第3章
第3章
3年間の中学生活が終わり,わたしは福岡高校に入学しました。福岡では名門校です。1971年。「70年安保」とも呼ばれた全共闘の運動の余韻がまだ残っていた頃。
入学式。新入生歓迎の挨拶に立った生徒会の書記長が演壇から日本帝国主義批判をぶち上げ,新入生の間から「異議なし!」の合いの手が入った。福岡高校には,まだ全共闘の組織が生き残っていたのです。
革命への共感はわたしも持ち合わせていました。自由と平等を掲げたフランス革命への共感(もう一つの「博愛」はその頃のわたしにはよく理解できなかった)。だけど,わたしが思いを寄せる革命と,彼らがとなえる革命はかなり食い違っているようでした。わたしにとっての革命は,ごく簡単・大胆に要約すれば,この世界の不合理を一掃し,道理の通る世の中にすることでした。彼らは合理主義を支配イデオロギーと罵倒し,情念の復権を叫んでいた。わたしはあきれました。《合理主義が支配イデオロギー? 日本のどこを見ればそんなたわごとが思いつくのだろう? ヨーロッパやアメリカはどうだか分からないけど,日本は不合理だらけの世の中じゃないの》
そして,彼らへの共感を冷ましたもう一つの出来事があります。
わたしの同級生ではないけど,彼らの信望を集めていた3年生の福岡高校全共闘のリーダーと,こんな会話を交わしたことがあります。
左翼学生たちの「アジト」について彼が語っていた。アジトというのは,活動家たちの溜まり場のこと。彼もたまにそこに寝泊まりすることがあるらしい。その話の合間にふと
「あそこに行くと,いつも女が余っている」
と口にした。
本人は特に気にせずに言ったことなのでしょう。わたしは不思議な気持ちでした。「女が余っている」,この言い方は,女を性欲処理の道具としか思っていない,そんな気持ちを本人も意識しないうちに漏らしているような言い方だから。
日ごろ,「疎外の克服」とか,「人間の解放」とか,立派なことを言っているけど,彼の意識の中,あるいは無意識の中で,解放されるべき「人間」の中に「女」は含まれていないらしい。それ自体,不思議だし,この単純な事実に彼が気づいていないのが,また不思議でした。
わたしが女だったら,さすがに彼もこんな不用意な言葉を漏らさなかったでしょう。わたしが男だから気がゆるんだ。ここでもまた,あのつぶやきを心の中で繰り返しました「男って,こんな生き物だよね」。
「高校生になったら髪を伸ばすんだ」。中学時代ずっとそう思い定めていた。そして,高校生になって髪を伸ばし始め,夏頃には髪が耳を覆うほどになりました。
華奢な体つきで,ジーンズに女物のTシャツやセーターを着たわたしは,しばしば女の子に間違えられました。「かわいい」と言われることも。言われ始めた頃は驚いた。不思議でさえありました。そのような美質は自分に縁がないと幼い頃から思い込んでいたから。それでもいつの間にか,自分が「女の子のようにかわいい男の子」であることを受け入れた。高校に入ってから数ヶ月のうちに生じた変化。自然の成り行きで生じてしまった不思議な変化を,わたしは運命のように受け入れました。
「運命のように受け入れた」という表現は奇異に響くかもしれません。これは普通,不幸な出来事を受け入れる時に使う言い回しだから。「女の子のようにかわいい」と言われるのは,不幸なことではない。不幸なことではないけど,「運命のように受け入れた」という言い回しがわたしの気持ちには一番よくなじむのです。わたしにとって思ってもいない事態だったから。女性的な美質への憧れはあったけど,それは自分の手に届かないものと思い定めていた。それがある日突然,自分のものになった。虫に心があるなら,青虫が蝶に生まれ変わった時,こんな気持ちになるのでしょうか。
自分の身に生じると思っていなかったことが,自分の身に生じてしまった。その時,まるでそうなるように前もって定められていた必然・運命であったかのように,それを受け入れた。
街を歩いていて,わたしを女の子と間違えた男から声をかけられるのにも慣れました。やがて,「ボクでいいの?」と返事をして,びっくりする相手の様子を見ておもしろがる余裕さえもつようになりました。おもしろがりながら,わたしは何だか誇らしい気持ちでした。今から振り返ると,この誇らしさには切なくほの暗い復讐心が混じっていたかもしれません。わたしが「女でない」と知って,驚きあわてる男たちへの復讐心。それとも,自分が意に反して組み込まれている「男」というカテゴリーへの復讐心?
