第2話:閉ざされた心と恩返しの願い
アレクシスが小さな少女を腕に抱き、城へ帰還したという知らせは、すぐに城内を駆け巡った。宰相のギルバートをはじめ、侍女たちは王のただならぬ様子と、その腕の中でぐったりとしている獣人の少女の姿に息を呑んだ。
「陛下、そのお子は一体…」
「話は後だ、ギルバート。すぐに腕利きの侍医を私の私室へ。それから、侍女たちは沐浴の準備を。静かで、一番日当たりの良い客室を用意してくれ」
アレクシスの冷静かつ的確な指示に、城内はにわかに活気づく。彼の声には、有無を言わせぬ王としての威厳が宿っていた。侍女たちはすぐさま湯を準備し、侍医は薬箱を手に駆けつけた。
少女の体は、熟練の侍女たちの手によって優しく清められた。泥と垢を落とした肌には、痛々しい傷跡が無数に残っている。彼女たちが用意した、柔らかで清潔な寝間着に着替えさせられ、ふかふかの羽毛布団が敷かれた寝台へとそっと横たえられた。
「極度の衰弱と栄養失調ですが、幸いにも命に別状はございません。陛下が初期の治癒魔法を施されたのが功を奏したかと。あとは、とにかく栄養のあるものを摂らせ、安静にさせておくことですな」
侍医の言葉に、アレクシスは胸をなでおろした。彼はそれから数日間、公務の合間を縫っては何度も少女の部屋を訪れ、その寝顔を見守り続けた。
そして、嵐の過ぎ去ったある晴れた日の午後、少女はついに長い眠りから目を覚ました。
最初に彼女の目に映ったのは、見たこともない豪奢な天蓋と、刺繍の施された滑らかなシーツだった。柔らかな寝具の感触、部屋に満ちる微かな花の香り。全てが、彼女が今まで生きてきた薄汚れた世界とはかけ離れていた。
(…どこ、ここ…?)
混乱と恐怖が、彼女の小さな心を支配する。状況が理解できないまま体を起こすと、部屋の扉が静かに開き、一人の侍女が食事の乗った盆を手に現れた。
「あら、お目覚めになられましたのね。気分は…」
「シャァァーーッ!!」
侍女の優しい言葉を遮り、少女は喉の奥から威嚇の声を絞り出した。ベッドの隅まで後ずさり、シーツを固く握りしめ、逆立てた髪の間から怯えと敵意に満ちた瞳で相手を睨みつける。その姿は、まるで追い詰められた野生の子猫そのものだった。
驚いた侍女は、ひとまず盆を床に置くと、静かに部屋を退出した。
それからというもの、少女は固く心を閉ざしてしまった。
侍女たちがどれだけ優しく話しかけても、彼女は言葉を発しない。差し出された食事には一切手をつけず(毒を警戒しているのだろう)、誰かが不用意に近づこうものなら、すぐに鋭い威嚇の声をあげた。
報告を受けたアレクシスは、侍女たちにこう命じた。
「無理強いは決してするな。彼女が心を許すまで、我々が待つんだ。食事は、必ず私の前で毒見をした後、部屋の前に静かに置いておけ。彼女が安心できる時に食べられるようにしてくれ。今はただ、ここが安全な場所だと、彼女自身が理解することが何より重要だ」
アレクシスは自ら部屋を訪れることはせず、ただ遠くから彼女を見守った。時折、扉の隙間からそっと中の様子をうかがうと、周囲に誰もいないことを何度も確認してから、少女がおずおずと食事に手を付ける姿が見えた。その姿に、彼は静かに安堵のため息をつく。
そんな日々が二週間ほど続いた頃には、少女の態度は少しずつ軟化していた。威嚇することはなくなり、侍女が目の前で盆を置いても、ただじっと見つめるだけになった。そして何より、十分な栄養を摂ったことで、その体は見る間に本来の子供らしい丸みを取り戻し、やつれていた頬にも血の気が差すようになっていた。
その日、アレクシスは満を持して、初めて彼女の部屋を公式に訪れた。
扉を開けると、窓辺の椅子に座っていた少女は、ビクッと体を震わせた。だが、彼が森で自分を助けてくれた人物であることは何となく覚えていたのだろう。威嚇することはなく、ただ緊張した面持ちでアレクシスを見つめている。
