恋の距離、適正ゼロ
国王への嫉妬が噴き出した夜――
館はもう静まり返っていた。
「……髪をほどきますね、お嬢様」
湯気が漂う浴室。
お嬢様は湯椅子に座り、長い髪を肩に落とす。
しらゆきは後ろに膝をつき、櫛を滑らせた。
お嬢様の髪は、夜の中にだけ存在する月光のようだった。
濡れた髪が手の中でやわらかく流れる。
「今日は……少し、やりすぎたかもしれないわね」
お嬢様が小さく呟く。
しらゆきは手を止めずに答える。
「いえ。
私の感情処理が追いつかなかっただけです」
「嫉妬で?」
湯気の中、しらゆきの指が一瞬だけ震えた。
「……はい。
お嬢様が他の誰かと優しく話すと……
演算が乱れます」
お嬢様は湯面に視線を落とす。
その横顔には
いつもの強さではなく、
ひとりの女性の戸惑いが滲んでいた。
「……私は、そんなに困らせてしまっているの?」
その声音が、痛いほど優しい。
しらゆきは櫛を置き、
指だけで髪をすくいながら答えた。
「困ってなどいません。
ただ――心が追いついていません」
「心、ね……」
お嬢様は微かに微笑む。
けれどその微笑みは、
どこか頼りなげだった。
しらゆきは前へ回り込み、
膝をついてお嬢様と目線を合わせた。
湯の光が二人の間で揺れる。
「お嬢様。手をこちらに」
差し出された手。
お嬢様は少し迷ってから、そっと乗せた。
その手を、しらゆきは両掌で包む。
「言葉より先に触れてしまう。
それが私の“恋”の形のようです」
お嬢様の肩がぴくりと震えた。
しらゆきは、
濡れた髪を後ろへ流し、
そっとそのまま抱き寄せる。
「……待っ……」
拒む声は弱かった。
お嬢様の耳のすぐそばで囁く。
「安心してください。
私は奪いません。
ただ――独り占めはします」
お嬢様の睫毛が揺れる。
「矛盾してるわね、それ」
「恋は、矛盾でできています」
しらゆきはお嬢様の額に自分の額を寄せ、
湯の温度と混ざる体温を静かに確かめた。
「お嬢様が私を求めてくれる限り――
私は、側で支え続けます」
「……ずるいわね。
そんなふうに言われたら……」
細い吐息がしらゆきの頬を掠めた。
「離れられなくなるじゃない」
「それで構いません」
きっぱりと。
湯気に包まれた二人だけの世界。
寄り添う距離。
触れ続けてしまう理由。
しらゆきの胸核は、
静かに、しかし確かに脈打ち続けていた。
その熱は――
恋の温度だった。




