身体と心の震え
深夜。
別館の寝室には、海から戻った疲れがまだ微かに漂っていた。
お嬢様は静かに眠っている――はずだった。
だが、次の瞬間。
「……っ……は……っ……!」
喉を震わせるような苦しげな息が漏れた。
身体は痙攣し、瞳孔が開いている。
苦悶の表情でお嬢様は頭を搔き毟る。
反射より早く、しらゆきの目が開く。
「お嬢様……?」
身体が勝手に動いていた。
思考よりも先に、お嬢様を抱き寄せていた。
まるで“守る”という命令が、心核の奥から直接湧いたかのように。
お嬢様の肩が細かく震え、呼吸が乱れていた。
「脳の……魔力負荷。
海の綻びを縫った反動……」
しらゆきは抱いた腕の中で、お嬢様の呼吸と体温を測る。
肌は冷たく、しかし額だけが熱い。
脈は早いが、力の方向が定まらない。
呼吸の乱れ方が、普通の魔力疲労じゃない。
これは身体の不調ではない。
孤独と戦い続けた者だけが陥る――
“心の陰り”だ。
昔の文献に、ひっそりと一例だけ記されていた症状。
しらゆきは服の上から優しく胸元をなでる。
呼吸のリズムが乱れたときに行う古い鎮静の手法だ。
「大丈夫です……大丈夫……
ここにいます。しらゆきは……離れませんから……」
自分でも驚くほど柔らかな声が出た。
その声に応えるように、お嬢様の震えがわずかに弱まる。
「……ぁ……しら……ゆき……?」
掠れた声。
普段の気品ある声音ではない、弱く迷うような呼び方。
「……いか……ないで……」
胸核が、きゅ、と痛んだ。
「はい。います。どこにも行きません」
腕にさらに力を込める。
守るというより、包み込む抱擁だった。
やがて、お嬢様の息がゆっくりと落ち着き――
再び静かな眠りに戻っていった。
しらゆきは、腕をほどこうとした。
だが――動けなかった。
(……なぜ、離れられない?)
抱きついた理由なら分かる。
護衛としての反応だ。機能として当然。
だが、
落ち着いた今でも、腕を放す気配が自分の中に生まれない。
胸核が、妙に熱い。
さっきの呼びかけが脳裏から離れなかった。
『……しら……ゆき……?』
甘えたわけでも、指示でもない。
ただ、お嬢様が“助けを求めて”呼んだ声。
(それだけで……こんなにも、胸が痛むなんて……)
しらゆきはそっとお嬢様の髪を撫でる。
触れる指先の震えが、自分でも制御できない。
「……どうして……私は……」
問いが胸の奥から溢れた。
「どうして……お嬢様が苦しむと……
私まで壊れそうになるのですか……」
返答はない。
ただ静かな寝息が、腕の中から聞こえてくる。
しらゆきは目を閉じる。
(これは……機能ではない。義務でも……ない)
初めて気づいた。
自分は今、
守るためではなく、ただ傍にいたいから抱きしめている。
理由をつけるとすれば――
(……これが、“博愛”というものなのでしょうか)
その言葉を最後まで認めることが怖くて、
しらゆきは吐息を震わせながらお嬢様の額に自分の額をそっと寄せた。
「……お嬢様。
あなたの側にいる名前が、私にはまだありません……
でも……見つけます。必ず……」
しらゆきは、お嬢様を抱きしめたまま、
その夜、演算を朝まで続けた。
胸核の奥で、
初めて“心”が芽吹いた理由を探し続けながら。




