第五章 慈悲深き王
城内の火が揺れ大理石に影が落ちる。
集まった大臣、貴族達は落ち着きがない。
椅子の肘木を握る手、指輪を摘まむ指、遠慮がちな咳払い――誰もが扉の向こうを横目に見る。
蝶番が軋み、扉が開いた。
青地に宝石を散らした薄い衣を纏い、緊張しているのか少し青白い顔に金髪が貼り付く。
ルーアン王女、セリーヌ。
「聖女オウカ様、そしてオルテガの皆々様」
優しげにセリーヌが言葉を紡ぐ。
「私たちは戦を望みません。女神の聖女リナ様が示す通り、この世に秩序を保つのは和解と従属です。
戦は日常を壊します。
畑は焼け、井戸は泥と血で使えず、空になった食糧庫。
夫を失った妻は朝夕働き、子供たちは暗い家屋で空腹に耐え、老人達は捨てられて忘れられ誇りを失うのです――」
人々が肘木を握る指が白くなった。
額に汗が滲む。喉仏だけが上下し、誰一人何も言わない。
「我が国の聖女は安寧をお望みです」
ジャックが大きく息を吐き、わずかに眉を寄せた。
セリーヌは場の中心へ一歩進み、くるりと見渡す。
「オルテガ国が我らの庇護に入るなら、軍は国境に置き、城下は平穏のままです。
剣ではなく、誓約で未来を護りましょう!」
老臣は額の汗を拭い、王妃は目を伏せ、若い臣下は膝の拳を開いては閉じる。
(戦わねば民は血を流す。属国へ降れば――)
ジャックは肘木を掴んだまま俯いた。胸の底へ石が沈ンダように重かった。目は正面を向いているのに、視界の縁が薄く滲む。
答えは見えない。重い沈黙が落ちる。
――戦を避けるには、降るしかないのか。
セリーヌは尚も言葉を重ねる。
「どうか、血を流さず、女神の御心に従い――」
ドッ
重い打撃音に火が一斉に震えた。
紅の衣が揺れ刃はすでに鞘へ戻っている。
セリーヌの身体がのけぞって倒れた。
青地の衣に赤色がじわりと滲む。金色の裾から崩れ落ち、その音が絨毯に低く響いた。
鉄の匂いが静かに広間を満たす。
――オウカがぐるん、と謁見の間の全ての人間をゆっくりと見回した。
瞳は氷のように冷たく澄んでいる。
「姫は気が狂っていた。……そうだな?」
大臣のひとりが唇を動かしかけ、隣に袖を引かれて止まる。
誰かの指輪が小さく鳴り、すぐ静まった。
静寂。
「オウカ様……」
ジャックは立ち上がりかけたまま固まっていた。
「……話を、聞かずに」
それ以上は言えない。言葉は彼の中で砕けた。
鼻先で短く笑う気配。
オウカの視線が若い王子の言葉を冷たくあしらう。
返す言葉はない。返す必要もない――その沈黙がそう告げる。
ゼノンは無言で遠くを見つめている。
ブランシュは白い袖の中で指先を固く握った。瞳の奥に熱が走り、すぐ消えた。
侍女たちが急いで白布を広げ、青と金のその身体は覆われ、白い布の中で揺れた。布の端から血が細い筋となって這い、絨毯へ吸い込まれていく。
繰り広げられた短くも激しい一幕の衝撃がゆっくりと鎮まり、囁きが聞こえ始める。
「……狂信の暴走という、筋書きか」
「教会の狂信的な女神信仰と聖女リナによる洗脳……」
「使者の王女は錯乱し聖女が場を納め……」
「我が国は隣国ルーアンの民の保護のために軍を出す――十二分な理由だ」
紙も筆もないままに物語が生まれていく。戦への道が、低く細く這ってゆく。
玉座の王がゆっくりと瞼を上げた。
深い皺の陰で諦めと覚悟を宿した目が、広間をひと巡りする。
「……戦は、避けられぬ。分かっていたことだ」
澱んだ空気がひとつの形を取る。
臣下は目を伏せ、王妃は指輪を根元へ押し戻す。ジャックは動けず、胸に残った問いだけが冷えていく。
オウカは血のを踏まず、静かに立っていた。
影が長く伸びる。誰も言葉をかけない。かける言葉を、誰も持っていない。
その夜、城下に降りたのは高尚な演説でも巧みな甘言でもなかった。
――信仰に狂った国が王女を錯乱させ、聖女は使者として来訪した王女を討ち、ルーアン救国のため進軍す。
王都から国境へ、貴族から領地へ、伝令は瞬く間に拡がる。
物語は戦記へと温度を上げてゆく。
救世の進軍、その響き美しく。
死の匂いを、愛喪する恐れを、未来の薄暗さを……全て覆い隠し希望光る紅蓮の焔となって広がった。