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その一瞬を閉じ込めて~研究者令嬢は美貌の伯爵様をこっそり眺めたい~

作者: 葉月くらら

「あら、あちらにいるのはストーン子爵家のご令嬢じゃない?」

「ああ……、確か半年ほど前に婚約が無くなったっていう」

「今も魔道具研究所に勤めてらっしゃるんでしょう? 花嫁修業もしないで」


 聞こえてくる声に気づかぬふりをして、レイチェルは小さくため息をついた。

 夜会は苦手だ。

 けれど今夜は母親から絶対に出席してこいと圧をかけられたので仕方なくここにいるのだ。

 慣れない薄紅色のドレスの裾を踏まないように慎重に移動する。

 周囲から感じるのは好奇の目。

 それも仕方ないのだ。レイチェルは半年ほど前に婚約者の心変わりによって、婚約を解消していた。

 理由は簡単。

 相手に他に好きな人ができたから。

 そして彼は言ったのだ。


『レイチェルは俺より仕事の方が大事なのだろう』


 それから20歳という、結婚適齢期なのに相手がいない娘を心配して、レイチェルの母は積極的にレイチェルに婚活をするよう勧めた。婚活、すなわち貴族なら夜会や昼のお茶会に出席することだ。

 しかしそれにレイチェルはあまり耳を貸さなかった。

 実際問題、レイチェルは恋愛や結婚より仕事をしていたかったからだ。


(ああ、今夜も魔道具の研究の論文を書きたかったのに)



 魔道具とは、機械と魔法の融合である。

 この世には、魔力という目に見えない力があり、それを生まれつき宿す人間は魔法という力が使える。けれど、それを持たない人間には当然使えない。けれどあらかじめ魔力を込めた魔道具を使えば、魔力を持たない人間にも魔法のような力を使うことができるのだ。

 たとえば密封した箱に氷の魔法をかけて生鮮食品を保存できる冷蔵庫。火の魔法を使った暖房器具。光魔法を使った照明などが一般的だ。

 レイチェルの生家、ストーン子爵家は代々この魔道具の研究に力を入れてきた一族だった。国直轄の魔道具研究所の所長は歴代のストーン子爵家の当主が務めている。そしてレイチェルもこの研究所で研究員として働いていた。

 レイチェルの父は、魔道具に興味を示した娘に大いに喜んだ。けれど母親や周囲はそうではなかった。なぜならレイチェルの住む国では、貴族の女性が外に出て働くことはまだ一般的ではなかったからだ。貴族の女性は家を支えるためにいる。だから外に出て働くなど、恥ずべきことだとまで考える人々もいた。

 最近では少しずつ外で働く女性も増えてきたがまだ一般的ではない。特に古めかしい考えを持つ貴族社会ではなかなか新しい考え方は浸透しないものだ。

 だからレイチェルの婚約が無くなったことも、相手の男の心変わりが問題なのではなく、レイチェルが仕事なんてしているのが悪いのだと認識されてしまうのだ。



「ああもう早く家に帰りたい」


 母の知り合いが主催だから、と渋々参加した夜会であったが好奇と侮蔑の視線に疲れたレイチェルは、人気のないバルコニーで一人項垂れていた。

 いつまでも魔道具研究になんてうつつを抜かしていたら、結婚できないわよ! と母に言われた言葉を思い出す。

 元婚約者には、同じ研究所で働いていたにも関わらず、結婚したらもちろん仕事は辞めて家に入ってくれるんだよね、と言われた。

 はあーーー……と深いため息をついてバルコニーにどん、と拳を振り下ろす。


「愛とか恋とかどうでもいいから、必要な時だけちゃんと夫婦の体裁を保つから、好きなだけ魔道具の研究させてくれる人いないかなあー!」


 我ながら自己中するぎる願いだった。

 けれどレイチェルに一般的な恋愛をする能力などないのだ。それは以前の婚約で十分にわかっていた。だからこそ思う。愛などいらぬ、義務だけでいい。好きなことさせてくれるならば。

 ……やっぱり自己中すぎる。


「――もしその条件で良ければ、私はどうでしょうか」

「へ?」


 誰もいないはずのバルコニーで、突然背後から声が聞こえてレイチェルは飛び上がりそうになった。

 勢いよく振り返ると、そこにいたのは金髪のそれは美しい青年だった。

 社交界に詳しくないレイチェルだってその人のことは知っていた。


「す、スタンフィールド卿」

「話しをするのは初めてですね。お初にお目にかかります。レイチェル・ストーン子爵令嬢」


 鮮やかな濃い金髪にアメジストのような瞳。整いすぎた顔のせいかどこか冷たい印象を受ける表情が柔らかく微笑んだ。

 アレクシス・ウィリアム・スタンフィールド伯爵。

 父親の急逝で、若くして爵位を継いだアレクシスは、その容貌もあって社交界では有名人だった。


「あ、あの」

「少し夜風に当たろうかと思っていたのですが、貴女の声が聞こえまして。盗み聞きのような真似をしてしまい申し訳ありません」


 軽く頭を下げたアレクシスが顔を上げる。


「愛も恋もどうでもよく、必要な時だけ体裁を保つ……つまり貴女は契約結婚を望んでいる。実は今、私もそういう相手を探しているのです」

「え!?」


 平然とアレクシスが言った言葉に、今度こそレイチェルは目を丸くした。


「ど、どうしてですか? 貴方様ならいくらでも縁談が舞い込んできそうですが……」

「今は仕事にまい進したいのです。昨年父が亡くなり伯爵位を継いだばかりで余裕がなく。縁談の話は、よくいただくのですが」


 スタンフィールド伯爵家は歴史も古く、裕福な家だ。加えてアレクシスの美貌。いくらでも嫁にしてほしいという女性はいるだろう。それなのにどうして、とレイチェルが聞くとアレクシスは苦笑した。

 爵位を継いだばかりのアレクシスは忙しく、女性の相手をする余裕がないらしい。

 とはいえ、自分のような地味な女でいいのだろうかとレイチェルは戸惑う。

 レイチェルも貴族ではあるが有力貴族であるスタンフィールド家と子爵家のストーン家では身分が違う。それに、まるで宝石箱のような容姿の彼に比べれば、茶色の髪にその辺の雑草のような緑の瞳のぼんやりした自分が隣に並ぶのは気後れしてしまう。


「私ではあまりにも釣り合わないと思います」

「ストーン子爵令嬢は魔道具研究でも立派な成果を出していると聞いています。私は女性が仕事をすることに偏見はありません。必要な時だけ、夫婦として対面を保ってくださればそれでいい。それ以外は自由にしていてかまいません。当然、衣食住で不便はかけません。必要であれば研究への出資もしましょう。どうですか?」

「やります」


 スラスラと述べられるあまりの条件の良さに、思わずレイチェルは頷いていた。

 それを聞いてアレクシスは穏やかに微笑んで手を差し伸べた。

 夜空には幾千幾万という星が輝いている。

 まったくロマンチックではないけれど、周囲から見ればそれはうっとりするような光景なのかもしれない。

 まるでその姿は物語に出てくる王子様のようだ。

 世の中、人間は外見ではないというけれど、それは確かに重要な要素のひとつだ。何しろ、人が出会った時まず最初に見るのは、その人の外側……容姿だからだ。


「レイチェル・ストーン子爵令嬢、私と結婚していただけますか」


 特に今、目の前にいる輝くような金髪にまるでアメジストのような瞳の美貌の青年を見ていると思う。

 彼の、とびきり美しいこの一瞬を額縁の中に閉じ込めて、ずっと眺めていたいと思う人は、この世界にたくさんいるだろうなと、場違いなことをレイチェルは考えていた。



 騙されたんではないだろうか。

 レイチェルは広大なスタンフィールドの屋敷を前に茫然と考えていた。

 あれから二カ月。

 とんとん拍子に話は進み、あっという間にレイチェルはアレクシスと結婚することになった。

 今日からはスタンフィールド伯爵夫人である。

 貴族街にあるタウンハウスは生家の倍以上の広さがあるように見える。庭は美しく手入れされ、その奥にレンガ造りの大きな屋敷が建っていた。他にも敷地内にはいくつか建物がありそうだ。


「大丈夫ですかお嬢様」

「ごめんなさい、なんでもないわ。行きましょうか」


 二カ月の間に少しずつレイチェルは冷静になっていった。

 あの日はあまりの条件の良さと、非日常的な空間に乗せられて思わず了承してしまったが、こんないい条件あるだろうか? 何か裏があるんじゃないだろうか?

