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薔薇と茨  作者: 松村順
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第7章

 第7章


 東京に出てきて最初に住んだのはJR(当時はまだ「国鉄」だった)板橋駅のそばの古い木造アパートの四畳半の部屋。まずやるべきことは,当面の生計を維持するための仕事探し。翻訳の仕事がすぐに見つかるとは期待しないほうがいいから,水商売のアルバイトを探しました。板橋から一番近い繁華街,池袋で見つけました。これでとりあえず生きてはいける。そして,翻訳の仕事を探し始めました。

 翻訳の仕事について具体的なことは何も知らなかった。インターネットなど影も形もない時代。情報は地道に自分で集めるしか手立てがありませんでした。そうする中で分かったことは,外国語の本の翻訳,本の表紙に訳者として名前が載るような仕事は,たいてい大学教授とか,教授でなくても助教授,講師など,アカデミズムに属する人たちが手掛けているということ。

 アカデミズムに縁のないビジネスとしての翻訳業界でプロの翻訳者に回ってくるのは,ほとんどが技術翻訳と言われる種類の仕事でした。科学技術関係の文献,たとえば専門誌に発表された論文とか,一般ジャーナリズムに掲載された記事とか,特許関係の文献とか,科学技術に関するさまざまな法律,規則,規格とか,そんな文献を主に企業や研究機関から頼まれて翻訳する仕事。ただし,企業や研究機関に直接出向いて仕事をもらうのではなく(そうしている翻訳者もいないわけではないけど),そういう依頼元と翻訳家を仲介するエージェントがあり,そこに登録して仕事を回してもらうのが一般的です。

 では,そのエージェントとはどうやってつながりを作るのか? それも分からなかったから,まずはアテネ・フランセの掲示板を見に行きました。そこに,イベントの案内とかホームステイの案内などに混じってフランス語がらみの求人広告が載っているのは,大学入学前に通っていた頃に知っていました。確かに,フランス系企業がフランス語のできる事務員を,アフリカのフランス語圏諸国(チュニジアとかセネガルなど)の大使館がフランス語のできる秘書などを募集していたけど,いずれも「女性」という指定がありました。

 翻訳者募集の広告を見つけたのは6月末か7月初め頃。うれしかった。すぐに,その広告を出した翻訳エージェントに電話したら,「トライアル用の文章を渡すので事務所に来てください」との返事でした。事務所は銀座にある。銀座と言っても,裏通りの古びたビルの小さな部屋。ドアの表札の会社名を確かめて中に入ると,社長という女性と事務員が1人。わたしはアテネ・フランセの広告を見たことを話した。

 「フランス語だけ? 英語の仕事をする気はないの?」

 「英語は,ちょっと……」

 「そう……フランス語はあまり仕事が多くないけど,それでもいい?」

 「はい」

 「分野としては,科学技術関係が多いけど,それは大丈夫?」

 「理科は得意です。技術的なことは,あまり経験がありません」

 「理科が得意とは心強い」

 そう言いながら,社長はフランス語のトライアル用の,A4版1枚にタイプで打たれたフランス語の文書を出して,

 「前半だけでいいから,仕上げたらもってきて」

 と言いながら,手渡してくれた。

 その日,帰宅してすぐに翻訳して,翌日届けた。社長は,わたしが訳した日本語の文章を読みながら

 「新人にしてはよくできている」

 と評価してくれました。

 それから1週間くらいして最初の仕事を頼まれた。事務所で渡されたフランス語の原文のところどころに化学式が出てくる。ベンゼン環が並んだ複雑な反応式もある。

 「亀の甲とかいっぱい並んでいるけど,大丈夫?」

 「大丈夫です。化学は好きですから」

 「ああ,それは心強い」

 フランス語を勉強している人はたいてい文科系で,化学式や数式が出てくると,腰が引けることが多いらしい。以後,このエージェントからは月に1~2回くらい仕事を頼まれるようになったけど,それくらいでは生活費をすべて賄うことはできないから水商売の仕事も続けてました。

 アルジェリア勤務の話を切り出されたのは,10月中旬。できれば,11月1日から仕事をしてほしいとのこと。ずいぶん急な話でした。社長によれば,日本企業が技術指導している現地のセメントプラントで仕事をしている通訳の一人が急病で帰国して,その穴埋めを急いで探しているらしい。

