最後の仕事
雨の匂い。 そして、微かな鉄の匂い。
俺はビルの屋上で、冷え切ったコンクリートの感触を背中に感じながら、ぼんやりと夜空を見上げていた。 降りしきる雨が、俺のスーツに染み込んだ熱を奪っていく。 腹部に二発。致命傷だ。プロの仕事だった。 俺が育てた後輩たちの仕事なのだから、当然と言えば当然か。
「……ふぅ」
息を吐くと、白い霧が混じった。 煙草を吸いたいところだが、生憎と肺に穴が空いているらしい。うまく吸い込めそうになかった。
俺は『組織』の掃除屋だった。 名前はない。戸籍もない。あるのは『グレイ』というコードネームと、裏社会で最高傑作と謳われた殺人技術だけ。 感情は邪魔だ。道徳はノイズだ。 そう教え込まれ、そう生きてきた。機械のようにトリガーを引き、ターゲットを「処理」する。それが俺の全てだった。
だが、このザマだ。
今日のターゲットは、人身売買組織の元締めだった。仕事は完璧に遂行した。 予定外だったのは、現場のクローゼットの中に、商品にされる予定だった少女が隠れていたことだ。 インカムから響いた本部の指令は簡潔だった。
『目撃者だ。消せ』
合理的な判断だ。俺もそう思う。 だが、俺は震える少女の瞳を見たとき、なぜかトリガーを引けなかった。 数千人を殺してきた俺の指が、たった一人の子供の前で凍りついた。
『どうした、グレイ。聞こえないのか?』
「……いいや、聞こえている」
俺はインカムのマイクに向かって、生涯で初めての嘘をついた。
「ターゲットの警護兵が残っていた。応戦する」
俺は少女を撃つ代わりに、彼女を逃すための退路を作るために動き、そして増援に駆けつけたかつての同僚たちと撃ち合い――今に至る。
視界が黒く塗りつぶされていく。 後悔? いや、そんな高尚なものはない。ただ、機械が故障した。それだけの話だ。
右手の感覚だけは残っていた。 愛銃のグリップのチェッカリングが、皮膚に食い込んでいる。 コルト・ガバメントのカスタムモデル。 ステンレスシルバーのロングスライド。45口径の暴力的な反動を制御するためのウェイトバランス。そして、職人の手による完璧なトリガーチューン。 俺の唯一の相棒。 こいつと俺は、数えきれないほどの死線をくぐり抜けてきた。
(……地獄へ行くなら、手ぶらじゃ寂しいな)
俺は薄れゆく意識の中で、相棒を強く握りしめた。 指先から力が抜けていく。 雨音が遠くなる。 組織への忠誠も、血塗られた過去も、すべてが闇に溶けていく。
これでいい。 次は、もう少し静かな仕事に就きたいものだ。 例えば、そう――ただの掃除夫とか、な。
***
冷たい。 濡れた地面の冷気が、頬を刺す。
俺はカッと目を見開いた。 反射的に上体を起こし、周囲を確認する。 死後の世界にしては、妙に生々しい悪臭がした。腐った野菜、垂れ流された汚水、そしてアンモニアの臭い。
「……ここは?」
声が出た。肺も痛くない。 腹に手を当てる。穴が空いていたはずの場所には、傷一つなかった。 血で汚れていたはずの高級スーツも、泥汚れがついているだけで破れてはいない。
俺は路地裏にいた。 見上げれば、見たこともない形状の月が二つ、夜空に浮かんでいる。 ビルもネオンもない。石造りの粗末な建物が、迷路のように入り組んでいる。
「異世界、か」
小説や映画でしか見たことのない概念だが、そう結論づけるしかなかった。 状況を整理する。俺は死んだ。そして、なぜか五体満足でここにいる。 若返っては……いないな。 水たまりに映る顔は、見慣れたくたびれた中年のままだ。
俺は慌てて右腰に手を伸ばした。 そこにあった感触に、俺は心底安堵の息を漏らした。
レザーのショルダーホルスター。 その中に収まった、冷たく重い鉄塊。俺の愛銃もまた、俺と共にこの世界へ連れてこられたらしい。
スライドを引く。ジャキッ、という硬質な金属音が路地裏に響く。 チャンバーに弾丸が送り込まれる感触。 マガジンを抜いて確認する。装填されているのは7発。 予備のマガジンは、スーツの内ポケットに2本。 計21発。 これが、俺がこの世界で持っている「暴力」の総数だ。
「……火薬の匂いもしない世界で、残弾21発か」
俺は苦笑し、セーフティをかけて銃をホルスターに戻した。 途方に暮れている暇はない。 腹が減っているし、この世界の通貨も、言葉もわからない。 だが、やることは変わらない。 生き延びるために環境を観察し、利用し、排除する。
俺は泥濘んだ路地裏を歩き出した。 伝説の暗殺者は死んだ。 ここからは、ただの「グレイ」としての新しいビジネスの始まりだ。




