
「久しぶりね、ミシャ様。……私の顔、覚えているかしら?」
「あ、あなたは……リリアナ様……?」
「ええ。あなたと殿下が追い出した、ね」
リリアナの声は氷のように冷たい。
「単刀直入に聞くわ。あなたが殿下にかけた【魅了】魔法。……そして国民を洗脳しているあの桃色の霧。あれは誰の命令? 目的は何?」
「ち、違います! 私は何も……!」
ミシャが涙を浮かべて首を振る。 その演技は完璧に見えた。だが、リリアナの【魔眼】は誤魔化せないはずだ。
「嘘をつかないで! 私の眼には見えているのよ、あなたの体から溢れ出す呪いのような魔力が!」
「本当に違うんです! ……お願い、外して……痛い、痛いの……!」
ミシャが錯乱したように叫び、首元を――ドレスの襟で隠れた喉元を必死に肩で擦り始めた。
「……?」
俺は眉をひそめた。 命乞いにしては様子がおかしい。 俺は椅子に近づき、暴れるミシャを押さえつけると、彼女の首元を隠しているレースのリボンを引きちぎった。
「あ……」
リリアナが息を呑む。 そこにあったのは、美しい肌に食い込むように装着された、禍々しい黒鉄のチョーカーだった。 内側には鋭い棘があり、皮膚に突き刺さって血が滲んでいる。 そして、その中央には赤黒く脈打つ魔石が埋め込まれていた。
「……何よ、これ」
リリアナが顔を近づけ、眼を細める。 数秒後、彼女は驚愕に目を見開いた。
「嘘……。魔力の流れが『逆』だわ」
「逆?」
「ええ。彼女が魔力を放出しているんじゃない。このチョーカーが、彼女の魔力回路を強制的に暴走させて、増幅した【魅了】を周囲に撒き散らしているのよ!」
リリアナはミシャの顔を見た。 さっきまでの敵意が消え、同情の色が浮かんでいる。
「あなた、ずっとこれを……?」
「……とれないの」
ミシャが掠れた声で泣く。
「枢機卿様が、これは『聖女の証』だと言って……。つけたら、頭の中に声が響いて……殿下に好きだと言え、笑いかけろって……逆らおうとすると、棘が……」
なるほど。 黒幕は聖女ではなかった。聖女という「拡声器」を使った、教会のトップか。
「操り人形だったわけか」
俺は腰からペンチを取り出した。
「リリアナ、その首輪の構造は?」
「複雑な封印術式がかかっているわ。魔法で解除しようとすれば、自爆して彼女の首を吹き飛ばす仕掛けよ。……解除には高位の魔導師が三人がかりで一週間はかかる」
「魔法でやるなら、な」
俺はミシャの背後に回り、チョーカーの金具にペンチの刃を当てた。
「動くなよ、お姫様。……物理的に壊すだけなら、一秒で済む」
ミシャが身を強張らせる。 魔導具としての強度は高いだろう。だが、所詮は金属と石だ。 構造的欠陥はある。 蝶番の継ぎ目。そこが一番脆い。
「……ふんっ!」
俺は握力にモノを言わせ、ペンチを握り込んだ。 バキンッ!! 乾いた破砕音と共に、黒鉄のチョーカーが砕け散った。 埋め込まれていた魔石が光を失い、床に転がる。
「あ……?」
ミシャが首元を押さえる。 棘の痛みも、頭の中のノイズも消えたのだろう。彼女の瞳から、あの中身のない虚ろな光が消え、正気の色が戻っていく。
『……魔力反応、消失。部屋の空気も浄化されたわ』
リリアナが安堵の息を吐き、ロープを解いてやった。 自由になったミシャは、崩れ落ちるようにリリアナの胸に飛び込み、子供のように泣きじゃくった。
「怖かった……ずっと、怖かった……!」
「ええ……もう大丈夫。ごめんなさい、気づいてあげられなくて」
リリアナが優しく彼女の背中を撫でる。 被害者同士の共鳴か。 俺は無言でペンチをしまい、冷めかけた紅茶を一口飲んだ。
これで構図が変わった。 敵は「聖女」ではない。「教会」だ。 そして今、俺たちの手元には、敵が最も恐れる「生きた証拠」がある。
しばらくして、泣き止んだミシャが顔を上げ、俺とリリアナを見た。 その目は赤く腫れていたが、もう操り人形の弱さはなかった。
「……お願いがあります」
ミシャは、床に落ちた壊れたチョーカーを睨みつけながら言った。
「私にも、手伝わせてください。……私の声と心を弄んだあの人たちを、絶対に許さない」
リリアナが俺を見て、ニヤリと笑った。 俺も肩をすくめて答える。
「歓迎するぞ。……ただし、俺の店で働くなら、まずは紅茶の淹れ方から覚えてもらうがな」
聖女の加入。 これで役者は揃った。 「見えない暗殺者」、「全てを見通す令嬢」、そして「民衆を導く偶像」。 このトリオなら、国を覆う腐った霧を晴らせるだろう。
「さて、次のターゲットは枢機卿か」
俺は愛銃のマガジンを叩き込んだ。
「神の代理人気取りの古狸に、鉛の懺悔を聞かせてやろう」




