しらゆき、初めての世界
しらゆきが歩き出したのは、夜明け前の薄い光の中だった。
海霧が晴れ、村の屋根や漁船がゆっくりと輪郭を取り戻していく。
私は祭殿の柱に寄りかかり、その背中を見送っていた。
「……ふらふらね」
初めて歩く存在にしては上出来だけれど、やっぱり不安定。
それでもしらゆきは振り返らず、一歩ずつ外の世界へ進んでいく。
港へ向かう道には、朝の準備をする村人たちの姿があった。
「……あれは誰だ?」
「白い……人形?いや、歩いて……」
「“あの方(守り姫)”のところから出てきた……?」
ざわめき。
畏れと興味がないまぜになった視線が、しらゆきに集中する。
だが当の本人は気にする様子もなく、淡々と歩を進めた。
「初期外界調査。完了まで——三十分」
小声でそう呟くと、海の方へと向かった。
海霧の匂い、潮のざわめき、砂利の感触。
しらゆきは立ち止まり、ひとつひとつを解析するように目を動かす。
「……温度。風速。匂い。
世界は……複雑です」
初めての世界を前に、感情ではなく“データ”だけが積み上がっていく。
それでも。
風がしらゆきの髪を揺らした瞬間、
ほんの少しだけ——わずかに目を細めた。
「これは……心地良い……?」
自分でも理解できない反応に、しらゆきは首を傾げる。
心地良い。
その概念が何かも知らないのに。
私は、しばらく後ろからついていた。
つい気になってしまったのだ。
「……感情ゼロのはずなのに。
今の、何よその表情」
しらゆきは海辺の岩にそっと触れ、
冷たさを確認するように指を滑らせた。
「海水。安定した塩分濃度。
この村は海に依存している……大切な場所」
その言葉に、胸の中が少し熱くなる。
「……よく気づいたわね。
そう、この港は私の大事な土地よ」
しらゆきが初めて振り返った。
青い瞳が、まっすぐ私を映す。
「主が守ってきた土地。
……私は、その助けになりますか?」
無機質な声なのに、
何故か胸を刺すものがあった。
孤独な何百年も、ひとりで戦ってきた。
誰にも踏み込ませたことがない。
だけど——。
「……ええ。役に立ってもらうわ」
「了解。
私は、主の隣で“学ぶ”存在」
しらゆきはそう言って、ぎこちない笑顔らしきものを作った。
それは笑顔と呼べるほど形にはなっていないのに、
どうしようもなく胸に残った。
村の子供たちが、恐る恐る近づいてきた。
「……あの白い子、こわい」
「でも、きれい……」
「守り姫さまの仲間?」
しらゆきは無表情のまま子供を見つめる。
「あなたたちは主の村の民。
危害は与えません」
「しゃ、喋った……!」
子供たちは逃げるでもなく、ただ驚いて目を丸くした。
しらゆきは私の方へ振り返る。
「主。
私は、この村に受け入れられるでしょうか」
「そんなの……あなた次第でしょうね」
「……あなた次第」という言葉を、
しらゆきはゆっくりと反芻するように口にした。
「……あなた、ですか」
まるで自分を確かめるように。
まだゼロの存在。
感情の欠片すらない精霊人形。
それでもその瞳には、
“初めて世界を知ろうとする生命のきらめき”があった。
私は思わず、小さく微笑んだ。
「しらゆき。
あなたは——世界に触れ始めたのよ」
海霧が晴れ、朝日が港を照らし始める。
この小さな漁村で、
私と人工精霊しらゆきの物語が静かに動き出していた。




