第6章
第6章
札幌で過ごした4年間。まじめな学生だったはず。教養課程を終え,文学部史学科西洋史専攻課程に進級して落第もせずに卒業できました。西洋史専攻課程は1学年10人くらい。学部生,院生あわせて30~40人くらいの小さな研究室。男女比は半々くらい。学生どうしの人間関係はそれなりに親しかったけど,いらぬ干渉をしない快適な環境でした。
現役合格でも3年生以上なら20歳を越えるから,飲み会(当時は「コンパ」と呼んでいた)も時おりあったみたいだけど,わたしは声を掛けられたことがなかった。そんなものに興味のある人間だとは思われていなかったのでしょう。実際,興味はなかった。群れをなして酒を飲んで酔って騒ぐ,どこがおもしろいんだろうと思ってました。
だからと言って,人との交際をいっさい断ち切って仙人のように暮らしていたわけではありません。一緒にいれば冗談や軽口も言いあうし,誰かがフランス語の文献や資料を読んでいて分からないところにぶつかってわたしに訊かれたら,きちんと説明してました。フランス語はわたしが一番できるということになっていたから。人から頼られるというのは,たとえフランス語限定であるにしても,意外に心地よいもの。それなりに居心地の良い立ち位置でした。「ちょっと変わってるけど重宝な人」くらいに思われていたのでしょう。
ただ,北大にいた4年間で一番親しくしたのは,西洋史研究室の人たちではなく,教育学部の人でした。もともと農学部農業経済学科で農村婦人問題を研究し,卒業後より広い視野から女性問題を研究するため教育学部の社会教育研究室に学士入学していた人。
1970年代,世界的に第二次フェミニズム運動が盛り上がっていた頃,日本にもその余波が及んでいました。日本では「ウーマン・リブ」“Woman lib(eration)”という言葉の方がよく使われていたけど。
農学部時代の彼女は左翼学生の間で伝説になるような闘士であったらしいけど,そしてわたしも彼女と政治的なテーマについて語り合うこともあったけど,恋愛とか結婚とか子育てなどのテーマについて語り合うことも多かった。彼女自身の研究テーマに係わり,わたしもまた関心のあるテーマだったから。
たとえば,ルネ・ヴィヴィアンRenée Vivienについて。
ルネ・ヴィヴィアンはフランスの女流詩人。日本ではほとんど知られていないけど19世紀終わり頃から20世紀初め頃,ちょうど第一次フェミニズム運動の頃のフランスではわりと有名でした。作品のほとんどは恋愛詩だけど,女の恋人と分かち合う愛を熱烈に麗しく歌い上げた詩。女性参政権運動のような政治活動に係わっていたかどうかは知らないけど,男に愛されることも,男を愛することも決然と拒否して,同性との愛に生きた人。「ベル・エポックのサッフォー」と呼ばれたことも。
わたしの話に彼女はうなずいた。
「そういう主張は今もあるんだよ。異性愛は,結局は男による女の支配になってしまう。愛における男女平等は不可能だ。平等な愛は女どうしの愛にしか存在しない,というような主張」
とはいえ彼女にとって,女性を恋愛・性愛の対象とするのは考えられないことでした。
結婚についても,
「なんで,結婚なんて制度があるだろう」
とぼやくことはあっても,結婚を断固拒否する独身主義というわけではないようでした。
「わたしの生き方を受け入れてくれる人なら,そしてわたしもその人の生き方に共鳴できるような人なら,結婚してもいい」
みたいなことを語っていました。
「あなたは,結婚についてどう思ってるの?」
と話を振られて,わたしは自分の思いを語りました。
世間のことがある程度分かるようになった頃から,たぶん中学生の頃から,結婚はわたしにとって謎でした。《なんで人はわざわざ結婚なんて面倒なことをするんだろう?》自分の両親や隣近所の夫婦を見ていて,そう思っていました。特別仲が悪いわけじゃない,ごく普通の夫婦だけど,わたしにとって,あの程度のありふれた生活を実現するためにわざわざ結婚することが理解できなかった。あの程度の生活なら一人暮らしでも十分に実現できると思っていたから。たぶん,わたしにとって,人間関係というのは基本的に面倒なことであって,それを維持するにはそれに見合う大きなメリットがないといけないというのが発想の基盤にあったのでしょう。世間の夫婦を見ていて,それほどのメリットを実現しているようには見えなかった。