 今日までに何度かアレクシスとは打ち合わせをしたが、特に態度は変わらなかった。

 本当に本気なんだろうか?

 今更やめることもできないが。

 侍女と共に馬車から降りたレイチェルを迎えたのは十人ほどの使用人達だった。


「ようこそ、奥様。本日よりよろしくお願い申し上げます。執事のルースにございます」

「レイチェルです。こちらこそ、よろしくお願いします」

「奥様のお部屋にご案内します」


 綺麗な銀髪をした高齢の執事、ルースの挨拶が終わると侍女頭らしき女性がにこやかにレイチェル達を屋敷の中へ案内してくれた。

 子爵令嬢風情が、と嫌がらせされたりするのだろうかとびくびくしていたが使用人達は皆、とても感じが良い。屋敷内は隅々まで綺麗に清掃されていて、美しく保たれている。

 二階に宛がわれたレイチェルの部屋は日当たりが良く、応接間と寝室に分かれていた。リネン類はレイチェルが好きだと言ったアイボリーとグリーン。カーテンは高級感のある濃いグリーンだ。テーブルには美しい花が飾られ、さらに大きなクローゼットには何着かドレスやワンピースがかかっている。


「こんな立派なお部屋を用意してくださるなんて」


 実家のレイチェルの部屋の三倍くらいはありそうだ。伯爵家とはこんなに子爵家とは規模が違うものなのか、とレイチェルは茫然としていた。

 契約結婚でしかない相手にここまでしてくれるとは。


「レイチェル」

「アレクシス様……」

「出迎えに出られなくてすまない。仕事が立て込んでいて」


 茫然と部屋の中央に立っていると、入り口からアレクシスが顔を出した。先に執務中だと聞いていたレイチェルは首を振った。


「い、いえ。それより、こんな素敵なお部屋をありがとうございます」

「何か足りないものがあったらいつでもルースや侍女達に申し付けてくれ」


 とんでもない、とレイチェルはさらに大きく首を振った。

 ストーン家から着いてきてくれた侍女も豪華な部屋に驚いている。騙されていなくても、こんなに生活レベルが違って大丈夫かと新たな不安が生まれた。

 内心で冷や汗を流しているレイチェルとは正反対に、あの夜会の夜と変わらぬ優雅さでアレクシスが周囲に目配せした。


「さて、少し二人で話しをしたいのだが」



 アレクシスの一言で使用人達はあっという間に退室していった。

 教育が行き届いているなあと、レイチェルはどうでもいいことに関心してしまう。

 アレクシスに促されて部屋の中央にあるソファに向かい合って座った。


「私達は正式に今日から夫婦になったわけですが、ここで一応契約書を作っておきませんか」


 人前では夫婦ということで、敬語をやめているアレクシスだが、二人きりの時は出会った時と変わらぬ少し距離のある話し方をする。

 レイチェルはアレクシスの言葉に頷いた。


「契約書ですか? ……そうですね。何か問題があったときのためにも必要ですね」


 それでは、とテーブルにアレクシスが紙を二枚取り出した。

 両方の紙に同じ文言が書いてある。


「一応雛型は私が作っておきました。問題がなければこのままで、何かあれば書き換えましょう」

「わかりました」


 レイチェルは頷いて契約書を見つめた。


 第一に、契約結婚であることは誰にも言わないこと。

 第二に、人前では夫婦としてふるまうこと。

 第三に、式典や夜会など夫婦で出席する場では夫婦としてふるまうこと。

 第四に、お互いのプライベートには干渉しないこと。

 第五に、好きな相手ができた場合は速やかに離縁すること。


「……あの、この五番目は」


 お互い、本当に好きな相手ができた時は離縁。

 アレクシスは少し気まずそうに言う。


「もし、この先、本当に結婚したい相手ができた場合はこうした方がいいだろうと思いまして」


 なるほど、とレイチェルは納得した。

 確かにこの先、アレクシスに本当に結婚したい女性ができたときレイチェルがいると困ることになる。


(私としては、離婚されても一度は結婚したっていう事実が残るわけだし、研究に出資もしてもらえるのだから、これ以上は望めないか)


 レイチェル自身はこれから先、好きな人などできるはずはないと思っている。離縁されたら、傷心だと言って研究にまい進すればいい。さすがに一度結婚に失敗したとなれば傷物として扱われ、結婚結婚うるさく言われなくなるだろう。

 もしかしたらこの結婚は短期間で終わるかもしれない。それでもレイチェルにとっては悪くない条件だと思った。


「わかりました。この条件で大丈夫です」


 他にもいくつか条件を確認し、二人はそれぞれの紙にサインをしたのだった。


「あ、あの、それと……」

「なんですか?」

「一応形だけでも夫婦、ということですのであまりかしこまった話し方はやめにしませんか?」


 これからは同じ家に住むのだ。契約結婚とはいえ家族になったのだし、当主のアレクシスが他人行儀だとなんだかやりづらい。

レイチェルの提案に、少し思案したあとアレクシスは小さく頷いた。


「わかった。これからよろしく頼む、レイチェル」

「はい、アレクシス様」


 アレクシスが差し出した手をレイチェルが握り、契約結婚が成立したのだった。



 こうしてレイチェルのスタンフィールド邸での生活が始まった。

 日中や夜はアレクシスの仕事の関係で顔を合わせることはほとんどないが、朝食だけは必ず一緒にとることになっていた。


「そういえば、昨日はずいぶん遅くまで研究室に籠っていたと聞いたが」

「あ、はい……。すみません。今の研究がちょうど大詰めで集中してしまって」


 実はアレクシスはレイチェルのために庭の倉庫を一部改修して研究室を作ってくれたのだ。研究所から帰ってもこの自分専用の研究室でレイチェルは魔道具の研究をしていた。


「ルースさんや皆さんにもご心配かけてしまって……。申し訳ありません」

「いや、それもだが、貴女の体調はどうなんだ」

「わ、私は大丈夫です」


 まさか自分の心配をされるとは思わずレイチェルは内心驚いた。契約結婚でしかないのに律儀なものだ。

 食後のコーヒーを飲んでいたアレクシスが新聞を読みながら口を開く。


「そういえば、今はなんだったか……、瞬間を切り取る? とかいう研究をしているとか」

「はい、写映機と言いまして、たとえばこの花瓶の花、この咲いている一瞬を紙に写しだす……そういう魔道具の研究をしています」

「紙に……絵のようなものなのか?」

「そうですね。ですが、この瞬間をこのまま写すので絵よりも精巧です」


 写映機はまだ実験段階なので、成功したらなのだが。

 絵とは違う、今この瞬間を写す魔道具。それはとても画期的なものだ。記録にも使えるし思い出にもなる。


「例えば建物、人、景色。なんでもありのままの姿を残しておけます」

「なるほど、それは仕事でも使えそうだ。しかしそのような物を作ろうと思いつくなんて、貴女はすごいな」

「と、とんでもありません……」


 アレクシスはレイチェルの研究の話を興味深そうに聞いてくれる。もしかしたら元々興味があったのだろうか。

 実はレイチェルがこの写映機を思いついたのは、アレクシスに契約結婚を持ちかけられた時だった。

 星の降る夜。アレクシスの美しい姿はまるで絵画のようだった。その瞬間を留めておけたら、と思ったのが始まりだった。

 さすがに照れ臭いのでこんなことは言えないが。



 その日、研究所は休日だったので、レイチェルはスタンフィールド邸の庭に出て、写映機の実験をしていた。両手で持てるほどの大きさの箱には魔力の籠った魔法石とレイチェルが計算した魔法石を起動させる回路が入っている。箱の正面にはレンズが、右上にはスイッチを付けた。

