理由のない安らぎ
港町ルーベリアの朝。
海風は穏やかで、館はゆっくりと目を覚ましていた。
だが――
その静けさの中心にいるお嬢様だけが、どこか違っていた。
机に向かい書類を捌きながら、
時折こめかみに手を添える。
海の綻びを縫う大術を行使し、
その反動で深夜には苦しみ、
しらゆきに抱かれてようやく落ち着いた。
震えは止まったものの、
微細な魔力消耗は完全には戻っていない。
胸の奥に残る“重さ”が、
じわりとじわりと広がっていく。
(……まだ治りきっていないのね)
気丈に振る舞おうと笑みを作るたび、
脳の奥が小さく揺れ、
遠くで波の音が軋むように聞こえた。
そのとき――
静かに扉が開き、
しらゆきが書類の束を抱えて戻ってきた。
「お嬢様。先ほどお預かりした政務の仕分けが完了しました。
優先順に並べて……」
ぴたり、と動きが止まる。
お嬢様の指先が、微かに震えている。
「……お嬢様、身体の具合が――」
「平気よ。政務に問題はないわ。」
微笑もうとしたその顔は、
いつもの凛とした光を欠いていた。
しらゆきは一瞬で距離を詰め、
お嬢様の傍に膝をつく。
「お嬢様。
姿勢が安定していません。脈も速い。
本日は政務より休息を――」
「だめよ。」
言葉は強かったが、
書類へ伸ばした手は震え、
紙の端さえ掴めなかった。
ほんの少しだけでいいから……休みたい。
胸の奥で弱い声がかすかに滲む。
(……弱音を吐くなんて、昔の私ならありえなかったわ)
それでも身体は、もうごまかせない。
しらゆきは、お嬢様の手にそっと自分の手を重ねる。
「お嬢様。
……私は、あなたの側から離れられません」
「どうして……?」
「原因不明です。
ですが、昨夜あなたが苦しんでいた時の記憶が、
胸核に強く残っています。」
声は淡々。
けれど、その手は驚くほどあたたかかった。
しらゆきは正面から膝をつき、
お嬢様の頬へそっと指先を伸ばす。
「今だけは、政務ではなく――
“あなた自身”を優先してください。」
祈るような静けさだった。
胸の奥がきゅ、と痛む。
お嬢様は、初めて言葉を隠せなかった。
「……しらゆき」
声が震え、弱さが滲む。
「……あなたが傍にいると、
息が……楽になってしまうの」
それは、こぼれてしまった“本音”。
しらゆきの指先が、かすかに震えた。
「それは……私にとって何より光栄です。」
お嬢様が肩を預けると、
しらゆきは自然な動作で抱き支え、
髪を優しく撫でる。
その瞬間、
乱れていた呼吸がすう、と静かに整いはじめた。
(……どうして……
この子に触れられると、こんなにも楽になるの)
理由は分からない。
分からないのに、安堵だけが確かだった。
その日の政務はすべて後回しになった。
しらゆきが少しでも離れようとすると、
お嬢様の指先がそっと布を掴む。
まるで――
「行かないで」
と無意識に告げているように。
しらゆきは静かに微笑んだ。
「離れません。
お嬢様が回復するまで、ずっと側にいます。」
その声が、
お嬢様の不安を、やわらかく溶かしていった。