こんなことを語ったわたしは彼女から
「どれくらいのメリットがあれば,結婚してもいいと思っているの?」
と問われて,返事に困りました。そもそも,自分が結婚することをぜんぜん想定していなかったから。
子供は絶対欲しくなかった。子供の立場で経験した親子の軋轢を親の立場で繰り返すなんて,まっぴら御免という強い思い。こんなわたしの思いに彼女は
「わたしだって,親子の軋轢は経験したけどね」
と語りながら,
「でも,子供を生み,育てたいという気持ちはある」
と語ってくれました。
子供は絶対作らないという決心にはもう一つの理由もありました。
文学書に親しみ,昔(明治~大正~戦前の昭和)の文士たち,男の文士たちの実態・生態を多少なりと知るようになったころから,自分の夢の代償と言うべき赤貧の暮らしに妻子を巻き込んで(場合によっては女房の稼ぎに寄生して)平然と生きていた三文文士たちの身勝手な生き様には生理的な反感を抱いていました。貧乏覚悟で夢を追うのなら,その貧乏にほかの人を巻き込むべきではない。結婚なんかすべきじゃない,まして子供を作るなんてもってのほか,無責任の極みだと信じていました。
わたしもきっと貧乏暮らしをする。だから,それに妻子を巻き込むべきではない。こんな倫理観に特に反対するわけでもなく,賛成するわけでもなく,彼女は
「あなたの将来は貧乏暮らしが確定してるの?」
と問いました。
わたしは,《どんな仕事かは思い付かないけど,ともかくなるべく人と交わらない仕事で最低限の収入を得て,図書館の近くに小さな部屋を借りて慎ましく暮らし,仕事以外の時間は図書館から借りた本を読んで過ごす》という,子供の頃から思い描いている人生設計を披露しました。この頃には,「どんな仕事」の部分に「翻訳」という言葉が入っていたけど。
彼女は「男のくせに覇気がない」などと馬鹿げた非難はしなかった。
こんなことを屈託なく語り合える彼女との関係は,ただの友達よりは深いと感じていました。ではなんと定義すればいい? 恋人?……それはない,即時却下。彼女と分かち合った信頼関係は恋愛感情ではなかった。それなら,親友?……その言葉にも抵抗があります。「親友」という言葉に時としてまといつく馴れ馴れしさは,彼女との関係にはなかったから。いろんなテーマについて,どれほど自由に気楽に語り合っていても,ある種の礼節は保たれていたし,相手が語りたがらないことを無理に聞き出そうとはしない抑制は保たれていました。そんな,名付けようのない関係がわたしには心地よかった。
彼女とも話題にした貧乏暮らしは,将来のことではなく,その時点での現実でした。月4万円の仕送りで決して赤字は出さずに暮らしてました。あの頃,1970年代後半から現在までの間に物価水準は2倍〜2.5倍くらいになっているから,今なら月8〜10万円の暮らしになります。堅実に暮らすスキルはしっかり身につけました。それは卒業後にも必要であるはずのもの。
でも,こんな慎ましい暮らしの中で,週1回くらいディスコテックに行くお金は捻出してました。ダンスが好きだったのです。その頃から今に至るまで,読書に続くわたしの第2の情熱と言っていい。
ダンスを知ったのは家出していた時。まだ福岡に米軍基地や米軍関係者が住むキャンプがあった頃。黒人兵たちの溜まり場みたいな場所が中洲の近くにありました。そこでリズムに乗ってかっこよく踊る黒人たちを見ながら,覚えました。ジュークボックスから流れていたのは1960年代のリズム&ブルースの名曲たち。代表的なレコードレーベルの名前を取って「モータウン・サウンド」とも呼ばれる音楽。そこがわたしのダンスの故郷。彼らはみな自由に,思いのままに,踊っていた。
“Freedom is the soul of dance”-「自由こそダンスの魂」という彼らの言葉にならい,わたしも音楽のリズムにあわせて自由に踊りました。楽しかった。「自由に踊る」とは,決してむちゃくちゃにデタラメに踊るのではない。音楽の流れに身を委ね,「このリズム,このメロディーなら,こんなふうに踊る」という体の声に従って踊るのです。そんな時,手足の指先までが自由の感覚にひたされる。
家出から戻って実家にいる間はダンスに出かける機会がなかった。札幌に住むようになって,ダンスを解禁しました。