 これでレンズを写したい景色に向けてスイッチを押すことで紙に景色を映すのだ。

 池のほとりに浮かんだ小鴨に写映機を向けてカチリとスイッチを押す。その瞬間写映機に魔力が走り白く光った。すると箱の下側から紙がジジジ……と出てくる。


「うーん……、なんだかぼやけているわね。もう少し回路の設定を変えないと」

「何をしてるんだ?」

「アレクシス様」


 何枚か撮ってみたものの、なかなかうまく写せない。写映機と写した紙を見て悩んでいたレイチェルのそばにアレクシスがやってきた。


「執務の息抜きに散歩をしていたんだが、邪魔だったか?」

「いいえ、そんなことありません」

「それが……写真、というやつか」

「未完成ですが」


 写真、とは最近レイチェルが名付けた景色を写し取った紙のことだった。

 池に浮かぶ小鴨を写した写真を見て、アレクシスが目を細める。


「なんとなく鳥だとはわかるが……」

「今は様々な場所や条件で写真を撮る実験をしているんです」


 天候や時間によっても写しやすさは変わる。今のところ明るい日中が一番はっきりと写すことができた。


「……そうか。それなら今度の休みに、どこかへ出かけないか?」

「え?」



 十日後、アレクシスがようやく休みをとれた日に二人は共に出かけることになった。


「お待たせしました、アレクシス様」

「……いや、大丈夫だ」


 レイチェルは慌てて玄関で待っていたアレクシスに頭を下げた。

 侍女達によってあれこれ着替えさせられていたら、すっかり時間がかかってしまった。

 本日は街や公園を歩くので動きやすいようにラベンダー色のワンピースを着ている。

 アレクシスの表情がなんともいえない感じになっている。やっぱり少し派手だったのではなかろうかとレイチェルは気恥ずかしくなった。普段は基本、茶色やグレーばかり着ているので。


「その服……」

「あ、ああ。やっぱり派手ですよね」

「いや、似合っている、と思う」

「え?」


 馬車の中でアレクシスがぼそりと言った。車輪と馬の蹄の音で聞きづらかったので、一瞬聞き間違いかとレイチェルは目を瞬いた。


「普段からもっと華やかな色を着てもいいと思うのだが」

「え!? いえ、私など地味で似合いませんので」

「そんなことはないだろう。せっかくドレスだって誂えたのに」

「確かにせっかくいただいたものを着ないのはもったいないですね。もうしわけありません。着ます」


 いや、そういうことでは……。と言いかけてアレクシスが疲れたようにため息をついた。一体なんだろうとレイチェルは思ったが、確かにスタンフィールド邸に来た時からクローゼットにはレイチェルが持ち込んだドレス以外のドレスが何着かかかっていた。そのどれもがとてもセンスの良いものではあったのだが、レイチェルが着るには少々勇気がいるものだったのだ。


(しかしアレクシス様がせっかく用意してくださったものを無下にするのはよくないわね)


 レイチェルが内心反省しているとアレクシスが向き直った。


「ところで、今日はまずセントラル公園に行こうと思うのだが」

「いいですね。日当たりも良いですし、時間帯も……。色々撮ってみます」


 今日は一日アレクシスと共に王都を周り、写映機を試す予定なのだ。庭で話した時からさらに研究を進め、少しは精度も上がっているはずだ。

 どうしてアレクシスがこんなに協力してくれるのかはよくわからないが……。


(まあでも、出資者ですものね。研究が上手くいってるかは気になって当然か)


 当初はもっとお互い干渉しない生活になるのかと思ったが、アレクシスは意外にも、あれこれとレイチェルに関わろうとしてくる。それも研究分野に関してもだ。

 男性でレイチェルが研究をすることにいい顔をしてくれるのは今までは父親だけだったので、なんだか新鮮な気分だった。



 王都にある王城に隣接したセントラル公園は、市民の憩いの場だ。広大な敷地に様々な植物や動物が生息している。

 天気、日差しの角度等を計算しながら、レイチェルは写映機のスイッチを押す。

写真はいぜんよりもはっきりと写るようになった。


「アレクシス様!」

「うん?」


 カチリと音が鳴って一瞬写映機から光が放たれる。

 出てきた写真のアレクシスはきょとんとした顔をしていた。


「わ、私か?」

「はい、まだ色味が薄いですね」

「なるほど、人を写すこともできるわけか」


 のんびりと池のほとりを歩いていたアレクシスをついいたずら心で写してしまったのだが、感心した様子で写真を眺めている。そしてレイチェルの手にある写映機を見た。


「それは、私にも使えるか?」

「ええ、もちろんです。このレンズで対象を見て、この右上のスイッチを指で押してください」


 まだ実験段階だが、自分以外の人間にも使用感を試してほしかったので、レイチェルはアレクシスに写映機を渡した。

 彼は何を撮るなのだろうと見ていると、数歩歩いた後くるりと振り向いた。


「え?」


 その瞬間、カチリと音がして一瞬だけ光る。

 レイチェルは慌てふためいてアレクシスに駆け寄る。


「アレクシス様! わ、私を撮ったのですか?」

「そうだ。上手くできているだろうか……」


 なんだか急に恥ずかしい。

 無許可で撮ったりするんじゃなかったと、レイチェルは少しだけ後悔した。

 出てきた写真には目を丸くしたレイチェルが写っている。それを見てアレクシスは珍しく口の端を緩めて笑った。


「なかなかいい出来じゃないか?」

「なんておまぬけな顔……」


 アレクシスは恥ずかしがるレイチェルを見て、クスりと笑ってから写真を懐に収めた。


「さて、そろそろ移動しようか」

「え!? ちょっと待ってください。なんでその写真……!?」


 もしかしてからかわれているのだろうか。

 むうっとしながらもレイチェルは後を追ったのだった。



 結局その日一日夜になるまで、二人は王都の様々な場所を巡った。朝は公園や川沿いへ行き、日中は街中を、そして夜は夜景の見える丘から花火大会を見た。


(まるでデート……)


 はっと我に返りレイチェルは写映機で花火を写してみた。しかしやはり周囲が暗いと制度は格段に下がる。まだまだ実用化は遠いようだ。


「アレクシス様、今日はありがとうございました。たくさん写真を撮れてよかったです」

「そうか、それならよかった」

「……アレクシス様は、女が研究や仕事をすることに寛容なのですね」


 レイチェルが仕事をしても別に構わないと最初に言ってはいたが、ここまで協力的だとは思わなかった。だから、なんとなく隣で花火を見ているアレクシスにそう呟いたのだ。

 アレクシスはアメジストの瞳をぱちりと一度瞬いた。


「逆に何が問題なのかがわからない。家の対面と己のプライドのために人の自由を奪っているだけだろう」

「そんなことを言ってくれるのはアレクシス様くらいです。私の以前の婚約者は、結婚したら女は仕事をやめるのが当然だって……あ、すみません」


 前の婚約者の話をするなんて、さすがに失礼だ。慌ててレイチェルは謝ったが、アレクシスは首を振った。


「いや、かまわない。貴女にどういう事情があったのか、私も知りたい」

「……たいしたことじゃないですよ。以前の婚約者とは同じ研究所で働いていたんです」


 そして両親や周囲の勧めもあり、なんとなく婚約した。数年前の話だ。以前の婚約者のフレッド・オルコックは穏やかで気の弱い青年だった。婚約期間は一年、けれどフレッドはその途中で他に好きな人ができたとレイチェルに告げた。

