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第1話:お忍び王と森の子猫

大陸中西部に位置するフェリシアは、小国ながらも豊かな自然に恵まれた国だった。どこまでも広がる麦畑は黄金の絨毯のようであり、国土を縦断する大河はその名の通り、人々に慈悲深い恵みをもたらしている。峻険な山脈や広大な砂漠とは無縁の、穏やかな丘陵地帯に抱かれたこの国では、ゆったりとした時間が流れていた。


この国の若き王、アレクシス・フォン・フェリシアは、執務室の窓から見える城下の風景を眺め、そっと笑みを浮かべた。市場の喧騒、畑仕事へ向かう人々の列、子供たちのはしゃぎ声。その全てが、彼にとっては何物にも代えがたい宝物だった。


「…さて、もう少し頑張るか」


彼は視線を机上の書類の山に戻す。近隣諸国との交易協定の見直し、国内の治水工事に関する陳情、新しい街道の建設計画。王の仕事に終わりはない。だが、彼はそれを苦痛だと思ったことは一度もなかった。この国の平和な日常は、こうした地道な営みの先にこそ成り立つのだから。


彼を知る者は少ないが、アレクシスは、その気になれば大陸の地図を一夜にして塗り替えられるほどの「規格外の魔法」の持ち主だった。それは、世界の理そのものに干渉し、天変地異すら意のままに操る神の如き力。しかし、彼はその力を振るうことを何よりも嫌っていた。力とは、守るためにこそあるべきだ。振りかざし、奪うためのものでは断じてない。それが、若き王の揺るぎない信念だった。


だから彼は、今日もただ願う。この愛すべき国と民の、穏やかな日々が一日でも長く続くことを。


数時間が経ち、ようやく書類の山に一区切りがついた頃、アレクシスは凝り固まった体を伸ばすと、おもむろに立ち上がった。そして、壁に掛けられていた豪奢な王の礼服ではなく、使い古された簡素な旅人の服を手に取った。


「陛下、またお忍びで?」

背後から、心配そうな声がかけられる。幼い頃から彼に仕える老宰相、ギルバートだ。

「ああ、少しだけだ。机の上で見る数字だけでは、国の本当の姿は見えてこない」

「万が一のことがあっては…」

「大丈夫だよ、ギルバート。この国で私を害そうとする者などいやしないさ。それに、君とて知っているだろう? 私がそう易々とやられる男ではないことを」


アレクシスは悪戯っぽく笑う。その笑みには、絶対的な強者の余裕が滲んでいた。ギルバートは深いため息をつきながらも、それ以上は何も言わなかった。王の意思は、そしてその実力は、誰よりも彼が一番よく知っているのだから。


城の裏門から愛馬を駆り、アレクシスはあっという間に城下の喧騒に溶け込んだ。

「よう、アレクさん! 今日はいい天気だな!」

「ああ、本当に。パンの焼けるいい匂いだ」

パン屋の屈強な店主と気さくに挨拶を交わす。彼がお忍びの際に使う偽名は、ただのアレク。身分を隠して町を歩けば、民の偽りのない本音が見えてくる。

「アレクのお兄ちゃん!」

果物売りの少女が駆け寄ってくる。彼は慣れた手つきで銅貨を数枚渡し、真っ赤なリンゴを一つ受け取った。

「ありがとう。お母さんの具合はどうだい?」

「うん、お兄ちゃんが前にくれた薬草のおかげで、すっかり良くなったよ!」

「そうか、それは良かった」


少女の屈託のない笑顔に、アレクシスの心は温かくなる。彼が守りたいのは、こうしたささやかな幸せの光景だった。帝国の脅威、貴族たちの権力争い、そうした世界の喧騒から、この国だけは守り抜きたい。その想いを、彼は改めて強くした。


城下町を抜け、彼は国の水源でもある「清澄の森」へと馬を進めた。幾重にも重なる木々の葉が陽光を和らげ、ひんやりと澄んだ空気が心地よい。小鳥のさえずりと、小川のせせらぎ。ここは、王としての責務を忘れ、ただのアレクシスに戻れる、彼にとって特別な場所だった。


馬を降りて、泉のほとりで一息つく。先ほど買ったリンゴをかじりながら、森の静けさに耳を澄ませていた、その時だった。


ふと、彼の表情から穏やかさが消えた。

彼の持つ人並み外れた感覚が、森の奥から放たれる微かな「気配」を捉えたのだ。それは、風に乗って運ばれてくる花の香りや、獣たちの息遣いとは全く違う。まるで消えかけの蝋燭の灯のようにか細く、それでいて悲痛な叫びを上げるような、生命力の揺らぎ。普通の人間なら、いや、熟練の狩人や魔術師でさえも、決して気づくことのない微弱な信号だった。


「…なんだ?」


胸騒ぎを覚え、アレクシスは食べかけのリンゴを置くと、気配のする方へと慎重に歩を進めた。獣よけの結界が張られているこの森に、危険な魔獣がいるはずはない。ならば、一体…。


茨の茂みをかき分け、幾重にも絡み合った蔦を払い、彼は森のさらに奥深くへと入っていく。気配は、少しずつ強くなっていた。

やがて、ひときわ大きな樫の木の根元に、その気配の源を見つけた。


「これは……」


そこにうずくまっていたのは、小さな影だった。

泥と土に汚れ、所々が裂けた粗末な貫頭衣を纏っている。年の頃は十歳にも満たないだろうか。震える背中からは力なく尻尾が伸び、もつれた黒髪の間からは、ぴくりとも動かない猫の耳が覗いていた。獣人の、それもまだ幼い少女だった。


彼女は完全に意識を失っており、その呼吸は聞き取れないほどに浅い。素足のままの小さな手足には無数の擦り傷があり、頬はやつれ、唇は乾ききっている。一体どれほどの時間、飲まず食わずでこの森を彷徨っていたのだろうか。


アレクシスは驚きつつも、すぐに駆け寄り、その傍らに膝をついた。まず、そっと首筋に指を当て、かろうじて脈があることを確認して安堵の息を漏らす。

彼は急いで水筒を取り出すと、清潔な布に水を含ませ、少女の乾いた唇を優しく湿らせてやった。次に、彼女の傷だらけの小さな手にそっと触れる。


「…安らかに」


短い祈りと共に、アレクシスの手から温かい光が溢れ出す。それは治癒魔法の基礎、対象の苦痛を和らげ、心身を落ち着かせるためのもの。彼が持つ本来の力に比べれば、赤子が火をおこすような初歩の魔法だ。だが、今の衰弱しきった彼女には、これくらいが丁度いい。


光に包まれた少女の苦しげな表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。

アレクシスは、この小さな命を救うことを、迷わず決意した。誰が、何のために彼女をこんな場所に追いやったのかは分からない。だが、少なくとも自分の目が届く場所で、こんな理不尽な終わりを迎えさせてはならない。


「大丈夫だ。もう、大丈夫だから」


彼はそう呟くと、羽織っていた自身のマントを脱ぎ、それで少女の体を優しく、しかし確りと包み込んだ。そして、壊れ物を扱うかのように慎重に、その小さな体を抱き上げる。驚くほどに軽い。今まで彼女が背負ってきた過酷な運命の重さが、その軽さに凝縮されているようだった。


アレクシスは静かに森を振り返り、そして決然と背を向けた。

穏やかだったはずの王の日常に、新しい、そして何としても守り抜かねばならない存在が加わった瞬間だった。

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