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薔薇と茨  作者: 松村順
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第4章

 第4章


 2年生になって間もない5月,わたしは家出をしました。内攻した親への思いが臨界点に達した。「もう無理!」という気持ち。今,冷静に振り返れば,何も家出するほどのことではなかったのかもしれないけど,その時は思い詰めていたのでしょう。

 翌年3月に家に戻るまでの10ヶ月,いろんなことがありました。詳しく書けば1冊の本になるくらい。だから,ジェンダーやセクシュアリティーに係わりそうなところだけ抜き書きします。


 水商売の世界に飛び込みました。ほかに選択肢を思い付かなかった。

 家を出たからには自分で稼がないと生きていけません。16歳の家出少年を受け入れてくれる場所として,建築現場の日雇い労働か水商売しか思い付かなかったけど,建築現場の肉体労働なんてぜったい無理だから,水商売しか選択の余地はありませんでした。それにしても,人付き合いが苦手で世間一般の規範になじめなかったわたしが水商売の世界に飛び込むなんて,昔風の言い方をすれば「清水の舞台から飛び降りる」ようなもの。

 飛び降りた結果,なぜかその世界に適応してしまった。そこに自分の居場所を見つけてしまった。自分でも不思議でした。自分の中に,これまで自分でも知らなかったもう一人の自分がいて,その新しい自分が目覚めて活動し始めた,そんな気がしていました。そして,初めのうちは戸惑っていた新しい自分の振る舞いに,だんだん慣れていきました。

 博多の中洲。西日本でも指折りの繁華街,夜の街。あの狭い街区に飲み屋やスナックバーやキャバレーなど大小さまざまなお店が3000軒もあるという。そのうちのいくつかと係わりを持ちました。


 Sという名のゲイバー。今なら女装バーと呼ばれる。男が美しくよそおってお客を接待する場所。「普通」から外れた種族が住む世界,どこか遠くにあると思っていた。そんなお店の求人広告が出ている。蛾が灯りに引き寄せられるように,わたしはSに出かけ,ママに会いました。ハッと人目を引く和装美人。年は30代後半,ひょっとしたら40歳を過ぎているかもしれないけど,「妖艶」という言葉が似合いそうな美貌と雰囲気を備えている。鋭い視線を一瞬わたしに投げかけ,それからフッと笑みを浮かべてわたしを眺める。

 「お化粧したことはあるの?」

 「いえ」

 「そう。じゃあ,今日はわたしがしてあげる。そのうち自分でできるようにならないとね」

 ママはわたしの顔に化粧を施す。白粉(おしろい),アイシャドー,チーク……最後に口紅。

 「生まれて初めて化粧した自分の顔を見てごらん」

 そう言いながらママが手にした手鏡の中に,きれいに化粧されたわたしの顔がある。誰か,見知らぬ人を見るような思いで,わたしはその顔を見る。ほんの数秒,そうして見つめていました。突然,ママは手鏡を床に置き,わたしの顔を両手で挟み込み,唇を重ね,そして顔を放しました。抵抗しようという気持ちは起きなかった。何も考えないまま,考える暇もないうちに,ママの唇がわたしの唇に重なり,そして離れました。

 服は,膝くらいまでの長さの真っ赤なドレスを選んでくれました。

 「服を脱いでちょうだい。裸にならないと着せてあげられないわ」

 わたしは言われるままに服を脱ぐ。ママは,ブラジャーの左右のカップにパッドを2枚ずつ入れてから,わたしの胸に当て,背中でホックを留める。そして,わたしの肩から腕にかけてそっとなでました。

 「いいわね……ぜんぜん筋肉の付いていない柔らかな腕……わたしは若い頃,炭鉱で肉体労働していたから,こんなに固い筋肉が付いてしまった」

 そう言って,ママはわたしの手を取り,自分の上腕を触らせた。そこには,女らしい優しい顔立ちからは想像できない固い筋肉がありました。この世界では「筋骨隆々」が恥とされる。

