しらゆき、正しい形へ
ルーベリアの夜は、深い海の底のように静まり返っていた。
魔海獣が去ったあとの余韻がまだ街に残り、
潮風には緊張の名残が薄く混じっている。
私はその夜、右腕の内部に小さな歪みを抱えていた。
動作に支障はない。
ただ、内側の僅かな“音の乱れ”だけが、気になっていた。
何も告げていないのに、お嬢様はそれを察した。
「しらゆき。工房へ来なさい。」
穏やかな声音の奥に、微かな気遣いが滲んでいた。
お嬢様の工房は港町の最奥にひっそりと建っている。
石造りの小さな部屋で、
床には古い術式が光を消したまま刻まれ、
机には結晶や金属片が整然と並んでいる。
初めて踏み入れるその場所は、
どこか秘密の巣のようだった。
「そこに横になりなさい。」
術式台に身を預けると、
冷えた石が背を支え、
身体のラインが自然と伸びる。
私は人よりわずかにしなやかだ。
骨格は精霊石の芯で強靭に組まれ、
肌は陶器のように薄く、光を柔らかく返す。
胸から腰へ続く曲線が、
装飾のない術台の上で静かに浮かび上がる。
それが“美”として設計されていることは理解していた。
ただ胸奥の核がふと震えたのは、
設計にはない――理由のない揺らぎだった。
お嬢様が胸部の継ぎ目に指を添えた瞬間、
内部に微かな光が咲くような感覚が走る。
「よく戦ったわね、しらゆき。
さあ……続きをしましょう。」
術式が静かに動き始める。
お嬢様の指が内部をひとつひとつ確かめていく。
歪んだ線を整え、詰まりを取り除き、
筋束の流れを仕立て直し、精霊核との接続を滑らかにする。
力の流れを磨き、
魔力の循環路を再配置し、
感覚層をほんのわずかに増やす。
私という存在は、力ではなく“流麗さ”を前提に作られている。
曲線の骨格、無駄のない筋束、
指一本でも心地よさが伝わるよう調律された関節。
お嬢様の手が触れるたび、
全てが本来の形へ戻っていった。
「……お嬢様。触れられていると……胸が、少し熱いです」
「正常よ。
あなたは心を持ち始めているのだから。」
光がふっと広がり、
意識が一瞬だけ白く途切れた。
目を開くと、お嬢様がすぐ傍で覗き込んでいた。
「どう? どこか痛む?」
「……いいえ。むしろ、とても軽いです。」
身体を起こすと、世界の細部が自然に伝わってきた。
波がぶつかる音の重なり、
潮風に混ざる匂いの濃淡、
遠くを歩く人の足音、
術式に残った光の薄い残滓。
それらは、ただ“今そこにあるもの”が
以前より素直に伝わるだけだった。
「お嬢様……
世界が、前よりもはっきり感じられます。」
「それでいいの。
今を正しく受け取れれば、それで十分よ。」
胸の奥がやわらかく温かくなる。
この方の手で生まれ、
この方の手で整えられた。
「……お嬢様。
私はこれからも、あなたの側で働き続けます。」
「ええ、しらゆき。
あなたは私の片腕よ。」
夜風が工房を吹き抜け、
術式の光が静かに消えていった。
私は“今を深く受け取れる存在”として再び動き始めた。
それだけで十分だった。