それに比べ,女の人から「女の子のようにかわいい」と言われるのは素直にうれしかった。女らしい美質に憧れ,自分もそうありたいと願い,そのような美質を持ち合わせている人,つまり女の人が好きだから,女の人から「かわいい」と言われるのがうれしかったのです。
わたしを「女の子のようにかわいい」と言ってくれるのは,たいてい年上の女性でした。いつしか,わたしの心の中に,ただ「かわいい」と言われるだけでなく,愛されたいという気持ちが芽生えていた。実際に愛されるようになるのは,もうちょっと後のことだけど。
高校に入ってから変化したもう一つのことは,学校でのわたしの立場。福岡市とその近郊地域の秀才が集まる福岡高校で,わたしはもはや優等生ではない。
もともと「田舎の秀才,都会に出ればただの人」と思い込んでいた節がある。それに加えて,中学3年生の終わり頃から,《高校では数学を苦手になるだろう》という予感が芽生えていました。試験の成績が下がったわけではありません。試験は最後まで,3年生の3学期の期末試験まで,数学で100点近い点数を取っていた。だけど,なんとなく「なじめない」感じ,数学の発想に親しめない感じを抱くようになっていました。高校では,とりわけ秀才の集まる福岡高校では,数学が苦手になるだろうという予感。そして悪い予感ほどよく当たる。
入学直後に実力判定試験が実施されました。まだ本格的に高校の授業が始まっていなかったこの時点での試験で,わたしはクラスで3番,学年で24番という成績を取ってしまった(全学年400人くらい)。《しまった! 出来すぎ。親の期待値を高めてしまう》と思ったけど,今さらどうしようもない。
やがて本格的に授業が始まる中で,わたしは予感どおり数学で落ちこぼれました。それを取り戻そうと頑張って数学を勉強する気にもならなかった。そんな時間があるなら,本を読んでいたかった。
1学期の中間試験,期末試験ではクラスで20~30番くらいでした。学校の勉強とは関係なさそうな本を読みふけっていてこの成績なら上出来とさえ思っていた。
ただし,親はそう思ってくれなかった。入学直後に取ったクラスで3番,学年で24番という成績の印象が強すぎたのでしょう。「やればできるはずだ」というのが親の思いのようでした。「やれば」という言葉には,なんの役にも立たない(と親の目には見える)本など読まず,学校の勉強,教科の予習・復習をしていれば,という意味も含まれていたはず。わたしに向かって,あからさまにそう言うことは少なかったけど,日々のちょっとした会話の端々に,その思いがにじみ出る。それをわたしは敏感に感じ取る。
親はわたしに立身出世を望んでいたのでしょうか?……分からない。
父親は,定年になるまで赤い自転車をこいで郵便を配る仕事をしてました。企業組織の中で周りの人間を蹴落としてでも昇進を目指すより,働く者たちどうしの仲間意識(労働者の連帯?)を重んじるような人。そのいささか不器用な生き方を,わたしは嫌いではなかったけど,そんな親でも子供には「世間並」あるいは世間並より1ランク上の栄達を望むものなのか。
母親は農家の出。子供にそれなりの期待はあったかもしれない。そして何より,平穏無事な人生を歩んでくれることを望んでいたのでしょう。
悪い人たちではなかったはず。高校で良い成績を取り,一流大学に入り,一流企業に就職する,それは世間の常識として幸せへの一番確実な道だったから。親は,その常識に従って子供の幸せを願った。ただ,常識的な親の願いが,わたしの人生の指向とすれ違っていただけ。そして,「明るく元気に,みんなと仲良く」という,これもまた我が子に寄せる親の常識的な期待も,わたしの気質とは一致しなかった。
《わたしに立身出世なんか期待しないでほしい。そんなこと無理に決まってるから》という思いを口にすることはありませんでした。この時だけではない。わたしは親に対して喧嘩や口論をしたことがありません。もともと,争いごとが嫌いな性格だったけど,それだけでなく,親に養ってもらっている立場で親に逆らうなんて……という諦めの気持ちもありました。「自分の稼ぎで自分を養えるようになって一人前」という庶民のモラルをしっかり身につけていたのでしょう。でも,だからこそ,親への憤懣は内攻したのかもしれません。そして,家が居心地の悪い場所になっていきました。
