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第3話:初めての笑顔と“もふもふ”な日常

アレクシスから「城と彼のことを知る」という、不思議な仕事を与えられた少女は、その翌朝から、緊張と、そして生まれて初めての期待感に胸を膨らませていた。彼女は、与えられた役割を全力で果たそうと、夜明けと共に目を覚まし、侍女に手伝ってもらって身支度を整え、主の呼び出しを今か今かと待っていた。


やがて、朝の公務を終えたアレクシスが、彼女の部屋を訪れた。

「おはよう。よく眠れたかな?」

「は、はい!」

少女が、まだ少し硬いながらも、はっきりとした声で返事をする。その小さな変化が、アレクシスには嬉しかった。

「では、早速“仕事”を始めようか。まずは、君の新しい家となる、この城の庭を案内しよう」


アレクシスに導かれ、少女は初めて城の広大な庭園へと足を踏み入れた。そこは、手入れの行き届いた、色とりどりの花々が咲き乱れる楽園のような場所だった。清らかな水のせせらぎ、小鳥たちの歌声、そして花の甘い香りが、優しい風に乗って運ばれてくる。


少女は、そのあまりの美しさに、ただただ目を丸くしていた。

ふと、彼女の視線が、木漏れ日が優しく降り注ぐ、柔らかな芝生の一画に注がれる。その温かそうな光の斑点を見つめるうち、彼女の体は、まるで引き寄せられるかのように、無意識のうちにそちらへ向かおうとした。その黒髪の間から覗く猫の耳が、心地よい光を捉えて、ぴこ、ぴこと小さく動いている。尻尾もまた、期待に満ちて、ゆっくりと左右に揺れていた。

(あたたかそう…あそこで、丸くなって、お昼寝したら…)

そんな、抗いがたい本能的な欲求が、彼女の心を支配しかける。はっとして、彼女は慌ててその場に立ち止まり、顔を真っ赤にした。はしたない、獣のような本能を、この方の前で見せてしまうところだった、と。


だが、アレクシスは、そんな彼女の葛藤を、咎めるどころか、非常に愛おしそうな目で見守っていた。

「どうしたんだい? あそこの陽だまりが、君を呼んでいるように見えるが」

彼は、悪戯っぽく笑いかける。

「遠慮することはない。庭の陽光を全身で浴びて、その心地よさを知ることもまた、この城を知るための、とても大切な“仕事”の一つだよ」

そのあまりにも優しい言葉に、少女は俯きながらも、その口元が、ほんの少しだけ綻んだ。


二人の散策は、再び厨房へと続いた。

料理長のゴードンは、王の後ろに立つ少女の姿を認めると、ぶっきらぼうな口調ながらも、カウンターの下から小さな受け皿を取り出した。

「…猫には、これが一番だろう」

そう言って彼が差し出したのは、温められたばかりの、新鮮なミルクだった。

「ゴードンさん、これは…」

「陛下のお客人に、腹を空かせたままお帰りいただくわけにはいかねえんでさァ。さあ、嬢ちゃん、飲んだ飲んだ」

少女は、おずおずと、しかし嬉しそうにその皿を受け取ると、こくこくとミルクを飲み始めた。小さな喉が動き、時折、桃色の舌がぺろりと唇を舐める。その姿は、王の客人というよりも、ただただ愛らしい子猫そのものだった。その様子を眺めるアレクシスの表情は、自分でも気づかぬうちに、すっかり緩みきっていた。


厩舎では、愛馬のストームが、まるで旧知の友を迎えるかのように、少女にその頭を優しくすり寄せた。少女も、もう怖がることなく、その滑らかな毛並みを、小さな手でそっと撫でてやる。その時、厩舎の隅の藁の中から、一匹のネズミが飛び出してきた。

その瞬間、少女の琥珀色の瞳が、カッと鋭い光を宿した。彼女の体は、一瞬、しなやかな狩人のように低く沈み込み、その視線はネズミの動きを完全に捉えている。だが、すぐに自分がどこにいるのかを思い出し、慌てて元の姿勢に戻って、恥ずかしそうにアレクシスを見上げた。

アレクシスは、思わずくすりと笑ってしまった。彼は、彼女が時折見せる、隠しきれない獣としての本能を、決して奇異なものとしてではなく、彼女を構成する、愛すべき個性の一つとして、心から受け入れていた。


