第六章 闇の眷属の宴
香炉の煙が細くゆらゆらと揺蕩う。
二つの空の白磁の器は濃い茉莉花の匂いがまだ残る。鮮やかな朱色の布張りの椅子、寝台は金の帷がかかり、天井からいくつもの薄絹の天蓋が下がる。
オウカの私室にて扉が二度、控えめに叩かれた。
「申せ」
書を認める手を止めずオウカが応える。
「私です」
「…入れ」
深緑の上衣を正してジャックが一礼する。
「オウカ様。……お伺いしたいことがあって」
紅の瞳が光り筆先からゆっくりと上がる。
「聞こう」
ジャックは一歩近づく。声が震えた。
「……あの日の、謁見でのことです。私には、まだ――」
ザ、と小さな衣擦れの音。
燭台の炎のいくつかが同時に細く揺れる。
「下がれ」
銀色の刃が閃く。
弾かれた弓矢が天井に刺さった。
格子窓の外で黒い影が揺れて天井の木目が一瞬だけ歪み上から逆さの影が落ちた。
ジャックは反射で剣を抜いた。
「…襲撃!?」
オウカが面倒そうに低く小さく呟いた。
「……我の私室は宴席ではないのだがなぁ」
扉から黒衣と白衣が滑り込んだ。
ゼノンが入って即座に短剣を飛ばした。
格子窓を魔法で抜けた敵がくぐもった音をさせて倒れ込む。
「結界を頼む」
ブランシュが白い袖を翻しすでに床に円を描いている。
「もう出来ますわよ」
彼女の詠唱により部屋の縁がカッと光った。
全身黒い布を纏うを人間なのかわからないモノたちが隠密の術を解いて姿を表す。
出たままの長い舌に紫の印。指の関節に刻まれた奇妙な紋。四本蠢く腕に巻かれた黒い字が刻まれる布。
ジャックは斜めに踏み込み蠢く腕に斬りかかった。
魔物――そう感じた瞬間、横からジャックの喉元を狙って短剣が走る。
オウカの刃が短剣の主の手首だけを切り落としていた。
「……ルーアンの紋」
ジャックは落とされた手首の袖を見た。青と白の刺繍。女神を守る騎士を象る意匠――ルーアン国軍の紋様だ。
「ルーアンが……ここまで卑劣な……!」
「殿下、あれ程挑発すれば当然ここに暗殺者が来ますよ」
ゼノンの間の抜けた解説が入る。
オウカの後ろ目掛けて彼の短剣が飛んだ。ぼて、と見えない敵が倒れ込む音がした。
床下から濁った囁きが這い上がり甘い香りが瞬間強く鼻を刺した。
ブランシュが眉をひそめる。
「媚香に聖紋……人に効く類ですわ。目は濁り…正気ではありませんわね。悪趣味にも、魅了をかけられてから魔物の血を入れられたのかしら……」
オウカが一歩、進む。
剣を水平に薙ぎ次々と"人だった者"たちの首が落ちてゆく。
「哀れよ」
心底悲しむような声色。
「主が阿呆だとこうして無駄死にするのだ」
ジャックと応戦していた敵が死を目前として自ら爆発する。
爆風に透明な膜がふわりと纏い、勢いを失って消えた。
「結界は万全――とはいえあまり長くは持ちませんわよ」
「短くてよい」
オウカは刃の血を払うように床を滑った。
巨大な剣が何体も現れる異形の敵をまとめて屠った。
ジャックはゼノンと背を合わせる形で構え直しそれぞれ踏み込み倒していった。
そうして幾度か繰り返す内、辺りは急に静まった。
残ったのは、血の匂いと、返り血で斑になった豪奢な絨毯。
白磁の器は倒れ、香炉の蓋がずり落ち、茉莉花の香が血の鉄臭に押し潰されている。
オウカは剣を鞘に収めると、眉をわずかに寄せ、部屋を見回す。
「……我の私室が汚れてしもうた」
ジャックは剣を持ったまま膝をついた。
「……私が、もっと……」
言葉は続かない。手が震えている。さっきまで燻っていた迷いが、別の形で胸を締め付ける。
ブランシュは白い袖で隠し、鼻先で笑う。
「殿下ったら、本当に分かりやすいわねえ」
