0-17.逃げるノダナ
コテツとカガミは護国王広場を進み、神殿を越えると、山肌に沿って奥へと続く細道へ足を踏み入れた。
広場の賑わいとは打って変わり、細道に人影はなく、敷き詰められた片麻岩の石畳と、崖側への落下を防ぐ簡易的な石垣が、静かに続いている。
左手にはギンノウ山山頂を臨み、右手には深い渓谷『銀霧峡』が横たわっていた。
谷の縁は鋭利に裂け、そのまま断崖となって落ち込んでいる。
コテツたちの立つ位置から、対岸の崖までは、およそ三〇〇メートル。
足元から吹き上げる冷たい風が、谷の深さを否応なく意識させた。
二、三分ほど歩くと、正面左手に建つ小さな平屋の管理小屋に辿り着く。
細道はなお先へと続いており、目で道を追えば、その奥には山肌に穿たれた小さな洞が、口を開けていた。
コテツは管理小屋の前で足を止め、扉をノックする。
「ゲン爺、いるー?」
返事はない。
慣れた様子で扉を開け、中を覗いたコテツは、すぐにそれを閉めた。
「ゲン爺、たぶん奥の黒井戸に行ってるな」
視線を小屋から外し、道沿いの軒先へ回る。
軒下に掛けられていた箒や塵取りといった清掃道具を手早く集め、足元へ置いた。
蛇口の下にバケツを据え、水を汲み始める。
その様子を眺めていたカガミは、ふと背後に人の気配を感じ、振り返った。
そこに立っていたのは、ノダナ族だった。
声をかけるより早く、ノダナ族はカガミの横をすり抜け、バケツに水を汲み終えたコテツへと近づく。
「こてつー」
ちょうどバケツを持ち上げた瞬間、死角から掛けられた声に、コテツは思わず身を引いた。
「うわ! あぶな! バケツで見えなくて踏むとこだったぞ!」
水をこぼさぬよう慎重にバケツを支えるコテツへ、ノダナ族は静かな声で告げる。
「こてつ、にげるのだな」
石畳にバケツを下ろし、コテツはしゃがみ込んで視線の高さを合わせた。
「逃げるって……急にどうした」
「何から逃げるの? ノダナ族さん」
カガミも隣にしゃがみ込み、二人並んでノダナ族の顔を見る。
ノダナ族はカガミの顔を見るなり、泣きそうな顔を浮かべた。
そして、箸のように長く黒い爪で南西の空を指し示し、コテツの眼をじっと見つめる。
「あっちがあんぜんなのだな。すぐにげるのだな」
指を伸ばしたまま、ノダナ族は視線を逸らさない。
コテツは状況を掴めぬまま、しばし南西の空へと目を向けていた。
「まってるのだな」
「よくわからんけど……」
それだけ告げると、ノダナ族は返答を待たず踵を返し、細道の方へ歩き出す。
その先には、ムロージが立っていた。
ムロージはコテツとカガミに軽く会釈し、ノダナ族と短く言葉を交わす。
口をへの字に結んだまま、二人を一度見やり、何かを言いかけて口を開いた。
だが結局、言葉は飲み込まれ、首を横に振る。
ノダナ族の肩を叩くと、二人は並んで細道を戻り、護国王広場の方へと去っていった。
「どうしたのかな、ノダナ族さん。ムロージさんも。すごく、悲しそうな顔してたね」
「さあ……動物的な勘、とか。天気が荒れるとか」
コテツは空を仰ぎ見る。
それまで澄み切っていた空は、いつの間にか雲に覆われ始めていた。
吹き上げる風に乗って雲が山の斜面を駆け上がり、次々と空へ流れ込んでいく。
「あ~、明日は雷雨らしいな」
「えー! 今夜のクトファ流星見れるかな?」
「明け方は晴れるらしいから、大丈夫なんじゃないか?」
「ほんと? それなら朝まで起きてる!」
「まあ、お祭りで広場は朝まで人でいっぱいいるし、それもありかな」
「でしょ? コテツがパトロールさぼってもバレないよ!」
「ったく、他人事だと思って。さ、いつものお掃除行きますか」
コテツは水の入ったバケツを持ち上げた。
清掃用具に手を伸ばしかけた、その瞬間、カガミが素早く拾い上げる。
「はーい! 今日はわたしもいまーす!」
箒とちりとりを両手に掲げ、カガミは屈託なく笑った。