 ママはもう一度,わたしの肌をいとおしむようになでて,気を取り直すように立ち上がり,わたしにドレスを着せると,姿見の前に立たせました。顔に化粧を塗り,ドレスを着たもう一人のわたしが姿見の向こうに立っている。肩越しにママがのぞき込んでいる。

 「自分でも見とれるくらいきれいでしょう」

 そう言うママの方を向いて,わたしはほほえみました。


 ママに付き従う接客。

 階段を上ってくる何人かのにぎやかな女の人たちの声。ドアが開くとすかさずママが,

 「いらっしゃい」

 と笑みを浮かべてあいさつする。

 「いらっしゃったわよ」とか「お久しぶり」とか,口々に言葉を返しながら,3~4人のお客さんたちは奥の座敷に上がり込む。ママも一緒に座敷に上がり,隣にわたしを座らせた。

 「新入りの子。ジュンちゃんです。よろしく」

 「あら,かわいい子じゃないの」

 「どこでスカウトしたの?」

 など,思い思いのことを口にしながら,お客さんは特にわたしに話しかけるわけでもなく,ママが座をもり立ててくれた。わたしはママの話芸に圧倒されるだけ。そしてどんな話題も最後は下ネタに落ちる。その卑猥な語り口を聞かされるのは居心地悪かった。

 やがてお客たちは帰っていき,ママは店を閉める。ほかのホステスさんやバーテンダーはさっさと店を出る。わたしはどうすればいいんだろうと迷っていると,

 「ジュンちゃん,化粧を落としてあげるから」

 という声に促されて,わたしはママについて店の上の階,ママの居室になっている階に上がりました。

 ママは慣れた手つきでわたしの化粧を落とす。

 「ドレスは自分で脱げる?」

 わたしは立って脱ぎ始めたけど,初めてのことなので勝手が分からなかった。ママは笑いながら手伝ってくれました。ドレスをしまうと,わたしを脇に座らせ,自分の日本髪のかつらをはずし,化粧を落とし始める。美しい年増女の顔の下から,男の顔が現れる。醜くはありません。優しい細面の美形。だけどそれは,まぎれもない中年の男の顔。化粧を落とし終わると,帯を解いて和服を脱ぎ,布団を敷いた。

 ママは,布団の方をちらりと見て,わたしに目配せする。それが,「布団に寝なさい」という意味であることはすぐに分かる。わたしは指図されるままに布団に腹ばいになりました。

 ママはわたしの下着を取り,自分の下着も脱いで,わたしの背中を愛撫し始める。わたしは緊張していたけど,抵抗する気持ちはなかった。初めからこうなるのが分かっていたような,そんな気持ちでママのされるままに任せていた。強姦……ではなかったでしょう。わたしは成り行きをそのまま受け入れていたから。でも,悲しかった。犯されたことよりも,ママが妖艶な美女から荒々しい男に豹変したこと,そして男の野蛮な欲望をわたしの体で満たしたことが。《やっぱり,男なんだね。どれほど美しくよそおっていても》


 わたしはSで働くことはなかったけど,それからも何度か,まだお客が入らない時間帯にお店に遊びに行くことはありました。その時間帯にはママはいないことが多かったから,ホステスさんたちとおしゃべりする。そんな中で,わたしは違和感を自覚していきました。《この人たちは女を嫌っている。女を憎んでいる》なぜ嫌うんだろう? なぜ憎むんだろう? 自分たちがどんなに努力しても手に入れることのできないものを,女たちは生まれながらに持ち合わせているから?

 わたしは女を憎むなど,考えられもしなかった。


 わたしが働いたのはPというお店。今風に言えばサパークラブ。深夜12時ころから明け方5時か6時頃まで営業している。カウンターの中に男の子がいて,女性客,主に仕事を終えた水商売の女性たちを相手にする場所。

 わたしは年齢を2歳ごまかして18歳と言い張って入店したけど,薄々感づかれていたかも。でも,追及はされなかった。あの時代の水商売の世界は「ゆるい」というか「ずぼら」というか……。おかげで,家出した子供が居場所を見つけられました。それなりに安全な居場所。少なくとも,今のように本人確認や身分証明を求めるクリーンな水商売から排除された子供がたどり着く闇バイトよりは安全だったはず。あの時代,1970年代のずぼらな水商売の世界は。

