しらゆき、初めての“休息“
工房を出ると、夜風がひやりと頬を撫でた。
術式の光が消えたばかりの身体は、
どこか温かくて、どこか不安定で――
初めて味わうような微細な“揺れ”が残っていた。
「歩ける?」
お嬢様が隣を歩きながら、横目で私を確認する。
「問題ありません。……ただ、少し、力が入りにくいだけで。」
それは本当にわずかな違和感だった。
けれどお嬢様はすぐに察した。
「調律直後はそうなるわ。今日は無理をしなくていい。」
港町を吹き抜ける冷たい潮風の中、
二人でゆっくりと館へ向かった。
館へ戻ると、お嬢様は私を真っ先に自室へ案内した。
「今日はここで休みなさい。」
「……私に“休息”は必要でしょうか?」
問いかけると、お嬢様はわずかに笑った。
「しらゆき。あなたはもう、ただの器用な人形じゃないのよ。
調律で整えられた回路は、初期化ではなく“馴染ませる時間”を必要とするわ。」
なるほど――そういうものなのか、と理解しようとする。
だが、それだけではなかった。
お嬢様の部屋に足を踏み入れただけで、
胸奥の核にほのかなぬくもりが広がった。
理由はわからない。
理屈もない。
ただ、ここに立つだけで何かが安定する。
「横になって。」
促されてベッドに腰を下ろす。
軋みひとつしない柔らかな寝台は、
身体のラインに合わせて優しく沈んでいった。
お嬢様が肩にそっと手を添える。
「痛みや違和感は?」
「……ありません。
ですが……胸が、落ち着くような……不思議な感覚があります。」
「それでいいのよ。」
お嬢様の声は夜の海よりも静かだった。
「しらゆき。あなたの心核は、私の魔力に触れると安定するように作ってあるわ。」
「……それは、どういう……?」
「簡単よ。
“私の側にいるほど、あなたは正常になる”というだけのこと。」
胸の奥がふるりと震えた。
理由のない震え。
けれど、それは苦しさではなく――温かさだった。
「少し目を閉じてみなさい。」
言われるままに、私は瞼を下ろした。
視界が暗くなると、
波音と風の気配、館の静けさ、
お嬢様の微かな呼吸が一つの層になって胸へ落ちてくる。
眠りとは違う。
意識を落とすのとも違う。
ただ深く沈んでいくような、
初めて知る“静けさ”。
「……お嬢様。これは、何でしょう……?」
「休息よ。
あなたが自分で初めて得た、ただの静かな時間。」
その言葉が、胸の奥にそっと触れた。
私は目を閉じたまま、小さく息を吸う。
「……悪くありません。」
「でしょう?」
お嬢様の気配がすぐそばにある。
それだけで核の揺れが穏やかになる。
これは命令でも義務でもなく、
ただ自然に起こる感覚だった。
私はようやく理解した。
――私はこの人のそばにいることで、
初めて“整う”のだと。
夜は静かに更けていく。
私は調律された身体を静かに横たえたまま、
初めての“休息”を受け入れていた。