 わたしはためらいました。わたしに務まるかどうか。フランス語の読み書きに関しては自信があったけど,ヒアリングに不安があった。そして何より,現地の小さな日本人社会に溶け込む自信がなかった。仕事場での人間関係をじょうずにこなす自信がなかった。

 「心配要らない。フリーランスの通訳なんて,みんなそうなんだから。だいたい,外国語が堪能で人間関係もうまくこなせて会社勤めができる人は商社とか銀行とかに就職してちゃんと会社員をやってるって。会社勤めできない人がフリーランスの仕事をするの。工場の人たちも心得て使ってくれるわ」

 「はあ……」

 こんな感じで社長に押し切られてしまった。エージェントの事務所を出る時には,

 「じゃあ,すぐにパスポートを申請してね」

 と声をかけられました。

 アルジェリアは北アフリカの産油国。石油を輸出して得た資金で工場建設などの近代化プロジェクトを進めていた。工場建設やその後の技術指導に日本企業が食い込んでいて,日本人職員と現地の職員との間のコミュニケーションをとりもつフランス語通訳の仕事がかなりあったのです。

 アルジェリア行きの直行便はないので,パリで乗り継ぐ。アルジェリア第2の都市オランの空港に降り立ち,迎えに来ていた車に乗って2時間くらい走りました。車窓の外にはのどかな田園風景が広がっている。羊が草を食む牧草地,ブドウ畑,麦畑,青い空……。映画やテレビ番組やさまざまな風景画を通して南フランスの田園風景としてわたしの記憶に刻まれているのと,そっくり同じような風景。地中海の南と北,キリスト教圏とイスラム教圏に分断されても,地中海世界というのは確かに存在しているようでした。途中,小さな市街地を通り抜けた。午後の明るい日差しの下で,ところどころ棕櫚の街路樹のある道の両側に砂色の石造りの家が並んでいる街並み。それは昔の映画で見た中南米か南ヨーロッパの小都会を走り抜けるような印象でした。

 アルジェリアは1990年代に10年に及ぶ凄惨な内戦を経験します。その直前の平和な時代だったのだと,あとから振り返って理解しました。

 半年ほどのアルジェリア勤務は貴重な経験だけど,一緒に仕事をしていた通訳の人から貴重な情報も得ました。“Japan Times”の求人欄に翻訳エージェントの求人広告がたくさん掲載されているということ。


 翌年4月に日本に戻り,近くの図書館で“Japan Times”を開くと,確かに翻訳エージェントの求人広告が掲載されています。英語だけでなく,フランス語,ドイツ語,スペイン語,ロシア語などなど,いろんな言葉の翻訳者の求人。応募の手順としては,電話でアポイントメントを取ってから履歴書(Personal history)を持参して事務所に出向き,面接してもらう。

 せっせと履歴書を書いて,大小さまざまなエージェントを訪れました。面接担当者はとりあえず履歴書に目を通します。それから,トライアルとしてA4半ページか1ページくらいのフランス語の文章を渡されます。たいてい,数式や化学式が並んでいて,

 「大丈夫?」

 と念を押されることが多い。

 「大丈夫です」

 と答えて,トライアルの用紙を持ち帰り,翻訳を仕上げて,エージェントに持って行く。それで,「合格」と判定されたら,仕事を依頼されるようになります。


 こんなふうにして翻訳の仕事が少しずつ増えていきました。フリーランスだから月々の稼ぎに変動はあるけど,最低でも月10万円は稼げるめどが付いた頃,水商売のアルバイトを辞めました。翻訳だけで暮らせるようになったのは,素直にうれしかった。

 さらに仕事が増え,収入も増えた頃,風呂付きのワンルームマンションに引っ越しました。信じられない思いでした。わたしが子供の頃,自宅に風呂があるのはお金持ちの家だけでした。庶民はみんな銭湯に行ってた。わたしのうちもそうでした。札幌でも,お風呂に入るとは銭湯に通うことでした。まさか,風呂付きの部屋に住めるようになるとは……。