 燃えるような恋ではないけれど、それなりに上手くやれていると思っていたレイチェルは驚いた。

 彼の不満は、レイチェルが自分より仕事を優先することだった。そして結婚しても仕事を辞めたくないとレイチェルが言ったことが決定打だったようだ。


『女は結婚したら仕事を辞めて家を守るのが常識だろう? けれど君はそれを嫌だという。君は結婚には向かない女性なんだろう』


 確かにその通りかもしれないとレイチェルは思った。

 恋や愛より、もっと大切なものがいつも胸にあるのだから。


「……まあ、彼の言うことも一理あるなと思ったのです。私は結局、彼より仕事を優先していましたので」

「そんなことがあったのだな……」


 静かに呟いたアレクシスが頭を下げる。


「すまない、辛いことを思い出させてしまった」

「そんな、最初に話し出したのは私ですから」


 レイチェルは慌ててアレクシスに言う。

 確かにレイチェルもまったく傷つかなかったわけではない。今でも思い出せばチクリと胸は痛むけれど、過去のことだ。

 帰りの馬車に向かって歩きながらアレクシスが呟いた。


「確かにこの国では、女性が家を守るのが一般的とされている。だが、結婚とは、夫婦とはお互いが協力しあうものだと思う。色々な形があっていいと思うのだが」

「アレクシス様は革新的な考えをされるのですね」

「理想だ。そうなりたいとは思うが、上手くいくかは……」

「それなら、お互いにそうなるよう協力してきましょう」


 アレクシスの考え方はこの国では珍しい。けれどレイチェルにはとてもありがたいものだ。だから、彼の考えに応えたいと、ふとそう思ったら自然と言葉が出ていた。

 一瞬目を丸くしてこちらを見つめたアレクシスがふっと笑った。


「そうだな……」


 夜空には、あの夜会の時と同じように数えきれないほどの星が輝いていた。

 レイチェルは思う。

 また、この瞬間も閉じ込めてしまえたらいいのに、と。



「――レイチェル?」


 魔道具研究所の廊下を歩いていると、ふいに聞き覚えのある声が聞こえて、レイチェルは振り返った。

 思わず、内心「ゲ」と思ってしまったのもしかたない。

 そこにいたのは元婚約者のフレッドだったからだ。


「……フレッド、ひさしぶり。今日はどうしたの?」

「ああ、頼まれていた資料を届けに来たんだ」


 フレッドは結婚相手の親から援助してもらい、今は独立して自分の研究室を持っている。

 もう会うこともないだろうと思ったのだが、なかなかうまくはいかないらしい。


「君は相変わらず研究にのめり込んでいるのか?」

「そうね、おかげさまで」

「……ところで、結婚したというのは本当なのか? 研究バカの君が結婚なんて信じられないが」

「本当よ。三カ月ほど前にね」


 信じられない、とでも言いたげな顔をしたフレッドが意地悪そうに顔をゆがめる。


「それはずいぶんと物好きな男もいたものだな。家を守る片手間に研究者を続けさせてもらえるなんて、気楽なものだ」

「な……!」


 ひらりと手を上げてフレッドが通り過ぎる。

 片手間で研究者をしているなんて、酷い侮辱だ。いつだってレイチェルは真剣に取り組んでいる。それをまるで道楽のように言われるのは我慢ならない。


「もっと女としての魅力を磨いた方がいいんじゃないのか? 旦那に捨てられる前にな」

「私のことを心配する前に、自分の研究室のことを心配した方がいいんじゃない? 今日だってここに仕事をもらいにきたのでしょう?」

「……おまえ!」

「ふん!」


 レイチェルは噂で知っているのだ。

 フレッドは独立して研究室を持ったものの、あまり上手くいっていないことを。研究で行き詰まり、かつての仕事場である魔道具研究所に出入りしているのだ。

 少々意地が悪いかと思ったが、先に失礼なことを言ったのはフレッドだ。

 レイチェルは睨みつけてくるフレッドを無視してその場を去ったのだった。



「まあ、あなたがレイチェル様ね。あのアレクシス様を射止めたのがこんなに可愛らしいお嬢様だなんて」

「初めまして、レイチェル・スタンフィールドと申します」


 数日後、レイチェルはアレクシスと共に夜会に出席していた。

 緊張しながらも挨拶を終えたのは今夜の主催、エイムズ卿とその夫人だ。


「あのストーン子爵家のご令嬢だろう。魔道具の研究者をしていると聞いたよ。ぜひ話を聞かせてほしいね」

「まあ、そうなのですか? それはすごいわ」


 エイムズ伯爵家は魔法や魔道具の産業で財を成した家なのだ。そのためその研究にも多額の出資をしてくれている。当主のエイムズ卿は顔がとても広く、王家にも魔道具を売り込んでいた。


「今は、写映機といいまして、目の前の光景を紙に写す技術の研究をしています」

「このような感じです」


 隣のアレクシスが用意した写真を何枚か見せると、驚いて二人が見入っている。それはあれからさらに改良を重ねて、ずいぶんとはっきり写るようになった写真だった。


「このように、今この瞬間を写すことができれば、それは記録や思い出になります。まだ試作段階ですが……」


 気がつくと周囲には人だかりができていた、

 まさかこんなに注目されるとは思わず、レイチェルはかなり緊張してしまったが、なんとかエイムズ卿への研究の披露ができたのだった。


「アレクシス様、ありがとうございます。夜会は苦手とおっしゃっていたのに」

「いや、貴女の力になれたのならよかったよ」

「私は何もできていないのでもうしわけないです」


 実は今日の夜会の話を持ってきたのはアレクシスだった。魔道具組合とも懇意にしている魔法や魔道具に通じているエイムズ卿に、レイチェルの研究成果を披露してみては、と勧めてくれたのだ。

 おかげで後日また詳しく話をすることになった。もしかしたら研究に出資してくれるかもしれない。


「いや、私がやりたいからやっているだけだ。それにあの写映機は実用化して広まるべきだと思ったからな」

「あ、ありがとうございます」


 すました顔でワインを飲みながらアレクシスがこちらを見る。

 レイチェルとしては、とてもありがたいのだが、そろそろ与えてもらうばかりで何もできないことが少し気になってきた。


「私とてたまには夜会に出ないと、付き合いが悪いと言われるからな。こうやって一緒に出席してくれるから助かっている」

「それならよか……」

「レイチェル……」


 突然名前を呼ばれて顔を上げると、憎々し気にこちらを睨みつけるフレッドがそこに立っていた。

 魔道具組合とも懇意にしているエイムズ卿の夜会なので、彼も招待されていたのだろう。

 フレッドの隣には黒髪の可愛らしい女性が立っていた。


「フレッド、この方は?」

「……元同僚なんだ。そちらは」

「初めまして。アレクシス・ウィリアム・スタンフィールドです。妻が以前お世話になったそうで」


 にこやかにアレクシスが挨拶すると、こちらを睨みつけていたフレッドは困惑した顔をする。

 そういえば、結婚したことは知っていたが、相手までは知らなかったようだ。

 確かに相手がアレクシスとは思わなかっただろうな、とレイチェルは遠い目をした。


(アレクシス様に元婚約者の名前は伝えてないけど……)


 もしかしたらフレッドの慌てようで気づくかもしれないなとレイチェルは思った。

 その表情からは何を考えているかは読めない。


「あ、あの、スタンフィールド卿。初めまして、アイリーンと申します。スタンフィールド卿とは以前から一度お話ししてみたくて……」


 え、と今度はレイチェルがぎょっとする番だ。

 ハシバミ色の瞳を潤ませてうっとりとフレッドの妻、アイリーンが近づいてくる。隣のフレッドも愕然としていた。

 アレクシスは、それは冷たい視線でアイリーンを見下ろしていた。


「初めまして、オルコック婦人。本日はもうそろそろ失礼しようかと思っていたところですので」


 言外にアレクシスが断るが、アイリーンはさらに一歩詰め寄った。

 積極的だ。

 夜会にしても露出の多いドレスでにじり寄る姿を、レイチェルは唖然として見つめるしかない。


「そんなことおっしゃらず。ワインでも飲みながら、できたら二人きりで」

「申し訳ありませんが、ご自分の立場をもう少し考えた方がよろしいのでは? 私は気軽に不貞を働こうとするような女性を軽蔑しております」


 ワイングラスをそばのテーブルに静かに置いて、アレクシスが微笑む。美しい人の笑っていない微笑みはそれは恐ろしいものだ。

 その場の空気が一瞬で凍り付く。

 そんな、だって、とアイリーンはすでに真っ青になり涙目で呟いている。


「あ、アレクシス様……」

「そろそろ行こうか、レイチェル」


 どうしたものかと慌てているレイチェルにアレクシスが優しい微笑みを向ける。そのまま背を向けた彼についていこうとした時だった。


「女のくせに……! どうせその男に泣きついて研究結果も金で買ったんだろう」

「なんですって?」

「何が写映機だ。バカバカしい。結局は男がいなければ」

「そこまでにしてもらおうか」


 フレッドはレイチェルがエイムズ卿に写映機の写真を披露していたところを見ていたのだろう。その瞳は嫉妬の色に染まっていた。

 アレクシスが氷のような無表情でレイチェルの隣に並ぶ。


「私がたとえいくら金を出そうと、研究し、結果を出すのは彼女の努力あってのことだ。そうそう、君もそこのアイリーン・シモンズ嬢のご両親、シモンズ家に多額の援助を受けていたんじゃないのか? その結果はどうなったんだろうな」


