偽りの聖女と、ステンドグラスの檻
週末の大聖堂は、狂気と信仰が入り混じった異様な熱気に包まれていた。 ステンドグラスから降り注ぐ極彩色の光。パイプオルガンが増幅する魔力波。 そして、亡き「迅雷」の騎士を悼むために集まった数千の市民と貴族たち。
彼らは皆、涙を流しながら祈りを捧げているが、その瞳はどこか焦点が合わず、うっとりと桃色の熱に浮かされているようだった。
『……ひどい濃度ね』
左耳の調律器から、リリアナの嫌悪感に満ちた声が響く。
『大聖堂全体が、巨大な【魅了】の結界になっているわ。魔力を持たないあなた以外、ここにいる全員が軽度の洗脳状態にある』
「便利な宗教だ」
俺は灰色の修道服に身を包み、深くフードを被って回廊を歩いていた。 手には重厚な銀の燭台。 今日の俺は「式の準備を行う下級修道士」だ。 背筋を丸め、存在感を消し、壁際を亡霊のように滑る。
大聖堂の警備は、王城よりも質が悪かった。 正規の聖騎士団に加え、不吉な赤黒い法衣を纏った集団が徘徊している。
『……気をつけて、グレイ。右手の通路、赤黒い服の男たち。「異端審問官」よ』
リリアナの声が鋭くなる。
『彼らは魔法使いだけど、魔法には頼らない。薬物で強化された嗅覚と聴覚を持っているわ。あなたの「足音」や「匂い」を探知する猟犬よ』
俺は歩調を緩めず、呼吸だけを極限まで浅くした。 通路の角で、異端審問官の一人とすれ違う。 フードの奥から覗く目は血走り、獣のような荒い息を吐いている。 男の鼻がヒクついた。
「……?」
男が立ち止まり、俺の方を振り向く。 俺は怯えた修道士のようにぺこりと頭を下げ、そのまま通り過ぎる。 心拍数は上げない。冷や汗もかかない。 俺は石だ。ただの風景だ。
男はしばらく俺の背中を睨んでいたようだが、やがて興味を失って去っていった。 異臭を放つ薬品の匂いだけが残った。
「……厄介な犬だ」
『ええ。でも、ミサが始まればパイプオルガンの音と香炉の煙で、彼らの五感も鈍るわ。……チャンスは、聖女が入場する直前』
リリアナが指示を出す。
『聖女の控え室は、祭壇の真裏。警備は聖騎士が二人だけ。 ミサ開始の鐘が鳴ると同時に、彼女は一人で祈りを捧げる時間がある。その「1分間」が勝負よ』
***
鐘楼の鐘が、重々しく鳴り響いた。 ゴーン、ゴーン。 それを合図に、大聖堂のパイプオルガンが轟音を奏で始める。 賛美歌の合唱が始まり、人々の意識が祭壇へと集中する。
俺はその喧騒を背に、立ち入り禁止区域である祭壇裏へと侵入した。 廊下の突き当たりにある重厚な扉。 その前には、白銀の鎧を着た聖騎士が二人、直立不動で立っている。
「……止まれ。ここは聖女様の控え室だ」
騎士の一人が槍を交差させた。 俺はフードを少し上げ、懐から小瓶を取り出すふりをした。
「失礼いたします。枢機卿猊下より、聖女様へ清めの聖水を届けるよう仰せつかりまして」
「聞いていないぞ」
「急なことですので。……遅れれば、式に支障が」
騎士たちが顔を見合わせる。 その一瞬の隙。 俺は、左手に隠し持っていた二本の「麻酔針」を、指先で弾いた。
ヒュッ。 音もなく飛んだ針が、二人の騎士の首元、鎧の隙間に正確に突き刺さる。
「う……ぐ?」
「な、に……」
二人は声を上げる間もなく白目を剥き、崩れ落ちそうになる。 俺は滑り込み、二人の体を支えると、鎧が音を立てないように静かに床へ寝かせた。
『……制圧完了。あと50秒で入場よ。急いで』
俺は扉を開け、中へ入った。 控え室は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 部屋の中央、ステンドグラスから差し込む光の中に、その少女はいた。
聖女ミシャ。 黄金の髪、透き通るような白い肌。 彼女は祭壇へ向かう扉の前で、膝をついて祈っていた。 だが、その背中は震えていた。
「……嫌、もう嫌……」
微かな呟きが聞こえた。 俺は眉をひそめる。 彼女の周囲には、リリアナが言っていた通り、濃密な桃色の霧が漂っている。 だがそれは、彼女が「放出」しているというより、彼女自身を「蝕んでいる」ように見えた。
俺は音もなく背後に近づく。 ミシャが気配を感じて振り返った。
「誰……? 入ってこないで!」
彼女が悲鳴を上げ、反射的に手を掲げる。 ドッ!と桃色の霧が俺に向かって押し寄せた。 【魅了】の奔流。常人なら、この一撃で彼女の虜になり、思考を奪われるだろう。
だが、俺は歩みを止めない。 霧は俺の体をすり抜け、何の影響も及ぼさずに霧散する。 俺には、洗脳されるための「魔力の受容体」が存在しない。
「な、なんで……? 私の力が、効かない……?」
ミシャが目を見開き、後ずさる。 俺は彼女の目の前まで歩み寄り、冷淡に見下ろした。
「生憎だが、俺は無神論者でね」
「ひっ……!」
彼女が叫ぼうと息を吸い込んだ瞬間。 俺は懐から取り出した布――高濃度の気化麻酔薬を染み込ませたハンカチを、彼女の口元に押し当てた。
「んぐッ、んーッ!」
少女の細い腕が俺の腕を叩くが、抵抗は数秒だった。 すぐに力が抜け、彼女の身体が俺の腕の中に崩れ落ちる。
『……確保。ターゲットの無力化を確認』
リリアナの声にも緊張が走る。
『さあ、ここからが正念場よ。どうやってその子を連れ出すの? 外には数千の信者と、猟犬のような審問官がいるのよ』
「手配通りだ」
俺は部屋の隅に置かれていた、巨大な「聖遺物箱」のような長持に目を向けた。 本来は儀式用の祭具が入っている箱だ。中身は昨夜のうちに処分し、底に空気穴を開けてある。
俺は眠る聖女を抱き上げ、乱暴にならないように箱の中へ納めた。 まるで棺桶だ。 蓋を閉め、鍵をかける。
「……荷物の出荷準備完了。これより、堂々と正面から搬出する」
俺は重い箱を担ぎ上げた。 修道服の下の筋肉が軋むが、耐えられない重さではない。 扉の向こうからは、聖女の入場を待ちわびる大合唱が聞こえてくる。
彼らが待っている聖女は来ない。 代わりに、空っぽの奇跡だけが残るだろう。
俺は呼吸を整え、控え室の裏口――資材搬入用の通路へと足を踏み出した。 最大の誘拐劇にして、最大の「密室消失」マジックの始まりだ。