 さらに1~2年して翻訳者としての経験,実績を積み,仕事が増えていくと,それに応じて収入も更に増えました。《これは何かの間違いなんだ》という思いがふとした瞬間に心をよぎったものです。わたしがお金に恵まれた生活をするなんて,想定外のこと。「わたしは貧乏暮らしをするはずだったよね」と自分で自分に語りかけた。

 仕事を減らす方が良いとは思ってました。仕事を減らし,浮いた時間を好きな読書に当てる方が幸せなはず。でもなかなか減らせなかった。わたしは,かつて自分で信じていたほど冷たい人間ではないようだし,かつてピアノバーのマスターが言ったほど情に薄い人間でもないようでした。「どうしてもお願いします」と頼まれると断り切れない。理科に強いフランス語の翻訳者というのは希少種らしく,そういう人に仕事が集まる。それに,正直に言えば,人から頼りにされるのはうれしかったし,人から能力を高く評価されるのは誇らしかった。

 それともう一つの理由。フリーランスの仕事をしている人は分かると思うけど,「この仕事を断ったら,以後このクライアントからは仕事が来なくなるのではないか?」とか,「今この仕事を断ったら,これから1ヶ月くらいパタリと仕事が途絶えるのではないか?」という不安。翻訳者としての実績が認められていく中で,この種の不安は少しずつ解消していったけど,不安が解消した頃には,「あの人にはこれくらいの納期でこれくらいの仕事を頼める」という評価がエージェントの側に出来上がっていて,それを覆すのが難しくなっていました。


 そんなわけで,なかなか仕事は減らせないけど,読書の時間は確保してました。これは絶対譲れない。仕事が立て込むと朝から晩まで仕事に追われるけど,それが片付いたら,丸1日か2日くらい本を読んで過ごす。平均すれば1日3~4時間,あるいは4~5時間くらいの読書時間は確保していたかも。

 近くの図書館から借りてくる本のジャンルは理系,文系とりまぜて種々雑多でした。理系の本は,多少は仕事がらみでもあります。理系の知識が多い方が仕事もしやすいから。数式があふれる化学基礎論〜量子化学は敬遠して,有機化学,高分子化学の本を好んで読んでいるうちに,生化学,分子生物学の領域に入り込み,薬学や医学の本にも手を伸ばすようになりました。仕事でも,薬学,医学関係の翻訳依頼は多かった。自動車や電器や半導体で世界を制覇した1980年代の日本企業が一番欲しがっていた知識分野だったのかもしれません。

 数式があふれる本を敬遠する一方で,高校数学ごときにつまずいたことを不甲斐なく思う気持ちもあったのか,数学関係の本もたまに手にしました。受験用の参考書などは見たくもないから,一般向けの啓蒙書の中から面白そうなものを選んで。

 文系の本も数え切れないほど読んだけど,ここでのテーマ,ジェンダーやセクシュアリティーに係わって想い出深いのは,『ハドリアヌス帝の回想』の訳者としても有名な詩人の多田智満子の『花の神話学』。

 この本で著者は,ギリシア神話で人が花に変身する話はいろいろあるけど,その主人公はほとんど少年であり,女(大人の女であれ少女であれ)が花に変身する話は少ないと語っています。確かに,水仙に変身したナルシスも,アネモネに変身したアドニスも,ヒアシンスに変身したヒアキントスもみな少年,それもただの少年でない,誰をも魅了する美少年です。古代ギリシアの人々にとって,女性よりもむしろ美少年の方が花にふさわしいものだったようです。

 でも,そもそもどうして古代のギリシア人たちは,花から美女でも美少女でもなく美少年を連想したのか? 著者によれば,花と美少年に共通するものは「はかなさ」です。花の命は「はなかい」ものの代表だけど,美少年の美もつかの間のうちに消え去ります。美少年はあっと言う間に男になってしまう。たとえただの男ではない美男子なったとしても,大人の男の美は美少年の美,華奢で脆い美とは異質のもの。美少年の美は時の流れの中にはかなく消え去るしかないもの。であれば美少年こそ花にふさわしい。