 お客たちはわたしをかわいがってくれました。Pでも,他の場所でも,この頃出会った女性たちはほとんどみな10歳くらいも年上。そのうちの何人かはわたしをかわいがるだけでなく,愛してもくれました。初体験は夢見心地でした。男の子の初体験としてとびきり幸せな部類だったでしょう。《女の人から愛されるって,こんなに幸せなことなんだ》

 女の人に抱かれながら,ふと《わたしが女の子ならもっと幸せなのに》と思うこともありました。女に生まれ変わって女の人から愛されたい,そんな願い。もちろん,不可能な願いだと分かっていました。そもそも,わたしを抱いているのは異性愛の女性。わたしが,女の子のようにかわいい「男の子」だからこそ,わたしを愛してくれるのだということは,ちゃんと分かっていました。


 女として女の人から愛されたい,そんな不可能な願いに近づけるかもと思えた瞬間もありました。レズビアンの女性,男役の立場の女性にかわいがられたことがあるのです。彼女がわたしに恋愛感情を抱いたはずはありません。そうではなくて,ちょうどペットをかわいがるようにわたしをかわいがってくれた。わたしはそれで十分でした。

 彼女はわたしをかわいがってくれたけど,彼女を取り巻く女たちはわたしを拒絶しました。たまたま,2人の女の人に取り巻かれた彼女に道で出会って食事に誘われた時のこと。丸いテーブルに彼女とわたしが向かい合って座り,2人の女性は彼女の両脇を固めるように座る。その女性たちが醸し出す冷たい雰囲気。いくら女の子のようにかわいくても,わたしは男の子。レズビアンの世界からは拒絶されるのだと思い知らされました。

 だとしたら,女の人から愛されたいなら,異性愛の女の人から愛されるしかないのかな? つまり,わたしは男でないといけないのかな?


 この頃,わたしの男嫌いにダメ押しするような出来事がありました。

 わたしは行きつけの銭湯で体を洗っていたのだけど,何か気になるので周りをちらりと見回すと,やや間を置いて隣に座っている人,初老というくらいの年頃の男がわたしをじっと見つめていた。わたしは不愉快な思いで視線をそらしたけど,その瞬間,視野の片隅に彼の手の動きが目に留まりました。わたしを見つめながらオナニーしていた。

 その時のわたしの気持ち。恐怖よりも不快感が先立った。場所を変えようと思ったけど,やめました。こんな下劣な生き物のために,わたしがコソコソ逃げ出すのは癪に触る。わたしはその男を無視して落ち着いて体を洗い,浴槽に入り,ゆっくりお湯につかってから,浴室を出て体を拭き,服を着ました。出掛けに振り返ると,その人も更衣室にいて,のろのろとしたしぐさで体を拭きながら,未練がましそうにわたしを見ていました。

 この時もまた同じ気持ち。「男って,こんなことをする生き物だよね」。


 水商売の世界に身を置きながら,読書との縁は切れなかった。切りようがなかった。県立図書館を利用しました。あの頃,博多湾に面した須崎公園の中にあった。中洲から那珂川沿いの道を歩いて図書館通い。

 幼い頃《どんな仕事かは思い付かないけど,ともかくなるべく人と交わらない仕事で最低限の収入を得て,図書館の近くに小さな部屋を借りて慎ましく暮らし,仕事以外の時間は図書館から借りた本を読んで過ごす》という人生を思い描いていた。「なるべく人と交わらない仕事」という点を別にすれば,この幼い頃の人生設計に見合うような暮らしだったかも。でも,どこか不満がくすぶっていました。いや,不満ではなく不安です。これからずっと水商売人として生きていけるのか? 生きていく覚悟ができているのか? という不安。

 女の子のようにかわいいといって愛される年頃はいつか終わる。その年頃を過ぎ,ただの大人の男になってしまっても,わたしは水商売の世界に居場所を見つけられるのか?

 年が明けて1月,2月頃からこの不安が高まっていきました。そして3月,親元に戻る決心をしました。


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