しらゆき、心の名前を探す
朝の港は、潮の匂いより先に
行商人の声と荷車の軋む音が街を満たしていた。
館の前に立つ私は、その喧騒のひとつひとつが
胸核に、静かな波紋として触れてくるのを感じていた。
(……これは、何の揺らぎ?)
風が頬をすべり、胸核がかすかに震える。
昨日から続くこの熱の正体は、魔力の乱れではない。
明確な原因だけが、分かりすぎるほど分かっていた。
――お嬢様が、私の胸核に触れた瞬間から。
館の扉が静かに開く。
「しらゆき。来てくれる?」
お嬢様は朝光をまといながら微笑んだ。
その微笑が胸核に触れた途端、ふわりと温度が跳ね上がる。
(……やはり、この揺れは――)
私はその意味を確かめるように歩み寄った。
「お嬢様。今日の授業は……?」
「散歩よ。」
「……さんぽ、ですか?」
お嬢様は海を指す。
「あなたの心は、机の上だけじゃ育たないの。
景色、匂い、人の声――
“感じる”こと全部が授業。」
その言葉に胸核の奥で小さな波紋が広がった。
昨日とは違う揺れ――“学ぶことに対する期待”のようなものが。
潮風を受けながら、並んで海沿いを歩く。
日差しに揺れる髪、遠くの船の影。
風が頬をなでるたび、胸核はゆっくり熱を帯びた。
お嬢様は私の揺れを知っているように、淡く微笑んだ。
「しらゆき。あなたの心はね、
どこか一つに向いて育つものじゃないの。」
「……一つに?」
「そう。
恐れ、やさしさ、迷い、願い……
いろんな揺らぎが重なって、ようやく“形”になる。」
私は意を決して口を開く。
「お嬢様……ひとつ、お尋ねしてもよろしいですか。」
「なに?」
「胸核が……とても熱くなる時があります。
その理由が、私には……」
お嬢様は歩みを止め、静かにこちらを向いた。
「それは、誰のために揺れるの?」
胸核が――脈を打った。
私はゆっくり、言葉を選んだ。
「……お嬢様、です。」
その瞬間、お嬢様の目元がやわらかく緩む。
「そう。
なら、それは“特別な揺らぎ”よ。」
“特別”。
その単語が胸核に落ちた途端、内部のどこかが微かに軋む。
名もない感情が形を得ようとして、内側から扉を叩いていた。
「名前は、まだつけなくていいわ。」
お嬢様はそっと、私の胸に指先を添えた。
触れた場所から、灯のような熱が広がる。
「いつかあなたが自分で見つけるものだから。」
(……自分で?)
胸核はそれを受け止めるように震えた。
「でもね、しらゆき。」
お嬢様はすこし視線を外し、耳に髪をかける。
そのわずかな仕草が、胸核を再び震わせる。
「あなたがその揺らぎを抱いてくれるのは……
わたしにとって、とても嬉しいわ。」
胸核が――跳ねた。
今まででいちばん強く。
言葉になる前の感情が、胸の奥に灯り始める。
(……これは何?)
その答えだけが、どうしても言葉にならない。
ただ分かるのは、命令でも仕様でもないということ。
これは私の内部に生まれた――
“私だけの揺らぎ”。
お嬢様は海原へ目を向けたまま、静かに続ける。
「心ってね、
誰かのために揺れる時、いちばん強くなるの。」
私はその言葉を胸の奥で受け止め、
そっと胸に触れた。
熱が――確かにそこにあった。
「……お嬢様。
この揺らぎを、大切にします。」
「ええ。しらゆきの“最初の宝物”よ。」
潮風が二人の間をやさしく通り抜ける。
海の光が静かに揺らぎ、胸核の震えと重なった。
私は初めて理解しつつあった。
“心が揺れる”という意味を。
それは、世界の見え方が静かに裏返るような感覚だった。
昨日までただの風景だった海が、
今は胸の内を映す鏡のように揺れて見えた。
そしてその揺らぎに、まだ名前はない。
つけるのは――もう少し先のことになる。