 カッとフレッドの顔が赤くなる。


「私は妻を侮辱されて許せるほど大人ではない」


 にこやかに微笑んだアレクシスはレイチェルの肩を抱いて歩きだす。ちらりとレイチェルが後ろに視線を向けると、フレッドがうずくまっていた。



 帰りの馬車の中は静かだった。

 アレクシスはまだ機嫌が悪そうで、なんと話しかけていいのかレイチェルにはわからなかった。

 カラカラと車輪の音が聞こえる中、ぽつりとアレクシスが呟いた。


「すまなかった」

「……え? 何がですか?」

「いや、夜会で大人げない真似をしたと思ってな」

「私はむしろお礼を言いたいです。かばってくれてありがとうございました」


 しかしもっと穏便なやり方があったはずなのでは、とブツブツアレクシスが呟いている。


「フレッドのこと、知っていたんですね」


 それもそうか、とレイチェルは納得する。スタンフィールド伯爵家ともなれば、結婚相手の身辺調査くらいはするだろう。


「勝手に調べてすまなかった。君に過去のことを聞いた後、元同僚だというから少し気になってな」

「そうなのですか……?」


 一体何が気になったのかはよくわからないが。


「それにしてもあんな女などどこがいいのか。君の方がよっぽど……」

「アレクシス様……?」


 アレクシスは疲れた様子でタイを緩めながら呟いた。


「私の母は、男遊びの激しい人でな。私が子供の頃に恋人と家を出て行ったんだ」

「え……」

「だから、私はあのアイリーンのような女性が嫌いだし、その、女性全般が苦手……だった……」

「それで、契約結婚だったんですか?」


 レイチェルの言葉にアレクシスは小さく頷いた。

 そういうわけだったのか、と納得する。

 その理由はレイチェルにも少しわかる気がした。愛情のような不確かなものに頼るより、利害の一致での契約の方が楽だった。


「し、しかし、もちろん貴女がそんな女性ではないことはわかっている」


 すまない、ともう一度アレクシスが頭を下げた。

 そんなことはしなくていい、とレイチェルは首を振る。


「謝らないでください。なんだか私はスカッとしたんですから」

「すか……?」

「以前から女のくせにってよく言われてたので。アレクシス様が私のやってきたことを認めてくださったのが嬉しいんです」


 きょとんとしているアレクシスにレイチェルはそう言って笑った。

 その嬉しさはじんわりと胸に広がっていく。

 心が温かくてなんだか不思議な気分だった。



「魔石に込める魔力量はこのくらいで……、その代わりにこちらの回路はもう少し変更を加えて……っと」


 休日のレイチェルは朝から研究室に籠っていることが多い。

 魔道具研究所では、仕事として請け負っている研究や実験をすることが多く、個人的に行っている写映機の研究は自宅でないとなかなか進められないのだ。

 ふと窓の外を見ると、アレクシスが庭を散策している姿が見えた。

 リラックスした表情のアレクシスの鮮やかな金の髪が、朝の陽光を浴びてきらめく。まるでそれは一枚の絵画のようだ。

 自然とレイチェルは写映機を手に取った。

 こっそりとレンズにアレクシスを映し出し、静かにスイッチを押す。


「ふふ」


 ジジジ……と出てきた写真にアレクシスが浮かび上がる。庭園を眺める穏やかな横顔を見て、自然とレイチェルは笑顔になっていた。

 しかし、次の瞬間扉をノックされレイチェルは飛び上がりそうになった。慌てて写真を引き出しに隠す。


「は、はい!」

「レイチェル、今日も早いな」

「おはようございます、アレクシス様」

「ルースにこちらにいると聞いてきたんだが……」


 アレクシスは研究室に入るときは、いつも自分の屋敷だというのに少し遠慮がちだ。彼曰く、ここはレイチェルの領域だからだそうなのだが。


「朝食がまだだろう。食事は抜かないように、と言ったはずだが?」

「すみません、つい研究に夢中になってしまって」


 レイチェルは研究に没頭すると、それ以外のことをおざなりにする悪い癖がある。アレクシスに研究室を貰ったばかりの頃も、嬉しくてつい研究に集中しすぎてしまい研究室で夜を明かしたことがある。それは使用人を通してアレクシスに伝わり、きちんと食事と睡眠をとるようにと注意されてしまった。

 確かに、スタンフィールド伯爵夫人としての仕事をするときにレイチェルが見るからに不健康だと困るだろう。そう納得してレイチェルは素直に謝った。

 それからレイチェルは食事と睡眠をなるべくきちんととるようにしているが、それでもたまに忘れそうになる。そんなときはなぜかアレクシスがわざわざやって来てレイチェルを食堂まで連れていくのだ。


(アレクシス様には助けてもらってばかりで申し訳ないな)


 食卓で向かい合って朝食をとりながらレイチェルは思う。

 正直、結婚当初はもっとドライな関係を予想していた。けれどアレクシスは最初からレイチェルを大切に扱い、なにくれとなく世話を焼いてくれる。

 現状、申し訳なくなるくらい快適な生活を送らせてもらっていた。

 レイチェルも何かアレクシスの力になれないかと思うのだが、魔道具開発と研究しか能のないレイチェルにできることは少なかった。

 そのとき小さく、くしゅんと正面から聞こえた。


「アレクシス様、大丈夫ですか?」

「ああ、失礼。大丈夫だ。最近は執務室が冷えるのでどうもな」

「そうなのですか?」

「日当たりが良くなくてな。暖炉に火はいれているんだが足元が冷えるんだ」


 お上品なくしゃみはアレクシスのものだった。

 アレクシスの執務室は屋敷の北側にあり、あまり日が当たらない。特に最近は秋も深まって朝晩は冷え込む日も増えた。アレクシスは屋敷の執務室で仕事をしている時間が長いので、体が冷えてしまうのだろう。

 ふむ、とレイチェルは考えた。



「失礼いたします。アレクシス様」

「レイチェル? 何かあったのか」

「お仕事中すみません。こちらをお渡ししたくて」


 その日の夜、レイチェルはまだ執務室で仕事をしていたアレクシスの元へあるものを届けに来た。

 それは薄い板に赤い火の魔法石がはめ込まれたものだった。立てかけられるように、後ろに支えもついている。


「これは?」

「簡易の暖房器具です。今朝、足元が冷えるとおっしゃっていたので……」


 レイチェルはその日1日休日だったので、アレクシスのために足元に置ける小さな暖房器具を作っていた。

 薄い木製の板に魔力が流れる専用の板を貼って、火の魔法石を設置した簡易なものだった。日中に光を当てることで魔力が充電できるタイプで、魔法石に充電された魔力が切れれば消える使用なので、火事など事故の心配も少ない。


「これを私のために……? 貴女は休日だったのに、わざわざこんなものを作ってくれたのか」

「私は魔道具作りが趣味でもありますので、楽しかったです」


 なにより日頃お世話になっているアレクシスのために何かしたかったのだ。

 アレクシスはまじめな顔で受け取った暖房器具を見つめている。


(そういえば、お互い必要以上に相手に干渉しない契約だったから、こんな贈り物なんてかえって迷惑だった?)


 黙ったままのアレクシスを見上げて、レイチェルは不安になった。

 けれどやがてアレクシスは、珍しくふっと笑みを漏らした。


「ありがとう。とても助かるよ」

「……迷惑ではなかったですか?」

「迷惑? なぜだ? わざわざ貴女が作ってくれたのに」

「い、いえ。それならよかったです。あ、ですがやはり一番大切なのは睡眠と食事ですよ」

「ああ、もちろんだ。貴女に散々注意しておいて私が実践できていなければ、本末転倒だからな」


 アレクシスの言葉にレイチェルはほっとした。

 どうやら契約の範囲を逸脱はしていなかったらしい。


「それではまず設置の仕方を教えますね」

「では、中に入ってくれ……あ、ちょっと待った」


 アレクシスに促されてレイチェルは執務室へと入った。それなりに広さのある部屋は、日当たりも良くないので確かに暖炉だけではなかなか温まらなそうだ。

 部屋の中央には大きな執務用の机が置いてある。仕事が忙しいのか、机の上は書類や本で雑然としていたのだ。それをはずかしく思ったのか先に室内に入ったアレクシスが机の上を片付けている。


