第3話:平穏を求めて、いざ学園へ
「いってきまーす」
玄関のドアを開けると、澄み切った青空が広がっていた。
「アキト、忘れ物ないのー?」
キッチンから聞こえる母の呑気な声に、「なーい」と適当に返事をしながら、俺は新しい通学路を歩き始めた。
県立陽南高校。それが、俺の新しい学び舎だ。
目標は、ただ一つ。「目立たないこと」。
英雄でも賢者でもない、その他大勢のモブキャラクターAとして、三年間を無風でやり過ごす。それが俺に課せられた、唯一にして最大のミッションである。
「おーす、アキト!」
背後から肩を叩かれ、振り向くと、クラスメイトの鈴木と佐藤が立っていた。
「昨日、深夜にやってたアニメ見たか?」「見た見た!あのヒロイン、マジ天使じゃね?」
始まるのは、異世界の情勢でも、魔王軍の動向でもない、実に高校生らしい、実に平和な会話だ。俺は適当に相槌を打ちながら、この何でもない会話の心地よさに、思わず口元が緩むのを抑えられなかった。
そんな、平穏な通学路でのことだった。
前方を歩いていたランドセル姿の小学生が、何もないところで大きく体勢を崩した。今にもアスファルトに顔面から突っ込みそうだ。
「おっと」
周囲の誰もが「あっ」と声を上げるよりも早く、俺は無意識に行動していた。
【念動力】
ほんのわずかな魔力が、風のように小学生のリュックサックをそっと支える。彼は前のめりになった勢いのまま、しかし不思議な浮力に助けられ、数歩たたらを踏んだだけで、転倒を免れた。
「危ないな、風が強かったのか?」
俺は内心でそう呟き、何事もなかったかのように歩き続ける。
「お前、今なんかしたか?」と鈴木が怪訝な顔をしたが、「いや、何も?」と首を傾げると、「そっか」とすぐに興味を失ったようだった。それでいい。それがいい。
しばらく歩くと、今度は俺自身に小さな災難が降りかかった。
考え事をしながら歩いていたせいで、道端の側溝の蓋が開いているのに気づかなかったのだ。
「うおっ!?」
足を踏み外した、と思った瞬間。
世界が、ほんのわずかにずれた。
【空間転移(短距離)】
コンマ数秒にも満たない時間、俺の体は半歩だけ、物理法則を無視して瞬間移動していた。結果として、俺は側溝の穴の縁を爪先で蹴る形となり、難なく危機を回避した。
「おお、危なかった!運動神経良くなったのかな?」
前世では考えられないほどの身体能力の低下を嘆いていたが、存外、この体も捨てたものではないらしい。俺は自分の幸運と、意外な身体能力に少しだけ感心しながら、再び学校への道を急いだ。
俺の目標は、あくまで平穏な日常。
こんな小さな「偶然」は、そのためのちょっとしたスパイスに過ぎないのだ。
そう、この時はまだ、本気でそう思っていた。