 詩人らいしい魅力的な説明だと思う。でも,わたしは敢えてもう一つの説明を付け加えたかった。美少年は,もちろん女ではありません。でも,男にもなりきっていない。女と男の中間,中性的な存在。このような存在こそが花に匹敵する美を具有できたのだ,「花のように美しい」存在は,男らしさ一辺倒でも女らしさ一辺倒でもない,両者の性質を兼ね備えた中性的存在のはず。……これが古代ギリシアの観念だったと主張するのは無理があるかも。それは,「中性こそが最高の美であるはず」というわたしの願いを古代ギリシアに仮託したもの。そんな無理を承知で,花と美少年の関連を夢想したのでした。

 こんな夢想にもわずかばかりの根拠はありました。ギリシア語で「花」“Anthos”は女性名詞でも男性名詞でもなく,中性名詞なのです。《だって,花はもともと中性なんだから……》


 ダンスへの情熱も続いてた。週1回くらいは踊りに出かけていました。

 1980年代の前半。ディスコブームの真っ盛り。池袋にも何軒かありました。新宿や渋谷にはもっとたくさん。そして何と言っても六本木。でも,わたしはこの頃ディスコで流れていた音楽をあまり好きではなかった。……いや,好きでないというのは言いすぎかも。好きか嫌いかの二択なら好きに違いないけど,何か物足りない,そんな気持ちを抱いていました。1年~2年~3年くらいするうちに,その気持を自分なりに言語化できるようになりました。「単純すぎる」

 ブームに乗って,それまでダンスに縁のなかった人たちもディスコに押し寄せていました。そんな人たちでも気楽に踊れるよう,とても単純なリズムで作られている曲。わたしはもっとメリハリの効いたリズム,敢えて言えば抵抗感のあるリズムの音楽で踊りたかった。その方がおもしろいから。リズムだけでなくメロディーも貧弱に思えました。メロディーがなくてリズムだけでできているような曲。わたしはちゃんとしたメロディーラインのある曲で踊りたかった。その方がきれいに踊れるから。

 そんな音楽で踊れる場所がありました。ああいうお店,業態を何と呼ぶのでしょう。キャバレーかナイトクラブくらいの広さの店内,生バンドが演奏していて,踊れるフロアがある。でも,ホステスによる接客はない。お客は,男女のペア,男女のグループ,男だけのグループ,たまには女だけのグループも。わたしのような一人客は珍しかった。お客の年齢層もディスコに比べるとかなり高い。30代,40代,50代くらい。

 バンドのレパートリーは幅広かった。演歌やムード歌謡では踊れないけど,シティーポップとかニューミュージック系には踊れる曲も多かった。八神純子の『みずいろの雨』,渡辺真知子の『唇よ熱く君を語れ』,大瀧詠一の『恋するカレン』など。

 バンドの演奏の合間には,その頃から普及し始めていたカラオケでお客が歌うこともありました。踊れる曲を歌ってくれると,フロアに出て踊ることも。初めのうちは《迷惑かな》と思って,フロアの隅で踊ってたけど,意外に喜んでくれる,あるいは喜びはしないまでも気にしないでいてくれることが分かって,フロアの真ん中で踊るようになりました。20代中頃のわたしは他の客たちよりかなり若かったから,そんな振る舞いを大目に見てくれていたのかも。

 この頃,踊りたいけど踊れない曲がありました。高橋真梨子の『桃色吐息』。この曲こそ,ドレスを着てエレガントに踊りたい,いや舞いたい。きっと優雅に美しく舞える。バンドが演奏するたびに,そしてお客がカラオケで歌うたびに,そう思いました。《ドレスを着て来ようか》とも思ったけど,その一歩を踏み出せないままでした。


 そこで何人かの女性と知り合い,知人・友人よりも深い付き合いになり,性愛の関係を結ぶこともありました。20代なかばのわたしはもう,かわいい無邪気な男の子としては振る舞えない。年上の女が若い男を愛する,大人の関係。そんな大人の関係の中で求められる「男」の立ち位置。それに馴染めなかった。

 女の性欲に自分も男の性欲で応えること,女を男の性欲の対象とするよう求められることへの違和感。そして,自分の体に付いているペニスへのアンビバレントな気持ち。わたしにとってはグロテスクで邪魔な物体,できることなら切り取ってしまいたい。でも,わたしを愛する女性は,これを喜んでくれる。