小さく指を鳴らした。
「――もう出てきてもよろしくてよ」
奥の天幕がふわりと揺れた。
角の金の絹布に女性の人影が見えた。
王女セリーヌ
彼女は姿勢を崩さず、静かに床へ膝をつき、オウカの前に深く頭を垂れた。
「……どうか先程のお話の続きを」
しっかりとした口調だが、声がかすかに震えていた。
「枢機卿ヴィルヘルムは王を幽閉し、女神の名を盾に国を掠め取りました。
“聖女”リナ様が御言葉を与えるたび徴と称して民から奪う。異を唱える者は魅了で家族さえも見分けられなくなる。……今夜の者たちも、見ての通り」
ジャックは立ち上がり言葉を詰まらせる。
「……生きて……いたのか」
ゼノンが優しく言った。
「あれは全て茶番です。戦のための」
ブランシュは冷ややかに片眉を上げた。
「セリーヌ王女をきっかけに私たちは軍を動かして攻め込めますし、そうしたらルーアンも総力戦。聖女や枢機卿も出てきますでしょ」
ふぅ、と駄々っ子を見るようにジャックを見据える。
「――オウカ様の策には、殿下はお子ちゃますぎますわ」
顔を赤くするジャックを眺め、オウカは鷹揚に微笑み紅の瞳を細める。
「お主は顔に出過ぎるからのう」
セリーヌに視線を戻した。
「続けよ」
セリーヌは頭を垂れたまま滔々と語る。
「リナ様は……異界から召された女。
女神に愛されていると謳われ、豪奢な生活を求め、怪しい力を使い可愛らしく笑います。
枢機卿はその笑顔と“奇跡”を聖女の力で演出し人々を惹きつけました。
薬草や香水を使い政敵を暗殺し、民も兵も聖女の魅了で惑わせ…
王は“病”のまま廷の言葉は全て女神の御心とやらに塗り替えられる。
……私はあの広間の前にブランシュ様の手引きで密かにオウカ様へ接触し“死”の舞台をお願いしたのです。
彼らはオウカ様を畏れています。
私が死んだことにすれば私の名を使い大々的にオウカ様を討ち取りに来る――」
言葉が途切れセリーヌはさらに深く頭を垂れた。
「どうかルーアンの民のために、オルテガのために……お力をお貸し下さい。その末は、この命如何様にも…」
オウカは彼女のすぐ前まで歩み寄る。
すっと、セリーヌの頭に白い手のひらを載せた。まるで洗礼のように、宣誓のように、子をあやすように。
「……承る」
優しい微笑みはまるで聖女であった。
「この国にとっても成さねば成らぬ故。
隣国の狂いは此処を脅かす。この地の民を救う道でもある。
そして聖女リナとやら――憎き女神の尻拭いは甚だ遺憾ではあるが…圧政者は全て我が粛清する」
ジャックが息を呑む。
「オウカ様……」
「未熟なる王族よ」
オウカが横目で笑う。
「迷いは惑いを呼ぶ。迷うなとは言わぬ。だが、誤るなよ」
ゼノンが頷く。
「今夜の遺骸は私が始末しておきますから。証拠も残しておきますね」
ブランシュはもう一つ円を床へ描きながら、涼しい声で言った。
「寝具は総取替え、絨毯は焼却、っと――掃除は私の管轄ではありませんけれど、オウカ様のためですから最短でいたしますわ」
オウカが愉快そうに笑う。
「一滴の汚れも残すでないぞ……早う床に着きたいのう」
セリーヌは頭を垂れた姿のまま、そっと問う。
「……私は、どこまで話してよろしいでしょう」
「必要な分だけだ」
オウカは即答した。
「我等が動くに足る分。敵が怯むに足る分。まあ夜はまだ長い故、片す間に語れるだけ語るがよいわ」
夜は濃くなっていく。
扉が内側から静かに閉じられる。
宴は終い、しかし必ず朝は訪れる――その朝は戦いの日々の幕開け。
静まり返った暗闇に、束の間の平穏を、扉の隙間から漏れる笑い声が示していた。