「少し散らかっているんだ。見苦しいところですまない」

「いえ、そんな……」


 そこでレイチェルは不自然なものを見た。

 机の脇に小さな贈り物らしきリボンのかけられた小箱があった。アレクシスはそれを自然な動作で引き出しにしまう。

 ……見られては困るものだったのだろうか。

 

「レイチェル?」

「あ、ええっとですね。まずこちらを足元に置いて……」


 こちらを振り返ったアレクシスを見て、慌ててレイチェルは机の下へと魔道具を置いた。

 なんとなく、小箱のことを聞くのを躊躇してしまったのだ。

 そもそも、二人は契約結婚なのだ。そしてお互いのプライベートへは干渉しないことになっている。なので、レイチェルは何も気づかなかったふりをしてアレクシスに魔道具の使い方を教えたのだった。



 それから数日後、レイチェルは魔道具研究所ではなく王城へと足を運んでいた。

 本日は魔道具協会の国際会議が王城の会議室で行われることになっていた。レイチェルはその手伝いに駆り出されたのだ。


「うう、資料が多い……。あと何往復すればいいの」


 現在行っている研究開発が大詰めで、今日の会議には人員をそんなに連れてこられなかった。おかげでレイチェルも荷物運搬要員になっていた。本来は貴族の令嬢がするような仕事ではないのだが。


「まあ、見て。スタンフィールド伯爵様よ」

「あの方が? 素敵ねえ」


 聞こえてきた声に釣られてレイチェルが城の大ホールを覗くと、ちょうどアレクシスが登城してきたところだった。

 そういえば今日は仕事で登城すると言っていたことを思い出す。

 遠目から見てもアレクシスは輝いて見えた。


(さすがに今は声をかけられないな。こんな荷物持ちをしている人が妻ですなんて)


 使用人用の通路を使おうと、レイチェルはその場をコソコソと後にした。


「ねえ、そういえば知ってらっしゃる? 最近のスタンフィールド卿の噂」

「ああ、あれ? 宝石店や洋裁店に出入りしてるって」

「なんでも結婚式を挙げるんだって噂じゃない」


(結婚式?)


 背後から聞こえてきた噂好きの婦人達の声に、ぴたりとレイチェルは動きを止めた。

 結婚式の話など、当然聞いていない。

 なぜか急に肌がざわざわとして、喉が締まったように苦しくなった。じっと背後の声に耳を澄ます。


「スタンフィールド卿は何年もずっと一人の方を一途に思い続けていたんですって」

「まあ、それじゃあそれが今の奥様ね。なんて幸せな方なのかしら」


 きゃーっと婦人たちが黄色い声を上げている。

 レイチェルは、胸の中にぽっかりと穴が開く感覚がした。

 何年もずっと一途に思い続けた方。

 それはレイチェルではない。

 レイチェルがアレクシスと出会ったのは結婚する三カ月ほど前の夜会だった。


(もしかして、その人と思いが通じて……?)


 レイチェルは数日前に執務室で見た贈り物の小箱を思い出していた。

 あれはきっとその一途に思い続けた相手に送るものだったのだ。


(ということは……)


 二人の契約書にはこう書いてあった。

――好きな相手ができた場合は速やかに離縁すること。



 しかし、それから何日経ってもアレクシスは離縁を言い出してはこなかった。

 もうすぐ季節は冬だ。年末年始の貴族は何かと忙しい。

 本来であれば夜会や茶会に行くための準備を考えなければならないのだが、その頃自分ははたしてスタンフィールド婦人なのだろうかと、レイチェルは自分の部屋でぼんやりと考えていた。

 テーブルに置いた写映機を手に取った。

 写映機の研究も大詰めだ。これを開発しようと思ったのはアレクシスと出会ったからだった。

 あの時の美しいアレクシスと夜空の一瞬を切り取って、手元に残したいと思ったことから始まった研究だった。


(思えばもしかしたらあの時から私は……)


 レイチェルは恋愛の機微なんて何もわからない。そんなことより魔道具に向き合っているほうが楽しかった。

 けれど今は、その魔道具でアレクシスが喜んでくれるのが嬉しいのだ。

 契約結婚でしかないのに、女性が苦手なのに、最大限レイチェルを尊重してくれようとするアレクシスを好きになってしまったのだ。


(アレクシス様は女性が苦手と言っていた。家を出て行ったお母様のことがあったから……。だけどそれでも好きになって一途に思い続けている女性がいた)


 そんな女性と思いが通じ合ったのだ。

 そうであるならば、レイチェルは邪魔者だ。

 そう考えると急に胸がチクチクと痛んだ。



「――レイチェル?」

「なんでしょう? アレクシス様」


 その日は珍しく仕事が早く片付いたアレクシスと夕食を共にした。

 怪訝な顔でこちらを見つめるアレクシスにレイチェルは何事もなかったように首を傾げた。


「いや、少し顔色が悪いように見えるが、大丈夫か?」

「そうですか? なんともありません……あの」


 アレクシスは優しいので、レイチェルのわずかな変化にも気がついてしまう。それが嬉しいような苦しいような複雑な心地だ。

 誤魔化すようにレイチェルは笑った。


「あの、実は写映機で暗い場所でも写真を撮れるようになったんです。あとで外に出てみませんか?」


 夕食後、庭園に出ると真っ暗な空には星が散らばっていた。

 二人が出会った夜会の時を思い出す。輝く星々を見上げているアレクシスの横からカチリと音が聞こえた。


「……私を写したのか?」

「ふふ、急にすみません。綺麗でしたので」

「確かに今日は晴れていて星が美しいな」


 レイチェルが美しいと思ったのは、星空の下のアレクシスなのだけれど。

 それは言わずにレイチェルは黙って写映機を見つめる。

 すぐに出てきた写真には夜空を見上げるアレクシスが写っている。


「すごいな、暗いのに星まではっきりと写っている」

「そろそろ研究所に持って行って、製品化できないか交渉してみようと思っているんです」

「今この瞬間を写して、記録することができる写映機か」

「これが完成したのはアレクシス様のおかげです。本当に、ありがとうございました」


 レイチェルは今までの感謝を込めて深々と頭を下げた。

 研究に出資してくれたこともだが、このスタンフィールドの屋敷でもレイチェルに親切にしてくれたこと。研究に協力して連れ出してくれたこと。世話を焼いてくれたこと。夜会でフレッドからかばってくれたこと。

 そして何より、短い間だったがレイチェルを結婚相手に選んでくれたこと。


「私はたいしたことはしていない。貴女の発想と努力の結果だ」


 星空の下で柔らかく微笑むアレクシスは美しく、もうこのまま時間が止まってしまったらいいのにな、とレイチェルはらしくもなく非現実的なことを考えた。


「レイチェル、その、貴女に話したいことが」

「お話し中失礼いたします。アレクシス様、フィーリア商会から連絡が来ております」

「……わかった、すぐに行こう。レイチェル、すまない。話は明日にしよう」

「はい、お気になさらず」


 遠慮がちに執事のルースが声をかけてきた。

 フィーリア商会はスタンフィールド家御用達で、様々な国内から海外の商品を扱っている。特にシルクやレースなど織物製品が多い。


『ああ、あれ? 宝石店や洋裁店に出入りしてるって』


 もしかしたらアレクシスの想い人へ送るドレスの布探しを頼んでいたのかもしれない。

 庭園からこちらを申し訳なさそうに見て去るアレクシスに頭を下げて、レイチェルはしばらくの間その場に立ち尽くしていた。



(ええっと、彩度はこのくらいで、もう少し写した時の画像を鮮明にして……、あとはそう、スイッチを押してから時間差で作動する機能も付けたい)


 時刻は真夜中。

 手元のランプの明かり以外、真っ暗な中でレイチェルは写映機の設計図と向き合っていた。

 ここはスタンフィールド家の専用の研究室ではなく、魔道具研究所にある研究室だ。


『急な仕事が入ってしまって、今日からしばらく泊まりこみになります』


 レイチェルはアレクシスと夜の庭で話した翌朝、嘘をついてスタンフィールド家を出た。

 ここ数日は実際に魔道具研究所に泊まり込みで、写映機をさらにいいものにするための研究と実験を続けていた。


(私がアレクシス様のためにできること……)


