0-10.千乗階段とノダナ族③
千乗階段の終わりには、両端にそれぞれ一抱え以上もある石柱が一本ずつ建てられ、5,555段を上り切った人々を出迎えてくれた。
石柱には黄色や橙、黒い帯の重なった片麻岩特有の縞模様が、ひと際くっきりと浮かぶ。階段の石材よりも見事な岩の表情は、石柱にして門さながらの存在感だ。
石柱の間を通ると、約20,000㎡の開けた空間が人々を迎える。
上空から見れば、千乗階段を底辺に、卵が右斜めに横たわったような楕円形の護国王広場。楕円の頂点部には山頂が位置し、山頂の中腹に掘られた洞窟そのものが護国王神殿となっていた。
石柱の間から見える護国王広場は、大勢の観光客と、その観光客を目当てにずらりと並ぶ数々の露天が賑わっている。そして、最奥にそびえる山頂の麓には、滑らかな曲線を持つ唐破風の庇と、片麻岩の美しい縞模様に彩られた巨大な石柱が立ち並んでいた。
見慣れた光景に迎えられ、コテツは肩を上下させて大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。
「すぅ……はぁぁぁぁ……やっと、ついたー!」
標高が上がるにつれて薄くなる空気、夜勤明けの体にのしかかるノダナ族とその荷物。
コテツは石柱の陰へ移動すると、足を止め、吹き出す汗を拭った。
頭にノダナ族を乗せ、背中に大玉のようなリュックを背負ったコテツを、行き交う観光客たちが物珍しそうに眺めていく。
肩車されているノダナ族を指さして喜ぶ子供が多いが、担いでいるコテツ自身からは、自分の頭上にいるノダナ族は完全に死角だ。
「ふう、はあ、さて、そろそろノダナ族を下ろすか。やけに静かだけど、何してんだ?」
疲労に足を止めたコテツを見つけ、一人の少女が笑顔で駆け寄ってきた。
「コテツ遅いよー! ほら、はやくはやく!」
少女の名前はカガミ。胸元まで伸びた黒瑪瑙のように艶やかな黒髪が、陽を受けてキラキラと輝いている。コテツが純白のワンピースに目を細めていると、彼女は大きく手を振って微笑んだ。
「はあ、はあ、これでも、かなり、頑張ってきたけどね。って、あれ、その顔」
コテツは酸素を求める肺に言葉を乱されながら、カガミの左頬のペイントに目をやった。
左の首筋から左の眼の下まで、真っ赤な火焔紋様が描かれている。
「今夜は護国祭だから、気合い入れないとね!」
笑顔でピョンピョンと飛び跳ねるカガミ。山に吹く風と、跳ねる彼女に合わせてスカートの裾が軽やかに波打っていた。
そんな彼女の姿に、コテツも思わず笑顔になる。
「気が早いなあ。墨を描いてもらうのは夜だろ」
「いいの! 良いことはね、早い方がいいんだよ?」
カガミはひとしきり飛び跳ねると、コテツの頭に居座るノダナ族を覗き見た。
「ノダナ族さん、気持ちよさそうに寝てるね~」
「え、寝てんの? ったく、人に運ばせておいて、いい御身分だな。っと」
呆れ声のコテツ、目に汗が入り左目を瞑った。両手が塞がっているので、どうしたものかと思っていると、カガミがハンカチを取り出し、左目を拭ってくれる。
「ありがと。もう一つお願い、頭の上で寝ているノダナ族を起こしてくれる?」
「いいよー」
カガミはハンカチをしまうと、コテツの肩に手をおいて背伸びした。コテツの頭を抱え、コテツの頭頂部に頬を乗せて眠るノダナ族の頬っぺたをつつく。
「おはよー、ノダナ族さん! 頂上に着きましたよ!」
ノダナ族の黒い鼻頭がヒクヒク動き、とろんとした目が開く。
日差しの眩さのせいでゆっくりと瞼が開かれ、カガミの顔を見つけた。
「カガミなのだなー。こんにちわなのだなあ」
「ふふふ、こんにちは! コテツタクシーのご利用、ありがとうございまーす!」
「ほら、下ろすぞ」
ノダナ族を肩車していたコテツは、その両脇に手をまわしてノダナ族を持ち上げた。
「ふぐ……!」
力むコテツの口から、自然と声が漏れた。ぬいぐるみのように持ち上げられているが、丸々としたノダナ族の体は、幼児ほどの背丈とは思えない重量がある。
コテツは重量に苦しみながらも、ノダナ族をゆっくりと地面に下ろしてやった。
地面に立ったノダナ族だが、足元がおぼつかずによろめく。