札幌で最初に出かけたディスコ。そこは,わたしのダンスの故郷とはぜんぜん違う空間でした。人々が群れをなして同じ振り付けで踊っている。みんな一斉に同じように手足を動かす。わたしには異様な光景でした。《この人たちはダンスの魂を持ち合わせていないのか?》
それから,わたしは札幌のディスコを見て回りました。ディスコブームで札幌にも「雨後のタケノコ」ほどにディスコがあった。何軒か探して,見つけました。お客たちが自由に踊っているディスコ。そこにも,群れをなして同じダンスをする人たちはいたけど,それだけでなく自由に踊る人たちもいた。札幌カルティエ・ラタンという名前,今も覚えている人はどれくらいいるんでしょう。
カルティエ・ラタンで,ビートの効いた音楽にあわせて自由に踊る。かなり激しいダンスをしてました。学校の体育は2で通したけど,体の柔軟性とバランス感覚は優れていたみたいで,アクロバティックな動きもできました。そんな激しい音楽の合間にミディアムテンポくらいのやや静かな曲,その頃のはやり言葉で「メロウ」と呼ばれた音楽,Marvin Gayeの“What’s goin’ on”とか,Stylisticsの“Sixteen bars”みたいな曲も流れる。そんな音楽には,それにあわせてエレガントに踊る。それもまた楽しいけど,《こういう音楽なら,ジーンズスタイルじゃなくて,もっと優雅な衣装で踊りたい》とも思いました。もっと優雅な衣装とはどんなものか,その時は具体的に思いつかなかったけど。
カルティエ・ラタンで,あるいは,たまに出かけることもあったほかのディスコで,女性と知り合う機会はありました。そのうちの何人かとは親しく付き合い,性愛の関係に至ることもありました。でもそれは,16歳の時の甘美な体験とは微妙に違っていました。年上の女性にすべてをゆだねて,ひたすら愛されるのでは済まされない関係。わたしがリードすることを求められる場面もありました。これが,大人になるということ? もう「女の子のようにかわいい男の子」として振る舞うのは許されないの?
アルバイトも経験しました。
家庭教師はしたことがない。塾の講師は半年ほどやったけど,辞めました。やる気があるとは言えない子供たちを相手に50分の授業をするのは辛かった。ましてその相手というのが男子中学生,かつてわたしが苦手とした「悪ガキ」たちであれば,なおさら。
結局,水商売の世界に舞い戻りました。札幌の繁華街,薄野。博多の中洲と並べて語られることもある夜の街。学期の授業がある時期に毎日夜の仕事をするのは不都合が大きいから,夏休みや春休みに短期のアルバイトを何度か繰り返しました。仕事は,ごくありふれたスナックバーのバーテンダー,ピアノバーのバーテンダー,ナイトクラブのウェイター,そしてホストクラブの裏方とでも言うのか,奥で簡単な食べ物を作ったりグラスや食器を洗ったりする仕事,など。
わたしがウェイターとして働いたナイトクラブは薄野でも指折りのお店のようでした。ホステスさんはみなそれぞれに美しかった。
そのナイトクラブでは,一晩に2回,ダンスショーをお客に見せていた。プロのショーダンサーが出演するのではなくて,ホステスさんのうちダンスのうまい人がダンスを披露する。その時間になると,ふだんでも暗い店内がさらに暗くなり,フロアの中央の狭いステージにカクテルライトが当てられ,ダンスが始まる。この時間帯はウェイターも鑑賞の邪魔にならないようフロアの隅に引っ込んでダンスを眺めていました。
まず,5~6人のホステスさんたちのチームダンス。とりわけ上手なわけではないけど,体にフィットするレオダートに包まれた女性の体の柔らかなラインは美しかった。とりわけ,なんの邪魔物もないスッキリした股間のライン。男が着たらグロテスクな突起がさぞかし醜いことでしょう。
続いて,一番ダンスの上手なホステスさんのソロダンス。レオタードではなく,エレガントなドレス姿で踊る。ドレスの裾がステップにあわせて優雅になびき,ターンにあわせてふわりと揚がる。片足を腰の高さくらいに上げると,下半身を包むドレスがきれいな扇形を描く。
彼女の踊りをステージのそばで見ながら,「舞姫」という言葉が心に浮かびました。ダンサーでも踊り子でなく,舞姫。優雅に,時に激しく舞う,舞姫。そして,自分もあのように優雅に舞ってみたいという気持ち。美しいドレスに身を包んで……。この頃からドレス姿への憧れが心に住み着きました。相変わらず,スカートを履きたいとは思わない。普段着はパンタロンの方がシックでかっこいい。でも,優雅なドレスは着てみたい,着て踊りたい。
