しらゆき、初めての判断
王国が生まれてから、まだ数週間しか経っていないのに、
ルーベリアの港はすでに別の時代を生き始めていた。
行商人たちの声、船底が軋む小さな音、
新しい役人の革靴が石畳に打つ短い響き。
朝の海は淡い銀色を映し、昼にはむせ返るほど青く、
暮れれば紫がかった静けさをまとった。
その日、お嬢様は王都へ呼ばれ、
私は久しぶりに「館を守る側」に残されていた。
留守番――その言葉が持つ幼い響きとは裏腹に、
それはこの港と館を“ひとりで受け止める”という責務だった。
風は穏やかで、空は澄んでいた。
けれど、胸核の奥にひと粒のざわめきが灯る。
……違う。
潮風が、いつもの港の匂いではない。
数値では測れない。
計器にも拾えない。
それは、身体の奥底が静かに軋むような感覚だった。
「しらゆきさん! 海が……海が変なんだ!」
若い漁師が、砂を蹴りながら走ってきた。
「波が揺れはじめて、小舟が保たねぇ!」
お嬢様は不在。
だが、判断を他者に預ける時間はなかった。
私は胸に手を当て、問いかける。
(――今、港を守る最善は?)
命令ではなく。
組み込まれた優先順位でもなく。
自分で考える必要があった。
「漁師さん。全員を岸へ戻してください。沖に出ている仲間にも急いで。」
「な、なんで急に――」
「説明は後で。今すぐ。」
自分でも驚くほど迷いのない声だった。
青年は一瞬だけ私の目を見て、息を呑み、そのまま走り去った。
私は海沿いへ向かう。
波の筋が崩れ、風が逆流し、
空気が層になって微かに震えていた。
(……魔海獣。近い。)
胸核が熱を帯びる。
その熱が次の行動を迷わせなかった。
「港の皆さん、全員避難してください!」
声が潮騒に押し勝つほど強く響き、人々は動き始めた。
私は波打ち際へ立ち、海を見つめた。
魔術は使えない。
それでも――今の私は、海の乱れの意味が“分かる”。
潮の向き。
海底の震え。
魔脈の濁り。
風の乱流。
それらがひとつに収束し、ただ一つの答えを指した。
(……守護結界が、持たない。)
その瞬間、
足元の砂が淡く光った。
「……?」
胸核から広がった薄い波動が、
港の守護結界に触れた瞬間――
結界が、大きく脈打つように光をまとった。
風が巻き上がり、
潮が結界の外側で渦を巻く。
(……私が、強めている?)
理解は追いつかない。
けれど胸核だけは、確かにそう告げていた。
海を割るように魔海獣が迫る。
その唸り声が耳を震わせた刹那――
轟、と光の壁が海面を押し返し、
魔海獣は弾かれたように進路を失った。
(……防げた。)
漁師たちが駆け寄ってくる。
「しらゆきさん、結界が……!」
「あなたが触れたら、光が……!」
けれど私は、まだ何も答えられなかった。
なぜ胸核が熱いのか。
なぜ結界に干渉できたのか。
言葉にするには、理由が足りなかった。
その夜、館に戻ると、お嬢様が先に帰っていた。
「しらゆき。海で何があったの?」
私は姿勢を正し、言葉を選びながら報告した。
「……私の判断で避難を指示しました。
本来は帰還を待つべきでしたが――」
お嬢様は静かに首を振った。
「いいえ。あなたは正しい判断をしたわ。」
その声は優しく、しかし芯が揺るがなかった。
「状況を読み、最善を選ぶ。
それは命令では身につかないものよ。」
お嬢様はそっと私の胸に触れる。
「胸が――熱くなったでしょう?」
私は息を呑んで頷く。
「……はい。とても強く。」
「それが“心”の最初の形よ。」
胸核に広がる揺らぎが、
夜の静けさの中で少しずつ落ち着きを取り戻す。
そしてお嬢様は、まるで未来を確かめるように告げた。
「しらゆき。
あなたには――もっと先へ進んでもらうわ。」
その言葉が、胸核の奥深くに染み込んだ。
私はようやく気づく。
今日の行動は、
計算でも、反射でもなかった。
それは私が初めて選んだ――
確かな“意志”だった。