家に比べれば,高校はまだしも居心地が良かった。
思いがけないことに,「田舎の秀才,都会に出ればただの人」という思い込みは外れました。わたしが生まれ育った田舎の小学校,中学校では,成績の良い子は勉強が好きな子たちでした。中学の科学少年や文学少年少女たちのように,知的興味に任せていろんな本を読み,雑学的な教養を身につけ,その結果として試験でもいい成績を取る,それが田舎の優等生でした。都会は事情が違っていました。あの時代,1970年代の初め頃,すでに「試験だけの秀才たち」が大量発生していた。勉強は試験で点数を稼ぐためだけにするものと心得,参考書と問題集以外の本など見向きもしない,そんな人たちが同級生にたくさんいました。教養の薄っぺらさに驚いた,というのは傲慢かもしれないけど,その時のわたしの正直な感想です。《ひたすら参考書と問題集に血道を上げて,何が面白いんだろう》とわたしは思ったけど,彼らからすれば「勉強を面白い」と思う発想こそ信じられなかったのかもしれません。
そんな彼らから,わたしはどんなふうに見えていたのか? 何の役にも立たない(=試験の点数を上げるためには役に立たない)本を読んで時間を無駄遣いしている愚か者……そこまで辛辣なことを思う人は少なかったかもしれないけど,「本を読む時間の半分でも学校の勉強に振り向ければもうちょっといい点が取れるのに」と同情と批判の混じったような気持ちの人は多かったかも。そして,わたしが小学生の頃からの乱読で積み上げた知識・教養に素直に感心してくれる人も少数だけどいました。どのグループからもわたしは「変な子」,「変な人」ではあったでしょう。あるいは,もうちょっと大人びいたボキャブラリーなら,奇人変人。それはそれで悪くない。わたしは奇人変人としてクラスに居場所を見つけていました。
福岡高校は生徒のほぼ全員が大学に進学し,学年で上位60〜70番以内くらいなら九州大学に現役合格が見込める進学校でした(浪人生も含めれば1学年で120〜150人くらい)。さすがに,1年生の1学期から受験勉強にいそしむわけではないけど,大学受験というゴールは意識させられます。《わたしには無理》と諦めていました。高校入試は,乱読・雑学で積み上げた知識で対応できたけど,大学入試はそんなに甘いものじゃないと思い込んでいました。かと言って,受験戦争に参戦し,競争相手を蹴落とそうと奮励努力するような覇気(少年らしい大志?)は持ち合わせていなかった。今から振り返れば,大学入試を実際以上に高く堅固な壁と思い込み,挑戦の意欲を喪失し不戦敗を決め込んでいたのだと認識できるけど,高校1年生の時点でこの認識にはたどり着けなかった。
先のことを考えるのはやめて,今この時,好きな本を心ゆくまで読んでいたい,それがわたしの正直な気持ちでした。
この年(1971年)の5月頃だったか,ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『ベニスに死す』が日本で封切られた。そこで美少年タジオを演じたビョルン・アンドレセン。わたしはその美貌に見とれました。その後の彼の過酷な運命を知る由もなく,その時のわたしは性別を超越した美の化身としてその写真を眺めていました。何年か前,『愛の夢』のレコードジャケットの写真に見た美少年にも見まがうような美神が生身の存在としてこの世にいる。もちろん,こんな思い,誰にも語りはしない。
同じころ,体育の授業で体力測定が行われました。意識していたわけではないけど,わたしの握力と背筋力の数値はほぼ女子の平均値であるらしかった。ちょっとうれしかった。そして,
「オレは(握力が)50を越えたぞ」
とか
「オレだって……」
などと腕力自慢をしている男子どもを冷ややかに眺めていた。
ただ,体の柔軟性は人並み以上とのことで,これはこれでうれしかった。非力だけど柔らかでしなやかな体,それはわたしが理想とする体,女体の理想形に思えました。