「仕事」は、アレクシスの私的な空間へと移っていった。

普段は、宰相と近衛兵以外、誰も立ち入ることのない彼の私室。そこは、政治に関する難解な書物だけでなく、植物図鑑や、天体の運行を記した古文書、そして彼自身が描いたのであろう、風景のスケッチなどが、無造作に置かれていた。

「これは、月下草という植物だ。その名の通り、満月の夜にしか、花を咲かせない」

彼は、窓辺に置かれた小さな鉢植えを指差した。その葉は、月の光を吸ったかのように、どこか青白い輝きを放っている。

「君を森で見つけた時、ちょうど満月だった。そして、君の瞳の色が、まるで月の光そのものを閉じ込めたように見えたから…君に、『ルナ』という名前を贈りたいと思ったんだ」


ルナ。

彼が、自分のために考えてくれた、自分だけの名前。

その事実に、少女の胸は温かいもので満たされていく。彼女の背後で、嬉しそうに揺れていた尻尾が、テーブルの脚にこつんと当たった。

「おっと」

アレクシスは、その光景に微笑んだ。言葉よりも雄弁に感情を語る、その素直な耳と尻尾の動き。宮廷に渦巻く、貴族たちの腹芸に満ちた言葉よりも、遥かに信頼できる、真実の言葉だった。

王としての重圧、そして「天啓の瞳」が絶えず拾い上げてくる国の痛みを、一人で背負い続ける彼にとって、この少女の、ただそこにいるだけで伝わってくる純粋な感情は、何物にも代えがたい癒やしとなっていた。


そして、その日の午後。

二人は、城で一番見晴らしの良い、西の塔のバルコニーにいた。眼下には、王都の美しい街並みが、まるで箱庭のように広がっている。

「あそこが、君と私がよく行くパン屋さんだ。そして、ずっと向こうに見えるのが、君と出会った、清澄の森だよ」

アレクシスが、楽しそうに指差して説明する。ルナは、自分が歩んできた短い道のりを、その場所から改めて見つめていた。


その時だった。

どこからか飛んできたのだろう、一羽の小さな青い鳥が、まるで歌うようにさえずりながら、バルコニーの手すりに、ちょこんと止まった。それは、フェリシアにしか生息しない、幸せを運ぶ鳥として民に愛されている「空色スズメ」だった。


ルナの注意は、一瞬でその小さな訪問者に奪われた。

彼女の猫の耳は、鳥の美しい歌声を捉えようと、興味深そうにぴこぴこと動いている。琥珀色の大きな瞳は、好奇心と純粋な驚きに、きらきらと輝いていた。


アレクシスは、鳥ではなく、そんなルナの横顔を、ただ黙って見つめていた。

彼は、自国の美しい風景を、生まれてからずっと見てきた。だが、その美しさが、彼女の瞳という鏡に映し出されることで、これほどまでに色鮮やかで、かけがえのないものに見えることを、彼は初めて知った。


空色スズメは、二人を怖がるでもなく、喉を震わせ、得意げに、美しいメロディーを奏で始めた。

その歌声を聞き、頬を撫でる優しい風を感じ、そして何よりも、自分に新しい世界と、新しい名前をくれた、世界で一番優しい人の隣にいる。その、温かくて、満ち足りた幸福感が、ルナの中で、ついに堰を切って溢れ出した。


「ふふっ…」


それは、鈴が鳴るような、小さくて、澄んだ笑い声だった。

作り笑いでも、怯えの裏返しでもない。心の奥底から、何の屈託もなく、自然に湧き上がってきた、生まれて初めての、純粋で無垢な笑顔だった。


その声に、アレクシスは、はっと息を呑んだ。

彼は、宮廷で、貴族たちの儀礼的な微笑も、民からの感謝に満ちた笑顔も、数え切れないほど見てきた。だが、今、目の前にあるこの笑顔は、そのどれとも違う。まるで、世界の全ての祝福が、その一点に凝縮されたかのような、完璧な輝きを放っていた。


彼は、もう、堪えきれなかった。

アレクシスもまた、彼女の笑顔につられるように、今までにないほど幸せそうな、満開の花が咲き誇るような、満面の笑みを浮かべた。


王の心からの笑顔と、少女の初めての笑顔が、午後の柔らかな日差しの中で、確かに重なり合う。

その瞬間、彼女の心の周りにあった最後の氷の壁は、跡形もなく、完全に溶けてなくなった。

そしてアレクシスは、この国を守ることと、このたった一つの笑顔を守ることは、自分の中で、もはや同義なのだと、強く、そしてはっきりと悟ったのだった。

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