第8話:偶然という名の神業
「……面倒なことになった」
アキトは舌打ちした。平穏な日常が、目の前で音を立てて崩れていく。
校庭に突如として現れた黒い獣――影狼。前世では、ゴブリンと大差ない最弱クラスの魔物。だが、魔力の存在しないこの世界では、その鋭い牙と爪は、高校生にとって絶望的な脅威となり得る。
生徒たちの悲鳴が、鼓膜を劈く。教師たちの怒声が、空しく響く。誰もがパニックに陥り、逃げ惑うだけ。アキトもまた、その群衆に紛れて、さっさとこの場を立ち去ろうとしていた。俺には関係ない。これは事故だ。俺は、ただのしがない高校生なのだから。
しかし、その決意は、ある光景によって脆くも崩れ去った。
逃げ遅れた数人の生徒の中に、桜庭咲良の姿があった。彼女は、恐怖で足がすくんでしまったのか、その場に立ち尽くしていた。影狼が、低い唸り声を上げながら、ゆっくりと彼女へと距離を詰めていく。
「……ちっ、仕方ない」
見過ごすことは、できなかった。彼女が傷つく姿を、想像したくなかった。
だが、派手に魔法を使うわけにはいかない。あくまで、これは「偶然」でなければならない。
「ほんの、ちょっとだけだぞ……」
アキトは誰に言うでもなく呟くと、意識をほんの少しだけ、風に集中させた。
――その瞬間、校庭に、あり得ないほどの突風が吹き荒れた。
ザアアアアッ!
砂塵が舞い上がり、生徒たちの髪や制服を激しく揺らす。その風は、まるで意思を持つかのように、校舎の壁に立てかけられていた「全国大会出場おめでとう!」と書かれた巨大な立て看板を、ピンポイントで持ち上げた。
「「「えええええ!?」」」
看板は、奇妙な軌道を描いて宙を舞い、影狼の頭上へと正確に落下した。
ゴッ!という鈍い音と共に、影狼が地面に叩きつけられる。しかし、まだ息がある。獣は、ふらつきながらも体を起こし、怒りの矛先を再び桜庭へと向けようとした。
「まだ動くか、しぶといな」
アキトは、次に意識を地面へと向けた。
次の瞬間、影狼が踏み出そうとした足元が、不自然に隆起した。コンクリートの地面から、拳大の鋭い岩塊が、まるでタケノコのように突き出したのだ。
ガッ!
それに気づかなかった影狼は、見事に足を取られて盛大に転倒。その勢いのまま、先ほど落下してきた看板の角に、側頭部を強かに打ち付けた。
ピクピクと数回痙攣した後、影狼は黒い霧となって、跡形もなく消滅した。
校庭を、静寂が支配する。
やがて、誰かが呟いた。
「……今の、何?」
「す、すごい風だったな……」
「看板が倒れて、たまたま石につまずいて……奇跡だ!」
生徒たちは、あまりにも出来すぎた偶然の連鎖を、「奇跡的な事故」として認識した。教師たちも、生徒に怪我人がいなかったことに安堵の息をつき、事態の収拾に追われ始めた。
「ふぅ、危なかった。我ながら、なんて運がいいんだ」
アキトは、自分の幸運に感謝しながら、そっとその場を離れようとした。
しかし、彼の背中に、一つの視線が突き刺さっていることには、まだ気づいていなかった。
桜庭咲良の、鋭い疑念に満ちた視線が――。