ホストクラブでは,シックな美形の男たちが背広にネクタイを締めて女客の相手をしていました。わたしが16歳の時に働いたサパークラブでは,お客とキャストが打ち解けた雰囲気だったけど,ここではもっとかしこまった感じ,いかにもお客様をおもてなしするという雰囲気でした。
ウェイターはいなくて,わたしがカウンターに出した食べ物や飲み物,グラスや氷をホストさんが自分のテーブルに持って行く方式だったから,ホストさんと話す機会もありました。
働き始めて何日かした日,
「キミもホストで働きたいんじゃない?」
と尋ねられました。わたしは首を横に振りました。このお店のお客とホストの距離感がなじめないと感じていたから。そんなわたしの反応を見て,その人は「ふーん……」という態度で自分のお客のいるテーブルに戻っていきました。
それからまた1週間くらいした頃,そろそろ営業が終わるくらいの時間に別のホストさんから
「店が終わったら一緒にコーヒーでも飲みに行かない?」
と誘われました。
突然そんな話を振られて戸惑いました。そして全速力で頭を回転させました。《コーヒーを飲むだけで済むのかな? これって,要するに口説き?》考えすぎかもしれないけど,どうしてもそこまで考えてしまう。その人は,これまでわたしに粘りつくような視線を向けた男たちに比べれば,遥かに粋で美しい,好感の持てる人でした。でも,《この人に抱かれてもいい?》と自問する。答えは《No!》
「ごめんなさい。仕事が終わったらすぐ部屋に戻って休みたいんです」
「ああ,そうなんだ」
と言って,その人はカウンターから去って行った。その後も,その人から邪険にされることはありませんでした。
ピアノバーで働いたのは4年生の夏休み。
カウンター席の他にフロアに4人がけのテーブル席が6~7卓。踊れるフロアもあるけど,もちろんディスコダンスではなくて,ワルツやジルバやブルースなど,男女ペアで踊る社交ダンス。ピアニストとベーシストがBGMを演奏している。時には,お客の求めに応じてダンス音楽を演奏したり,あるいはお客の歌の伴奏をすることも。まだカラオケが実用化される前の時代。
マスターは垢抜けた粋人。シックな背広にネクタイを締めて,客の話し相手をする。ママ(=マスターの奥さん)は彫りの深い顔立ちの美人で,歌がうまい。接客の合間にピアノとベースを伴奏にジャズバラードなどを歌う。いかにも「大人の社交場」という雰囲気の空間。その洗練された雰囲気は好きでした。
わたしはカウンターの中にいて,お酒やおつまみを出したり,洗い物をしたりするのが仕事。お客の相手はあまりしないけど,話しかけられたら差し障りない返事をし,二言三言くらいは会話を交わす。そんなふうにアルバイトは淡々と過ぎていきました。そして夏休みが終わり,わたしがアルバイトを辞める時,マスターがこんなことを言ってくれました。
「どうせ文学部なんか出たってろくな就職先はないんだろう。こんど,もう1軒店を出そうと思ってるから,そこの店長をやらないか。お前はこういう仕事が向いてそうじゃないか……」
「そうですか?」
「うん。こういう仕事は,情が薄い方が向いている」
「それって,褒めてるんですか?」
わたしは笑いながら答えた。
「気を悪くしたか?」
「いえ,そんなことはありませんが」
「薄情という意味じゃないんだ。ただ,お客に惚れ込んじゃあ仕事にならない。特別ひいきの客を作ってもいけない。どんなお客にもていねいに,だけどのめり込まずに,接客できないといけない」
「わたしにはそれができると?」
「ああ,そう思う。お前は,何というか,誰に対しても,さらりというか,淡泊というか……」
そんなふうに評価されていたとは,知らなかった。もしマスターの観察が正確なら,わたしは水商売の世界で生きていく素質,能力があるということ?……ちょっと迷いが生じたけど,お断りしました。
12月末に卒論提出。年が明けてすぐに卒論の口頭試問。それで卒業が確定したら,すぐに東京に出ました。大学にもう用はない。そして翻訳の仕事は,英語はまだしもフランス語の仕事は,東京に集中しているから。札幌の街は気に入ってたけど,そういう事情なら離れるのも仕方ありません。