「やあ。驚かせてしまったかな」
アレクシスはできる限り穏やかな声で語りかけると、彼女から十分な距離をとった場所にある椅子に腰を下ろした。
「体は、もう大丈夫かい?」
少女は、小さな頭をこくりと縦に振った。それが、彼が彼女から受け取った最初の明確な意思表示だった。
「そうか、良かった」
アレクシスは心から微笑むと、少しだけ真剣な表情になった。
「君に、今後の話をしなければならない。よく聞いてくれるかな」
彼は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「君はもう自由だ。誰にも、何にも縛られる必要はない。だから、これからどうしたいか、君自身の意志で決めてほしいんだ」
彼は、少女の琥珀色の瞳をまっすぐに見つめて言った。
「一つは、このまま国の庇護下に入り、この城か、あるいは城下の静かな施設で安全に暮らすこと。もう一つは、もし君がこの国を出て、新しい土地へ旅立つことを望むなら、その支援をすることだ。十分な路銀も、信頼できる護衛も用意しよう。全ては、君の自由だ」
少女は、アレクシスの言葉に衝撃を受けていた。
獣人である自分は、これまで人間から石を投げられ、蔑まれ、追い立てられるばかりだった。そんな自分を救ってくれたばかりか、まるで対等な人間であるかのように、未来の選択肢まで与えてくれる。こんな人間がいることが、彼女には信じられなかった。
彼の言葉に嘘はない。その真摯な瞳が、何よりも雄弁に物語っていた。
胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
捨てられ、追われ、誰からも顧みられず、森の中で独り静かに死ぬのだと思っていた自分。その命を拾い上げてくれたこの人。この温かい恩義に、どうすれば報いることができるだろう。
彼女の中で、一つの決意が固まった。
おずおずと、少女は椅子から降りた。そして、アレクシスの前まで歩み寄ると、何の躊躇もなく、その場に膝をついて深々と頭を下げた。
「……どこにも、行くあては、ありません」
か細いが、凛とした声が静かな部屋に響く。それは、彼女がこの城に来てから初めて発した言葉だった。
「命を、救っていただきました。このご恩に報いるまで、私は死ぬわけにはいきません」
少女はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、先ほどまでの怯えの色はなく、強い意志の光が宿っている。
「どうか、お願い申し上げます! どんな小さな仕事でも構いません。掃除でも、洗濯でも、お庭の手入れでも、何でもします。ですから、どうかこの国に、このお城にいさせてください!」
それは、彼女が自分の意志で未来を掴み取ろうとした、生まれて初めての懇願だった。
アレクシスは、彼女の健気な願いと、その小さな体に宿る魂の強さに心打たれた。彼はしばらく黙って彼女を見つめていたが、やがてその口元に優しい笑みが浮かんだ。
「分かった。君の願い、確かに受け入れよう」
彼は椅子から立ち上がると、少女の前に膝をつき、その目線に高さを合わせた。
「では、君に最初の仕事を与えよう」
「は、はい!何なりと!」
「そう気負わなくてもいい。君の最初の仕事は…そうだな。まずは、この城のこと、そして私のことを、ゆっくりと知っていくことだ。それができるまで、焦る必要はないよ」
予想もしなかった「仕事」の内容に、少女はきょとんと目を丸くする。その無垢な表情を見て、アレクシスは思わず穏やかな笑い声を漏らした。
その瞬間、二人の間に結ばれた新しい絆が、この国の未来を大きく変えていくことになるのを、まだ誰も知らなかった。