 王城での話を聞いてから半月以上経ったが、アレクシスは何も言ってこなかった。きっと優しいアレクシスはレイチェルに別れを切り出しづらいのだろう。

 ならば自分から別れを切り出したほうがいい。けれどその前にレイチェルはアレクシスに恩返しがしたかった。

 一年に満たない結婚生活だったが、契約結婚にも関わらずアレクシスはレイチェルにとても良くしてくれたのだから。

 今までとんと恋愛など縁がなかったレイチェルが、恋をしてしまうくらいに。


(この写映機を完成させて、アレクシス様の結婚式で素敵な写真を写してもらえるように)


 それが今のレイチェルにできる唯一のことだと思ったのだ。

 けれど、誰かの隣で幸せそうに笑うアレクシスを想像すると、レイチェルの胸はキュウと痛んで、目には涙がこみあげてくる。それを振り払うようにごしごしと腕で拭ってレイチェルはその日も朝まで写映機の研究と開発に没頭したのだった。



「で、できた……! 完璧だわ! い、いいえ、まだ改良の余地はある。だけど現時点で私にできる最高の出来のはず……!」


 翌朝、朝日と共にレイチェルは声を上げた。

 手元には改良して小型化した写映機。画像は鮮やか、細部まではっきりと目の前の光景を写すことが可能になった。さらに複数人で写真に収まることを想定して、スイッチには時間差で起動する機能も搭載できた。

 連日の睡眠不足で朦朧としているが、ようやく写映機が完成した達成感で疲労も吹き飛んだ。

 その時、扉が静かにノックされた。

 まだ早い時間のため、研究所の中に職員はほとんどいないはずだ。


(こんな時間に一体誰だろう)


 もしかしたら侍女が心配して様子を見に来たのかもしれない。

 そう思って扉を開けると、そこに立っていたのはフレッドだった。



「フレッド……どうしてこんなところに」

「レイチェル」


 フレッドと会うのはあの夜会以来だ。

 久しぶりにあったフレッドはあきらかにやつれた様子で、髪も乱れ顔色も悪い。


「結婚したというのにまだ泊まり込みで研究などしてるのか? スタンフィールド婦人失格だな」

「……あなたには関係のない話です。何の要件ですか」

「今日は、君の父上に用事があって来ただけだ。こんな早朝から君の研究室から音がするから覗いてみただけだ」


 あの夜会のあと、アイリーン嬢とフレッドが離婚したという噂をレイチェルは聞いていた。アイリーン嬢の実家から出資してもらったにもかかわらず、研究でいい結果を出せずフレッドは借金をしているらしい。

 今日も研究所所長であるレイチェルの父に仕事を斡旋してもらいに来たのだろう。しかし独立した手前、堂々と魔道具研究所に出入りするのがはばかられ、こんな人の少ない早朝にやって来たのだろう。


「それ……」

「これは、今私が研究している写映機よ」

「あの夜会で見せびらかしていたやつか」


 レイチェルの手にある写映機をじっと見つめて、フレッドは悔しそうに目を細めた。

 そして彼はレイチェルから写映機を取り上げた。


「これを俺によこせ!」

「あ!? 何するの、返して!」

「お前達のせいで俺はひどい目にあったんだぞ! アイリーンはあの男に目移りして、離婚されて……出資も止められて。お前はどうせあの男に全て助けてもらったんだろう? いいじゃないか、こんな研究の一つや二つ」

「研究の一つや二つ? 本気で言っているの? フレッド、あなただって研究者ならこれがどれだけ大変なことかわかるはずでしょ。確かに私はアレクシス様に助けてもらったけど、それだけじゃ……きゃあ!?」


 フレッドは写映機を取り返そうとするレイチェルを突き飛ばし、部屋に入ると揃えられていた研究の書類の束を乱暴につかんだ。


「これで、俺は……」

「これで、何なんだ?」


 冷ややかな声が研究室に響いた。

 レイチェルは、突き飛ばされて床に倒れこみそうになったはずの自分が、誰かに抱き留められたことに気づいて固まっていた。

 目の前でフレッドがはじかれたように振り返る。


「スタンフィールド卿……」

「研究漬けの我が妻を迎えに来たのだが、これは一体どういうことなのか説明してもらえるか? フレッド・オルコック殿」


 真冬の氷山よりも冷ややかな目で、アレクシスがフレッドを見つめていた。

 いよいよ追い詰められたフレッドは真っ青な顔で、写映機と研究資料を持ったまま部屋を飛び出そうとした。けれど、さっとレイチェルを下がらせたアレクシスが腕をつかみ、さらには足を払いのけたことで、フレッドはみじめな声を上げてその場に転がった。


「うわあああぁああぁ!?」


 アレクシスは、恐ろしい程に冷ややかだった。茫然とするレイチェルの前でアレクシスはフレッドを見下した。


「散々彼女を女性だからと見下し、馬鹿にしたあげく、成果を横取りしようとは……研究者としてのプライドはないのか? いいや、あなたはとっくに自分が彼女より研究者として劣っていると、わかっていたのだろう。だから他の女性に逃げたんだな。そうでもしないとそのちっぽけなプライドを保てなかったのだろう?」

「ぐ、ぐうう……」


 その背中に片足をどすんと乗せて、アレクシスが問う。答えられるはずもないフレッドは悔しそうにうめき声をもらすだけだった。

 そしてその様子を散らばった写映機と研究書類を回収しながら、レイチェルは戦々恐々としながら見つめていた。

 やがてやって来た警備兵に(あらかじめ呼んであったらしい)フレッドが連行されていくのを見届けて、ようやくアレクシスがレイチェルを振り返った。


「レイチェル、怪我は無いか?」

「あ、アレクシス様……その、ありがとうございま」

「礼はいい。それより、これはどういうことか説明してもらおうか?」


 アレクシスはまだ怒っていた。

 それは当然だ。

 彼が取り出した一枚の紙。

 それはレイチェルがスタンフィールド家の私室に残してき離縁状だったのだから。



 その日、レイチェルが再びアレクシスと顔を合わせたのは夜になってからだった。

 というのも、強制的に馬車に乗せられスタンフィールドの屋敷に帰る途中で、過度の睡眠不足と疲労からレイチェルは気絶してしまったのだ。

 おかげでいつの間にか湯あみも終わり、気がつけば寝間着を着せられ、仮眠をとらされていた。侍女達に甲斐甲斐しくお世話をされたレイチェルが軽く食事をとった後にようやくアレクシスがやって来た。


(もうこの屋敷には帰って来るつもりはなかたのに……居たたまれなさすぎる)


 目の前に置かれた離縁状は確かにレイチェルが書いたものだった。

 私室の引き出しの中に入れていたのだ。

 目の前に座るアレクシスは明らかに怒っていた。


「……これは、一体どういうことなのか説明してもらえるか? 急な仕事で研究所に泊まり込みになると聞いていたのだが」

「はい、その……、直接アレクシス様に伝える勇気がなくて。申し訳ありません」


 本当は正直に自分から「離縁してください」と言えばよかったのだ。

 けれどレイチェルにはそれができなかった。

 アレクシスを好きになってしまったからだ。


「……好きな相手が、できたということか」

「…………?」


 それはアレクシス様の方では?