その様子を見たカガミがノダナ族をたしなめた。
「あ、また二日酔いでしょ。ダメだよー、あんまり飲み過ぎちゃ」
「なのだなあ」
ノダナ族は頭を掻いて照れる。コテツは額から汗をしたたらせながら驚いた。
「はあ? ふ、二日酔い? まさか、二日酔いで階段登れなかったのか? 体力的に無理だったとかじゃなくて?」
「ええ~? ノダナ族さん、こう見えて体力すんごいんだよ。いつもお酒と食べ物いっぱい背負って階段上って来るもん。自分より大きな荷物とか、何往復も」
カガミはノダナ族のリュックを指差してから、背負う仕草をして見せる。
両手を腰に当て、胸を張るノダナ族。
「ぬん!」
「ぬん!じゃねえよ。ったく。心配して損した」
ノダナ族は得意満面だ。呆れかえったコテツのため息が終わるより早く、ノダナ族はコテツに向かって背伸びしながら、手招きする。
「くれくれ」
「ん? あ、荷物返せって? 勝手に頭に登ったり二日酔いだったり……まあ、元気そうならいいけどな。ほれ」
コテツは呆れながら荷物を下ろす。
ノダナ族はリュックの口を開けると、ドーナツをかき分け、黄金色の蜂蜜が入ったガラスのボトルを取り出した。
コテツとカガミの見守る中、ノダナ族は蜂蜜ボトルの蓋を開け、おもむろに口につける。
「んくっ、んくっ」
「ハチミツを、直で、飲む……だと……?」
ノダナ族はひとしきり蜂蜜を堪能すると、穏やかな笑顔で蜂蜜ボトルをリュックにしまう。すると、蜂蜜ボトルの代わりにドーナツを一つ取り出した。
コテツとカガミは、次はドーナツを食べるのかと黙って見守っている。
ノダナ族は取り出したドーナツを手に持ち、コテツの傍に歩み寄ると、背伸びをしてドーナツを差し出した。カガミが声もなく、口を開けて驚いている。
「お礼なのだな」
「くれるのか? んじゃ、遠慮なく。ありがとな」
コテツはノダナ族の黒い爪でつかまれたドーナツを受け取った。
きつね色に揚げられたドーナツからはハチミツの豊潤な甘さが香って来る。
「ありがとうのだなあ」
笑顔のノダナ族。
リュックをひょいっと背負うと、コテツに手を振り、のんびりとした足取りで去っていった。
カガミはノダナ族が手渡したドーナッツをまじまじと見つめる。
「すごーい! ノダナ族さんがドーナツを人にあげるの初めて見た!」
手に持ったドーナツをながめるコテツ。
「ただのドーナツじゃないのか?」
「ノダナ族さんは食べ物大好きだから。なかでもドーナツが大好きみたい」
「へえ……。お、うまい。ハチミツのいい香りがすっごい!」
きつね色のドーナツの断面は、淡い乳白色でしっとりとしていた。
コテツはドーナツの断面をまじまじと見つめながら言う。
「一緒に食べるか? これ、うまいぞ」
「ううん、きっと特別なドーナツだから、コテツが食べて。私はこの後のためにお腹を空けておかないとだし!」
「あ、カガミ、そういやあのノダナ族の名前、知ってる? 聞いても教えてくれなかったんだよ。もしかして名前ないとか?」
ドーナツを食べながら、冗談交じりで言うコテツに、カガミは頷く。
「うん、ないみたい」
「またまた」
カガミも冗談で返してきたのだと思いコテツは笑う。カガミは両手を顔の前で振って。
「嘘じゃないよ。ノダナ族さんって、名前って考え方がないんだって」
コテツは予想外の回答に少し考え込んだ。
名前がないという文化に馴染みがなく、にわかには信じがたいが、世界は広い。
そういうこともあるのだろうと頷く。
「……不便そうだけど、まあ、文化の違い……ってやつか。それでカガミはノダナ族さんって呼んでるのか」
「うん! それでいいって」
コテツはノダナ族との会話を思い返す。質問をしても明確な回答というのはほとんどなかった。カガミはどうやって、あのノダナ族からここまで詳しく話を聞けたのか不思議だ。
「ノダナ族がそれを教えてくれたのか?」
「あ、違うよ。一週間くらい前からあっちでお店を出している人いるの。その人がね、ノダナ族さんと一緒に旅してるんだって。その人から色々!」
カガミは指さすのは、観光客で賑わう護国王広場のさらに奥だ。




