海を整えた指先の震え
港町ルーベリアの沖。
静かな夜風が吹き抜け、潮の香りが漂う。
お嬢様は海を眺めながら呟いた。
「……やっぱり。流れが変わっているわね」
すぐ隣で、しらゆきが小さく首を傾げた。
「流れ……と申しますと、魔力潮流のことですね?」
「ええ。あなたにも、少しだけ感じられるはずよ」
しらゆきは目を閉じ、海風に意識を澄ませる。
「……確かに。海面の下の“ざわつき”が弱まっています。
魔海獣の反応も……ほとんど、ありません」
「そう。だから、今なら海そのものに触れられる」
しらゆきが息をのんだ。
「それは……“理層”への干渉を意味します。
お嬢様、あまりにも危険では――」
「大丈夫よ。今日は……海が優しい日だもの」
お嬢様は目を閉じ、指先を海へ向けた。
「――風の精霊よ。海底の記憶を開きなさい」
海面が淡く光り、青白い紋様が静かに広がる。
しらゆきはその光景に、言葉を失った。
「……これが、“綻び”……」
「そう。世界の理が歪んだ傷跡。
魔海獣は、ここから漏れる淀みが生んでいたの」
お嬢様は痛みを堪えるように息を吐いた。
「もう……増えすぎてしまった。
誰かが、縫ってあげなきゃいけない」
「……お嬢様。
その役目を、ひとりで背負う必要はありません」
しらゆきの声はいつもより僅かに熱を帯びていた。
お嬢様は微笑む。
「ありがとう。でもこれは、昔からの約束なの。
海は……私の“最初の友達”だったから」
そして、指先を海にかざした。
「――再誕の縫合式。
理に刻まれた綻びよ、海の鼓動とともに……静かに閉じなさい」
海が息をする。
淀みが吸われるように消え、
黒い潮も狂気の脈動も、静かに収束していく。
しらゆきは小さく呟いた。
「……美しい。
世界の理を“縫う”なんて、人ならざる御業です」
「人じゃないもの。私は」
「……それでも、あなたは」
しらゆきは言いかけて、言葉を飲み込んだ。
お嬢様が、海風に震える指先をそっと隠すように腕を下ろしたからだ。
疲れを悟られたくない――
そんな仕草だった。
しらゆきは静かに視線を逸らした。
「海は……救われましたね、お嬢様」
「ええ。これでしばらくは平和よ」
夜の海は静かに生まれ変わった。
世界は気づかぬまま、
お嬢様と、その唯一の側仕えによって――救われた。