 違和感やアンビバレンスにとどまらず,性愛が絡むために傷ついたり,相手を傷つけたりすることもありました。性愛の中で期待される「男」の役割,その期待がわたしには重荷になる。期待される「男」を演じようとして演じきれないことがわたしを苦しめ,相手を傷つける。

 女の人の体と触れあうのはうれしい。滑らかな女の人の肌の感触や温もりは好きでした。女の人と体を寄せあい,その触感や温感を与えられるなら,それだけでいい。でも,わたしの体が男である限り,それだけでは終わることはなかった。

 こんなわたしの気持ちを敏感に感じ取る女性もいました。

 「男なの?」

 と問われたことがあります。

 「あんた,そのうちきっと男に走る」

 と言われたことも。

 でも,こんなわたしが別の場面では「やっぱり男なんだね」と言われたこともあります。


 わたしは恋に夢中になるタイプではなかった。誰かを好きになっても,寝ても覚めてもその人のことを思って他のことが手につかない,なんてことはありません。誰かと恋している時も,本を読み始めれば本の世界に没入できました。そして,好きだからという理由で相手を束縛したり,相手から束縛されたりするのも嫌でした。

 わたしと一緒にいる時は,わたしだけを見ていてほしい,わたしのことだけ考えていてほしい,他の人のことを考えないでほしいとは思うけど,わたしと一緒にいない時にその人がどこで誰と何をしていても気になりません。まして,彼女の行動を束縛しようとは思いません。だから彼女もわたしを束縛しないでほしい。

 「あなたといる時は,あなただけを見つめます。あなたのことだけを考えます。身も心もあなたに捧げます。だから,ほかの時はわたしを自由にしてください。わたしもあなたを決して束縛しないから」

 みたいなことを話したこともあります。

 却下されました。彼女にとって,そんな願いはあり得ないことのようでした。

 「そんなものは恋じゃない。本当に人を好きになったら,その人のすべてを欲しいと思う。すべてを奪い尽くしたいと思う。起きて寝るまですべての時間を,いや夢の中の時間でさえ,わたしのものにしたいと思う。わたし以外に目を向けたら嫉妬に狂う。それが本当の意味で『人を好きになる』ということなの。なんで,こんな分かりきったことが分からないの?」

 と反駁した彼女は,

 「やっぱり男なのね。男だから恋にそんなに冷淡でいられるのね」

 と付け加えました。

 わたしは反論できなかった。でも,納得もできなかった。わたしの彼女への気持ちは嘘でも偽りでもなく真実だと信じていたし,「女は恋に生きるもの,嫉妬に狂うもの」という主張にも納得できませんでした。《誰がそんなこと決めたの?》嫉妬はエレガントじゃないのに。嫉妬に狂うのはエレガンスや洗練とは真逆の愚かで醜い振る舞いなのに。


 恋をめぐるもう一つのすれ違い。恋の駆け引きをめぐるすれ違い。

 恋の駆け引きの場面では,Yesは必ずしもYesでなく,Noは必ずしもNoでない。デートに誘われて,本当は喜んで出かけたいけど,最初はわざとNoと言って相手をじらせるとか,食事に誘われて,本当は行きたくないけど,最初は思わせぶりにYesと答えて相手の気を引くとか,そんな駆け引きがわたしには面倒くさくて仕方ない。だから,

 「YesはYesと言ってください。NoはNoと言ってください。わたしもYesはYes,NoはNoとはっきり言います。余計なことでわたしを疲れさせないでください」

 と言ったことがあります。

 その場が白けました。彼女にとってこの種の駆け引きは「余計なこと」どころか,それこそが恋の醍醐味だったのかもしれません。ただ,わたしはその醍醐味に付き合いきれなかった。

 10代の頃は,そんな恋の駆け引き,手練手管に煩わされずに愛し合えたはず。大人になったら,不可能になるの? それが大人の恋なら,そんな恋はしなくていい。それが大人の付き合いなら,そんな付き合いはしなくていい。


 わたしは恋から遠ざかるようになりました。もともと恋愛体質ではありません。恋は人生の必需品ではない。ある方が幸せかもしれないけど,なくても生きてはいけるし,恋以外にも人生の楽しみはあります。そしてこの頃,20代が終わる頃,わたしは新しい人間関係を見つけました。


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