0-18.黒井戸小祠①
コテツとカガミは、管理小屋を後にすると、細道をさらに奥へと進んだ。
道は山肌に沿って続き、右手には銀霧峡の内部が大きく口を開けている。
銀霧峡は全長約80㎞以上に及び、その先で守護山脈へと繋がっていた。言い伝えでは、谷底の奥――最上流にある水源部の洞窟を抜けることで、世界樹が坐す禁足地へ至るという。
銀霧峡の崖沿いには、ところどころ岩盤から張り出すように展望が設けられていた。
洞の手前、二人の立つ場所にも、そのひとつが取り付けられている。
コテツは腰の高さにある石垣へ手を添え、身を乗り出すようにして谷底を覗き込んだ。
深さ5,000mはある銀霧峡の底を、一筋の川が縫うように流れている。
日差しを反射した水面は、遥か下でかすかな光となって揺らめいていた。
「こりゃ! コテツ坊! 慟哭の谷を覗くなと何度言やあわかる! マガツ淵の水面を見ると、鏡面街に招かれっぞ!」
しゃがれた叱声が背後から飛ぶ。
振り向いたコテツとカガミの前に、飴色の竹杖をついた老人が立っていた。
よれたTシャツに腹巻き、使い込まれて色あせた深緑の作業着ズボン。
腰は深く曲がり、禿げ上がった頭には白髪がまばらに残っている。
「ゲン爺、いまは銀霧峡だって」
「かぁー! なぁにが銀霧峡じゃ。ここの名前は大昔から慟哭の谷。死者の魂が時を遡り、マガツ淵を登って世界樹まで帰る通り道じゃ。観光向けだかなんだから知らんが勝手に変えよって……まったく、むにゃむにゃ」
ゲン爺は入れ歯の口をもごもごと動かし、言葉にならない文句を垂れ流す。
その様子は、コテツにとって見慣れた光景だった。気にも留めず、話を続ける。
「もう、あとは奥だけ?」
「んじゃな、神殿周りは全部終えてきたとこよ」
「なら、洞の中は俺がやっとくから、ゲン爺は休んでていいよ」
コテツは水の入ったバケツを持ち上げてみせる。
横に立つカガミも倣って、清掃用具をゲン爺に向けて掲げた。
ゲン爺は返事の代わりに、飴色の竹杖を縦にひと振りする。
その仕草を同意と受け取り、コテツも右手を上げて応えた。
二人のやりとりを見て、カガミが小さく首を傾げる。
「コテツって、広場にはあんまりいないけど、こっちにはよく来てるよね」
「まあ、広場は観光地って感じでなあ。あんまり好みじゃないんだよ」
「かっかっかっ。それでこんな爺と一緒に銀嚢様に普請しとるんじゃから、若いのに変わりもんじゃって」
「ふしん? ってなあに?」
「普請って、んー、祠の周りを掃除したり、お供え物したり? だよね? ゲン爺」
「おうおう、銀嚢様の身の回りのお世話をするこっちゃな。なんせ銀嚢様は片腕じゃて。ほれ、あとは洞ん中だけじゃ。あとは任せたぞ」
「ゲン爺さんはもう帰るの?」
「うんにゃあ」
ゲン爺は竹箒を肩に担ぎ、洞入口の脇に据えられた平べったい石へ、ゆっくりと腰を下ろした。
「ゲン爺はさ、銀嚢様の妄想しながら日向ぼっこするのが日課なんだよ」
「妄想って、言い方!」
たしなめるカガミの言葉よりも早く、ゲン爺はにやけた表情を浮かべる。
「銀嚢様は絶世の美女じゃったそうでのう。しかし、戦で両目を潰され、片腕でおらっしゃる。人手が必要じゃろ。わしゃあ、あの世へ行ったら銀嚢様のお側に使えたいんじゃよ。身の回りを世話する小間使いの一人にでもなれればの、ずっと一緒にいられるじゃろ」
「なんだっけ、善行がどうたらってやつだっけ」
「銀嚢様は天眼をお持ちじゃからの。わしのように善行を積んでおれば、額の天眼でしっかりとみていてくれるんじゃ。どんなご褒美を頂けるかと楽しみじゃ。ひゃっひゃっひゃっ」
「ええ……ゲン爺さんが祠の管理人をしているのって、ユーゴの言う通り下心なの?」
「だから言ったろ。ゲン爺は妄想するのが日課なんだって」
「き、気持ちわるーい……」
「ひゃっひゃっひゃっ」
口元を緩めたまま、にたにたと笑うゲン爺。
コテツはその足元に置かれていた清掃道具を拾い上げ、洞へ向かって歩き出した。
カガミもその背を追う。
「コテツ、いつも言うとるがよお、黒井戸の扉は開けるなや。濡焔に祟られるでな。焔の加護を受けた銀嚢様以外があれに触れちゃならん」
「あいよー。わかってるって」
後ろ手に挨拶を交わし、二人は岩肌むき出しの洞へ足を踏み入れる。
洞の入口は2.5mほどの高さがあり、露出した岩肌は、鱗のような模様でびっしりと覆われていた。
鱗模様は、まだ掘削機械の無い時代、槌と鏨で岩を穿ち、人力で洞をくり抜いた名残だ。
岩壁の側面には一定の間隔で照明が並び、暗い洞内を淡い橙色に染めている。
カガミはコテツの後ろを歩きながら、鱗状に刻まれた岩肌の凹凸を指でなぞった。
上部から落ちる橙の光に照らされ、指の影が鱗の凹凸に合わせて伸び縮みし、角度を変えていく。
その変化を楽しむように、カガミはしばし足を進める。
やがて岩肌の感触と影を堪能し終え、前を行くコテツへ疑問を投げかけた。
「ねえねえ、さっきのなあに?」
「ん、さっきのって?」
「ここに入る前にゲン爺が言ってたの。祟られる~って」
「ああ、濡焔だよ。もう少しで着く」
コテツの言葉通り、ほぼ直線に伸びる洞を進むと、ほどなくして最奥へ辿り着いた。
洞の奥には、真っ黒な岩で組まれた四角い黒井戸が据えられ、その上に小さな祠が建っている。
岩床から生えたような黒井戸には、井戸と同じく黒く分厚い金属の蓋が被せられていた。
黒井戸そのものを基礎とするかのように立つ木製の小祠に、護国王の刀『濡焔』が祀られている。
祠は、そのままの名で『黒井戸小祠』と呼ばれていた。
「カガミ、ここに入るのは初めてだっけ?」
「んー、何回かあるけど、奥まではなーい。なんか怖いし」
「怖いか? 濡焔は知ってるだろ」
「うん、ギンノウ様の刀でしょ」
「その刀が奉じられているのが、この黒井戸小祠」
「へえ、……くろいどしょうし? あ、クロイド遺跡ってもしかして! この黒井戸! じゃない? 名推理!」
腰に手を添え、胸を張るカガミに、コテツはあきれた視線を向ける。
「え? むしろ、今まで知らなかったのか? 地元民だろカガミ……」
カガミは呆れ越えのコテツなど意に介さず、武骨な南京錠がぶら下がる格子状の扉の隙間から、黒井戸小祠の中を覗き込んだ。
祠の中には、一本の刀が安置されている。
黒蒔きの鞘に拵えられた銀炎の装飾が、橙色の照明を受け、怪しく光を返していた。