高校1年の夏休みが終わって間もない2学期の初め,中間試験・期末試験とは別に実施された実力判定試験でわたしはクラスで40番台,ビリから数えて2~3番の成績でした。これは親の許容限度を踏み外していたらしい。怒った親は罰として髪を切るよう命じました。辛かったけど,親の命令には逆らわなかった。この場面でも,親に養ってもらっている立場で親に逆らうなんて無理,という諦めの気持ちがあったのかも。
ここでも,意識のずれがあったのでしょう。親は,男の子に髪を切れと命じるのを,さほどの重罰とは思っていなかった(たぶん)。わたしにとっては,高校生になってからずっと伸ばし続け,耳を覆い,肩に届きかけていた髪は,昔の日本女性のように「髪は女の命」とは言わないまでも,エレガンスの象徴であり,わたしの望む生き方の象徴でもありました。
このような親の側からの「実力行使」は,この時だけだったけど,その後も,何かにつけて「ウマが合わない」,「相性が悪い」という思いをかき立てる小さな出来事には事欠かなかった。そのたびにわたしは内心で反発したけど,面と向かっての反抗やケンカはできなかった。庶民のモラルによる抑制はそれだけ強かったのです。それともう一つ。ケンカなんてエレガントじゃないという美意識による抑制もあったかもしれません。でもそれはなおさら,親に対する不満や憤懣を内攻させたのかもしれない。
幸いなことに,髪は切ってもまた伸びてきます。2学期が終わる頃にはまた耳を覆うくらいに長くなりました。そしてまた,私服を着ていると女の子に間違えられるようになりました。
この頃,高校1年生の冬休み頃,わたしは身長の伸びが止まりました。姉の背丈をちょっと越えた,男子にしては低い,女子にしては高い,それくらいの背丈。体型は華奢で,女物のMサイズがぴったりフィットしました。Tシャツもセーターもカーディガンもジャケットも。学校の制服以外はみな女物でした。
女らしさに憧れながら,わたしはスカートを履きたいと思ったことはありません。パンツスタイルが好きです。わたしが着るものもそうだし,女性のファッションでも,いかにも女らしいファッションより,中性的・ユニセックス風のファッションが好きでした。
多くのトランス女性は,スカートを履きたかったけど履けないのが辛かった,というような悩みを語りますが,わたしはこのようなファッション指向のおかげで,その辛さを味わわずに済みました。裾の広がったパンタロンやベルボトムのジーンズを履き,女物のシャツやセーターを着たわたしは,おもしろいことに,女性からは男の子と思われ,男性からは女の子と思われることが多かった。
冬休みの終わり頃,福岡市内での用事を済ませ,公園を歩いていたわたしは男から声をかけられました。いつものように「ボクでいいの?」と聞き返したら,「もちろん」と言って詰め寄られた。わたしは一瞬,凍りついたように体がこわばり,それから駆け足で逃げました。幸い,午後の公園,明るいし人目もあったので,追いかけられて捕まえられ押し倒されることはなかった。安全な距離を保てるくらいに離れて,冷静な思考力が戻ってきました。ホモセクシュアル,男の同性愛者の存在は知ってたけど,実際に出会ったのはこれが初めて。
それ以来,いくつかの体験を経て,わたしは少しずつ認識していきました。わたしは,ホモセクシュアルの男たちにとってかなり魅力的な生き物であるらしいこと。たぶんこの頃から,時おりねっとりした舐めるような視線を感じるようになりました。わたしに欲情しているらしい男からの視線。それに気づいていることを相手にさとられないよう,冷ややかに無視するのが一番いいと決めました。
この頃からでしょうか,たまに夜道を一人で歩いていて,後ろから足音が聞こえてくると,心の中でアラームが鳴るようになったのは。振り向かないほうがいいと思うけど,つい振り向いてしまうことも。後ろを歩くのが男だったら……。ホモセクシュアルの男なら襲われるかもしれない。異性愛の男でも,女と間違えてわたしを襲って,わたしが女じゃないと気づいた時,日中の街角のようにあわてて逃げたりせず,間違えた怒りをぶちまけるように殴る蹴るの暴行を加えてこないか?……そんな恐怖がふと心をよぎる。もちろん,そんな事件はめったに起きるものではないと理性が説得するけど……。