 と、レイチェルは何度か瞳を瞬いた。

 目の前のアレクシスはこの世の終わりのような深刻な顔をしている。


「アレクシス様は、嬉しくないですか?」

「はあ!? ……コホンッ。す、すまない。だが離縁をいきなり告げられて喜ぶ人間がどこにいる?」


 初めて聞いたアレクシスの大きな声にレイチェルがソファから少しだけ飛び上がる。慌てて冷静を装う彼は、しかしあまり冷静ではなさそうだった。

 レイチェルが去れば、ずっと思い続けた相手と一緒になれるはずなのにだ。

 彼は離婚したくないのだろうか。

 真実を聞くのは怖い。けれどこれ以上誤魔化し続けることもできないだろうと、レイチェルは観念した。


「アレクシス様には、結婚前からずっと一途に思い続けている方がいると噂で聞きました」

「……は?」

「その方との結婚式を考えている、というお話も。ですが、アレクシス様はお優しいので私に離縁を告げることを躊躇されているのではないかと思って」

「…………」

「契約には好きな相手ができた場合は速やかに離縁すること、という項目がありますので」


 アレクシスは頭を抱えて項垂れてしまった。

 やはり最初から正直に離縁してくださいと言っておけばよかっただろうか、とレイチェルは不安になった。なにやらアレクシスを傷つけてしまったかもしれない。


「あ、あの」

「……いや、違う。私が悪い。私が全部悪いのだ」

「え?」


 のろのろとアレクシスが何やら呟きながら顔を上げた。

 その美貌が今日はなぜかひどく情けなく見える。


「……あの項目を入れたのは、貴女に好きな相手ができた時のことを考えてのことだった」

「……私にですか? それはありえません」


 レイチェルは驚いて目を丸くした。恋愛に疎い自分はこれから先も好きな人などできないと思っていた。

 実際にはアレクシスに恋をしたわけだが。


「……そうでもしなければ、万が一貴女に好きな相手ができたときでも、私は貴女を手放せなくなると思った」

「……え?」

「レイチェル、貴女に話していないことがある」

「は、はい」


 レイチェルは覚悟してピンと背筋を伸ばした。

 きっとこれからアレクシスの想い人の存在を告白されるのだ。

 怖いけれど、アレクシスが真剣な顔をしていたので、ちゃんと聞かなければと思った。


「貴女に契約結婚を持ちかけた夜会の夜。レイチェル、実は私はそれ以前から貴女のことを知っていたんだ」

「え……!?」

「王城で何度か魔道具協会の国際会議があっただろう。あの時、私も王城関係者として会議の裏方として参加していたんだ」


 意外な話の展開にレイチェルはぽかんとしたまま、過去の王城であった魔道具協会の国際会議を思い出していた。確かに、遠目で偉い人達と話しをするアレクシスを見たような気もする。


「その時貴女は他の研究者達に交じって、下働きのような仕事も嫌な顔一つせずにこなしていた。そして、研究発表の場ではそれは楽しそうに堂々と発表していた」


 国際会議に女性は少ない。

 その中で、堂々と自身の研究を発表するレイチェルの姿は印象に残ったのだとう。


「それから君のことは噂で色々と聞いていた。代々魔道具研究をしているストーン家のご令嬢で、女性ながら立派な研究者だと。君の書いた魔道具の論文もいくつか読んだ。……素晴らしいと思った。だから一度話しがしてみたいと思ったのだが、私は以前も言ったようにあまり女性が得意でない」


 そんな時にあの夜会があり、一人バルコニーに息抜きに行ったレイチェルを見つけたアレクシスはあの言葉を聞いたのだ。


『愛とか恋とかどうでもいいから、必要な時だけちゃんと夫婦の体裁をたもつから、好きなだけ魔道具の研究させてくれる人いないかなあー!』


「え……!? そ、それを聞いて契約結婚? な、なんでですか!?」

「いや、私も自分でどうかとは思ったが、貴女を手に入れるには、あの時はそうするしかないと思ってしまった。研究はいくらでも応援したかったし。結婚してから、少しでも私を好きになってもらえたらと……」


 唖然としてレイチェルは目の前のアレクシスを見つめた。

 確かに、あの時いきなり「貴女が好きです、結婚してください」と言われても信じることはできなかっただろう。

 しかし、結局はその契約結婚という条件でアレクシスは自分で自分の首を絞めていたようなものだ。

 レイチェルがはっと我に返る。


「……え? 好き? 私をですか!?」

「そうだと言っているのだが」


 アレクシスは耳まで真っ赤になって両手で顔を覆っていたが、レイチェルの言葉を聞いてジロリとこちらを見上げる。

 その顔に嘘は全くないようだった。

 段々とレイチェルの顔も熱くなってきた。それと同時になんだかおかしくなってきて口の端がむずむずと歪んでしまう。


「ふ、ふふ……」

「笑いたければ笑てくれ」

「私達、両想いなのに一体何をやっていたんでしょうね」

「え……」


 綺麗な紫水晶の瞳を見開いて、呆けた顔でアレクシスがレイチェルを見つめる。

 美貌の伯爵様は、なんだかとても可愛らしく見えた。


「貴女も、私を……好きになってくれるのか?」

「は、はい。もうとっくに」


 自分の言った言葉に照れて、レイチェルは俯いた。アレクシスの腕が伸びてきてレイチェルをそっと抱きしめる。

 一気にレイチェルは全身が赤くなった気がした。


「レイチェル、君が好きだ。契約結婚ではなく、私と本当の夫婦になってくれないか?」


 優しい声音がじんわりと胸に広がっていく。なんだか泣きたい気持ちになるのはなぜだろう。

 幸せな気持ちに包まれてレイチェルは「はい」と小さく頷いた。

 宝石のような紫の瞳が、レイチェルを優しく見つめている。やがて二人の唇は自然と重なったのだった。


「……ところで」

「はい?」


 ぽつりとアレクシスが呟いた。

 懐から何枚もの写真が出てきた。


「その、離縁状の入った引き出しのさらに奥からこんなものが出てきたのだが」

「そ、それは」


 それは写映機を開発する過程で何枚も試し撮りした、アレクシスの写真だった。すべて隠し撮りである。

 ぎゃーっと叫んでレイチェルはアレクシスの手から写真を奪おうとしたが、アレクシスはその長い腕を上げてレイチェルには届かないようにした。


「か、返してください。それは全部未完成品なので!」

「しかし全部私だ」


 あああ、とレイチェルは憤死しそうになった。

 レイチェルは思いを自覚する前からアレクシスの容姿に惹かれていた。だから、つい隠し撮りしてはコレクションして、影で眺めて楽しんでいたのだ。

 もう離縁するものだと決めつけて、その傷心で写真のことはすっかり忘れていた。


「……ずるい、と思うのだ」

「え?」

「貴女だけ、私の写真をこんなに持っているのは」


 どういうことだろう?

 半泣きになりながらアレクシスの言い分に首をかしげる。

 少し恥ずかしそうに頬を赤くして、アレクシスはレイチェルを見た。


「私も、貴女の写真が欲しい。私が持っているのはこの一枚だけだ」


 それは以前王城近くのセントラル公園に行ったときに撮った一枚だった。きょとんとした間抜け顔のレイチェルが写っている。

 画像もまだ荒く、色もしっかりと出ていないそれをアレクシスは大切に持っていたらしい。

 その事実に、レイチェルは胸がむずむずとして叫びだしたくなった。アレクシスは美しく凛々しい伯爵様なのに、可愛いと思ってしまったからだ。


「じ、実は完成した写映機には二人で撮れる機能をつけているんです」

「二人で?」

「だから……その、二人で一緒に撮りませんか?」


 そう言って見上げると、嬉しそうにアレクシスが微笑んだので、レイチェルは写映機に時間差で起動する機能を付けて本当に良かったと思ったのだった。



 それから新しい年がきて、春になる頃、アレクシスとレイチェルは郊外にある小さな教会で二人だけのささやかな結婚式を挙げた。花嫁のためのドレスも、結婚式のための教会探しも結局はレイチェルのためだったらしい。

 机の上にあった贈り物の小箱の中身は、銀色に輝く結婚指輪だった。アレクシスはいずれ渡そうと思いながらも、なかなか踏み切れずにいたらしい。今はレイチェルの左薬指で輝いていた。

 小さな教会の前で二人は並んで写真を撮る。


「ええと、こうか?」

「そうです。そこのスイッチを押して……、アレクシス様、並んでください」


 ベンチの上に写映機を置いて、慣れない手つきで操作する。一般人でも問題なく使える簡単な使用にしてあるのだ。

 そして、二人が並んだところで写映機がカチリとなって一瞬光る。

 すると下からジジジ……と写真が出てきた。

 その出来栄えを見て、レイチェルとアレクシスは微笑みあった。


「アレクシス様」

「なんだ?」

「これから毎年、一枚ずつ家族写真を撮りましょう」

「家族写真……」

「来年は、もう一人家族が増えていますので」


 いたずらっぽくレイチェルが笑えば、はっとしたようにアレクシスはアメジストの瞳を見張った。

 レイチェル作った写映機は、少しずつ市場に出回り始めていた。

 きっとこれから、たくさんの思い出が、写真となって残るだろう。

 そしてレイチェルとアレクシスの思い出も。


(大切な今、この一瞬、一瞬を閉じ込めて)


 来年も再来年も、そうやって続けていけたらいい。

 今は二人きりの写真だが、もしかしたら数年後にはとても賑やかになっているかもしれない。

 そんな未来のことを考えて、レイチェルは隣にいるアレクシスと寄り添って、いつまでも写真を眺めていた。


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