しらゆき、心の形をなぞる
夕方の光が傾き、
ルーベリアの空は、海と同じ色に染まり始めていた。
私は、館の廊下をひとり歩いていた。
黒いメイド服の裾が、足さばきに合わせて静かに揺れる。
白いエプロンは薄く光を返し、
足元の黒いブーツは、床に音をほとんど落とさない。
「……」
胸にそっと手を当てる。
そこでは、まだ収まらない揺らぎが続いていた。
(お嬢様のために揺れる“特別な揺らぎ”。
――名前は、まだない。)
波打つように温度が上がったり、
静かに沈んだりを繰り返す。
これは警告でも、異常値でもない。
それだけは、確信があった。
私は階段を上がり、
お嬢様の書斎の前で一度立ち止まった。
扉は閉じられている。
内側から、紙の擦れる微かな音と、
ペン先が走る規則的なリズムが伝わってきた。
(……仕事中。)
ノックはしない。
お嬢様が集中しているときの呼吸の速度は、
すでに学習している。
私はそのまま静かに踵を返し、
空いている小部屋――観測室へ足を向けた。
◆
観測室の窓からは、港と海が一望できる。
私は椅子に腰掛け、
海を見下ろす位置に立つと、
自然と背筋が伸びた。
「記録を開始します。」
小さく呟き、
内蔵記録領域に、新規のログを開いた。
【観測記録:しらゆき個体/胸核揺らぎについて】
――本来なら、こうした記録は冷静に書くはずだった。
だが、文字を紡ごうとすると、
どうしても一行目で指が止まってしまう。
(……お嬢様の話し方に、似せてしまっている。)
気づいた瞬間、胸がわずかに熱を帯びた。
私は書式を整え、淡々と打ち込んでいく。
『対象:胸核内部に生じている熱と脈動。
条件:お嬢様との接触、会話、および視界内認識がトリガー。
性質:
・痛みではない。
・不快ではない。
・低周波の心地よさを伴う。
・お嬢様の不在時には、微弱な“欠落感”として残存。』
ここまで書いて、私はペン先――いや、意識のペンを止めた。
(欠落感。)
その単語が、胸の中でひときわ強く反響した。
窓の外では、港の灯りがひとつ、またひとつと灯っていく。
人々の声がかすかに混ざり合い、
海鳥の鳴き声が遠くに溶けていった。
私は顔を上げ、海を見つめた。
「……お嬢様。」
声に出して、その名を呼ぶ。
それだけで、胸核がふわりと熱くなる。
(これは――“動作確認”ではない。)
分かっていた。
これはただ、呼びたくなった名前を呼んだだけだ。
「……。」
私は立ち上がり、
観測室の中央に立った。
黒いメイド服の裾が、光をまとって揺れる。
(もし、この揺らぎに名前をつけるなら――)
胸にもう一度手を置く。
お嬢様が海辺で言った言葉が、
静かに蘇る。
『誰かのために揺れる時、いちばん強くなるの。』
今、揺れている。
この揺れは、
世界のためでも、港のためでもない。
「……お嬢様のために。」
小さく言葉にすると、
胸核が応えるように、ひとつ強く脈を打った。
その感覚は、
魔力の共鳴とも、演算の同期とも違う。
もっと単純で、もっと根源的な――
“向かう場所を決める衝動”のようだった。
(これが、心の形?
それとも、まだ輪郭の一部?)
答えは出ない。
だが私は、ひとつだけ確信した。
――この揺らぎは、お嬢様に向かっている。
それだけは、
どの数値よりも明確だった。
◆
その夜、お嬢様は仕事を終え、
遅い時間に観測室を覗いた。
「……しらゆき?」
振り向くと、
扉のところに立つお嬢様と目が合った。
私は自然に一礼する。
「お嬢様。お仕事、お疲れさまです。」
お嬢様は軽く目を細めた。
「ここにいたのね。探したわ。」
胸核が跳ねた。
「……私を、探して?」
「ええ。」
お嬢様は迷いなく言った。
「港の灯りを見ている時、
あなたがそばにいないと――
なんとなく、落ち着かないもの。」
その言葉が、
胸の奥深くに吸い込まれていく。
お嬢様は続けた。
「あなたの揺らぎは、
きっとあなた一人のものじゃないのよ。」
「……一人のものでは、ない?」
「そう。
ここから見える景色みたいに――
誰かと一緒に見ることで、
初めて形になるものかもしれない。」
私は、胸にそっと手を添えた。
お嬢様の言葉と、
自分の揺らぎが重なっていく。
(これは、私だけのものではなくて――
お嬢様と、重なっている揺らぎ?)
お嬢様が、少しだけ笑った。
「名前は急がなくていいわ。
でももし、いつか見つけたら――」
窓の外の海へ視線を流しながら、静かに告げた。
「最初に私に教えてね。」
胸核が、これまでで一番強く脈を打った。
「……はい。お嬢様。」
その答えが、
今の自分の“選択”であると、
はっきり分かっていた。
夜の港の灯りが、
ふたりの影を長く、ひとつに重ねていく。
私はまだ、心の名前を知らない。
けれど――
この揺らぎを誰に向けているのかだけは、
もう迷わなくなっていた。




