0-2.戦姫出陣
北のエンブラ帝国、都市からはるか離れた荒野の一画。
夜空には輝く小さな満月。
ダニアの空を巡る三つの月のうち、最も小さく残酷な女神、三女クトファだ。
三女クトファが睥睨する今宵、北の大国エンブラから南東のアウルカ国へ向けた軍事侵攻を進めていた。
荒野に陣を成すは、装甲車三十台からなる一個中隊。
その先頭、指揮官用車両の上面装甲に、金色の全身鎧を身に纏った若い女性、ヒルドが立っていた。
端正な彼女の顔立ちは、かすかに幼さが残り、少女と呼んでも差し支えはない。
ヒルドは白銀のマントを翻し、後方に整列する兵卒達を睥睨した。
細かな鎖で編みこまれた彼女のマントは、月の光を受けて冷たく煌く。
少女の容姿に反し、ヒルドの声は絹に織り込まれた鋼のように艶やかに、そしてしたたかに駐屯地を貫く。
「これよりゴカ殲滅戦を開始する! 敵は世界樹の恩恵、重銀を簒奪せしめる下国の民である! 彼の地にあるものは、すべからく鏖殺せよ! 創世の理を知らぬ者共の屍を以って、我が祖国の礎とするのだ! 者ども、気勢を上げよ!」
ヒルドはサーベルを引き抜き天に掲げた。
足元から見上げた兵士の眼には、金色の姫が掲げる刃に満月が寄り添い、月の第三女神クトファの守護を得ているようだった。
『おおおおおおっ!』
『戦姫ヒルド様! 我らが守護者!』
『常勝将軍! ヒルド・ロインセリア様! 万歳!』
隊列を組んだ兵士たちが一斉に喊声を上げた。
兵たちの咆哮が地を揺らし、ヒルドの肌を撫でる。
「心地よい鬨の声だ。我が神クトファ、我が主リーナディス様もお喜びだろう」
ヒルドの鎧と腰まで伸びた髪は金色を纏い、たなびくマントは月の光を蓄えたように白銀に染まる。
人ならざる少女の纏う空気は、まさに神話の一幕だ。
同行する兵士たちにとって、神代の戦いに参加する魂の栄誉と高揚感を連想させた。
身を翻し、装甲車の上面装甲を静かに歩くヒルド。
具足が鉄板を叩く音に合わせて、装甲車が大きく沈み揺れる。
戦姫は砲身を撫で、斜め装甲に開けられた司令官用ハッチに腰掛けた。
その真横、操縦者用ハッチから身を乗り出した青年将校が敬礼する。
襟元には、金色の勲章が光っていた。
「さすが戦姫殿下、皆の士気も最高潮です。リーナディス陛下の鎧もよくお似合いです!」
「いつまでも陛下の御心を砕くわけにはいかぬからな。行くぞ」
「はっ!」
エンジンが唸り、車体前方が一瞬浮き上がり装甲車が発進する。
耳に残った鬨の声の余韻と後方に続く装甲車の群れに、ヒルドは言葉を漏らす。
「30年ぶりか、この肌を撫でる戦場の風は」
「30と1年3か月にございます!」
操縦者ハッチから顔を出すのは先ほどの青年将校。ヒルドの怪訝な表情に気づくと。
「父が生前、殿下と従軍したことが生涯の誇りであったとよく言っておりましたので」
ヒルドはじっと兵士の横顔を見つめた。兵士は運転に集中しながらも、戦姫殿下の視線を受け、気が気ではない。
「鍛冶屋の倅、スタル家のヴァルと言ったか」
「え! は、はい! それが父です!」
「父のようによく励め」
兵士は歓喜の雄叫びを上げたかった。しかし、今は行軍の真っ只中にあって、しかも王族の御前である。何度も唾を飲み込み、思いの丈を腹にしまう。
そして、鍛えた腹筋に力を籠め、腹の底から力いっぱい、一声だけ発した。
「はっ!」
唸る装甲車の排気音が、荒野に鳴く虫の声をかき消す。
そして、深く穿たれた二条の轍が重なり群れとなり、残虐なる女神クトファに照らされ、闇夜に一筋の道を引いていった。