第三章 葬列の紅刃
明朝、魔物討伐を続けた一行だったが、突然鳥が飛び立ち、魔物の一群が逃げ惑った。
谷が震え風は重くなり、樹々は根ごと軋み、岩は低く唸る。
山脈の襞が崩れ、岩場が魔物の群れに崩れ落ちた。
天から落ちてきたのは古龍。
黒曜石を貼り合わせたような鱗、両翼は夜空のように艶々と黒々と光る。
圧倒的な力と大きさにより、見た人々の魂をも震わせる。
元来、古龍は魔物を狩り、均衡を保つ王者であり人に牙を向けることはない。森羅の秩序そのもの。
ゆえに――この出現は災厄ではなく「理の歪み」であった。
喉奥が光り、火が熟れ、轟と炎が奔る。
前列の盾は捲れ焼けた鉄の匂いで周囲を満たした。
紅の影が素早く音もなく前線へと走る。
オウカである。紅の瞳が激しく燃え上がっている。
剣のひと振りで炎は二つに割れて赤い霧へほどける。
彼女の眉が、ごく僅かに寄る。
「……この魔物、様子がおかしい」
龍の動きはぎこちなく時折強く痙攣し、口腔から溢れる火が己の鱗さえ焼き、吐息の合間に低い呻きが聞こえる。
深い蒼の双眸の底で、紫色の妖しい光が瞬いた。
オウカが目を細め、剣を構えた。
「汝の想いを聴こう」
黒髪が強い突風に巻き込まれ、オウカから光が放たれた。
古龍の咆哮が人の言葉と変わってゆく。
『……私は森を守る王として長い年月を生きた。だが、この老体が朽ちる寸前、何らかの力に囚われてしまった。
そして私は己の意思もなくただ力を振るうだけの、獣になってしまったのだ……!
王としての誇りは穢され魂は墜ちた……。
頼む、死によってこの魂を清めてくれ、小さき王よ』
ざわざわと人々にどよめきが走り、憐れみと畏れの混じった目でその黒き龍を見る。
ジャックが弾かれるように声を上げた。
「…オウカ様!お待ちください。龍は本来ならば人を襲う存在ではありません。
……呪いを解く道を探せませんか、どうか、殺さずに…」
オウカは振り返らなかった。
紅の瞳は老いてなお神々しい龍を強く見据えていた。その瞳は哀しみを湛え、唇をゆっくりと開く。
「ーー仔細承知した」
オウカは珍しく震える言葉を祈るような音で紡いだ。
「辱める生を長らえさせるのは死より惨い……この皇華、王の餞に全力を持って応えようぞ」
龍の喉が痙攣し、血泡が火に混じった。
ジャックは唇を噛み苦しげに俯いたまま黙り込んだ。その横顔は救いを求める幼子のようだった。
オウカは左手の指先で印を結び剣に氷を纏わせた。
龍がひときわ大きな咆哮をあげる。
暴風と炎柱が空を赤く染め上げた。
少女の影がその炎の間を縫った。
刃、一閃。
龍の額を斜めに大剣が祓った。
ごおっ、と大きな風が吹く。
龍の目の奥、紫の光が消え、蒼の双眸が澄明を取り戻した。濁りのない王者の眼が確かにそこにあった。
『……見事』
オウカは小さく頷き、剣を構え直し、ひどく穏やかに笑った。
「冥府で会おうぞ、我が友よ」
剣がわずかに揺れ、握り直される。
次の瞬間、刃が銀色に光って黒い体躯を深く貫いた。
古龍はぐらり、と膝を折り、大地を大きくゆっくりと揺らして横たわった。
木々も、人も、魔物も沈黙していた。
血と塵煙の中一人立つオウカは龍の額に手を置いた。
「……御身の功、永久に」
ゼノンが背後で無言で手を上げる。
槍がいっせいに立てられ、剣を、杖を掲げ、その場の全ての人が頭を垂れた。
赤い花が静かに亡骸へ降り注ぐ。
牡丹、芍薬、椿――花が音もなく落ち優しく包んでゆき、やがて亡骸を骨に還す。
誰かが囁く。
ひどく小さな声で。
「……オウカ様」
囁きは波となり、波はざわめきに変わった。
「……未熟な王子とくと見よ。これが王たる者の誇り」
オウカがジャックを見る。
ジャックは静かに目を伏せ、そして顔を上げる。
「……はい、オウカ様。ですが本当の弔いのために、龍をも操る悪を見つけ出し、倒さなければと思いました」
オウカは鼻で短く笑い、満足気に紅の瞳を細めた。
「それでよい」
日はもう低く、風が冷たい。
オウカは踵を返し王都への帰路に着く。
「帰還する。――皆よくやった」
その華奢な背に尻尾のような黒髪が揺れる。
この鬼神の如き烈しい少女の戦いは、永遠にこの国のあちらこちらで語られる事となる。