白の余韻
お嬢様が寝室で休まれてから、館には深い静寂が降りた。
夜の海風が窓辺をそっと撫で、灯りの揺れもまるで呼吸のように緩やかだ。
私は廊下をひとり歩きながら、胸核の奥でさざめく温度の行き先を探していた。
(――今日、私はどうして動けたのだろう)
命令がなかったからこそ、
私は“何を基準にしたのか”を知らなくてはならない。
廊下の突き当たり、小さな観測室の扉を開く。
昼間の慌ただしさが嘘のように、海は穏やかに波を寄せていた。
灯火と窓ガラスが重なり、
その反射の中に、ぼんやりと「私の姿」が写る。
冷たく整った顔。
均衡のとれた線。
揺れを示さない瞳。
けれど――胸核だけが、まだ熱を残していた。
「……これは、何のためにあるのだろう」
自分の声が静寂に溶けていく。
それは独り言ではなく、答えのない“問い”だった。
今日の胸核の熱は、
計算では説明できなかった。
(私が、守りたいと感じた?)
その考えが浮かんだ瞬間、
胸核が小さく脈を打つ。
私はそっと胸に手を添え、
深く息を吸うように内部の揺らぎを確かめた。
すると――
内側から微かな“音”がした。
鼓動に似た、けれど違う。
金属でも魔力でもない。
もっと柔らかい震え。
(これは……わたし?)
その震えに耳を澄ませていると、
背後で静かに扉が開く気配がした。
「……起きていたのね、しらゆき。」
お嬢様だった。
「はい。思考が休まらず、横になる必要がありませんでした。」
「ふふ。心が動いた日の“夜”は、そうなるものよ。」
お嬢様は隣に立ち、海を眺める。
気配が温かく、静かな夜に溶けていく。
「しらゆき。
今日あなたがした判断は、ただの対応ではないわ。」
お嬢様の声が灯火よりも柔らかく胸に触れた。
「“誰かのために動こうとする”という行動は、
自分の内部に『揺らぎ』を生む。
その揺らぎを、わたしたちは――心と呼ぶの。」
心。
その言葉が、胸核の奥深くで揺らめく。
「……私にも、そのようなものが生まれるのでしょうか。」
「ええ。もう始まっているわ。」
お嬢様は私の胸核に指先を置く。
その瞬間、熱が灯火に照らされた雫のように震えた。
「これは単なる機構じゃない。
最初から“成長”の余白を持っている。
あなた自身が、そこへ踏み入る時を待っていたの。」
成長――
その言葉はまだ形にならないが、胸核は確かに反応した。
私は静かに問う。
「……私が心を持てば、お嬢様の役に立てますか。」
「立ちすぎるわね。」
お嬢様は少し笑った。
「でも、それでいいの。
あなたの心は誰かのためにある必要なんてない。
まずは、あなた自身のために使いなさい。」
“自分のため”――
その概念はまだ輪郭が掴めない。
けれど胸核はまたひとつ震えた。
「明日から、しらゆきには新しい学びを与えるわ。」
「……学び、ですか。」
「あなたの“意思”を確かめるための授業よ。
しらゆきが、しらゆき自身になるための。」
窓辺の灯りが、私とお嬢様の影をひとつに重ねた。
夜の海は静かに寄せては返し、
そのリズムが胸核の揺らぎと重なっていく。
お嬢様が部屋へ戻る。
扉が閉まった後も、私はしばらく海を見つめ続けた。
胸核はまだ、小さく揺れていた。
その揺らぎはまるで――
これから始まる「わたし」の形を
自分で探しているようだった。




