第2章
第2章
あの時代のわたしのふるさとの町の中学では,男子は全員丸刈りという校則がありました。校則に逆らう度胸はなかったから,丸刈りにしました。嫌だったけど,仕方ない。
そして,学ラン。これも嫌だったけど,仕方ない。ただ,ほかの多くのトランス女性と違うのは,男子制服が嫌だからといって,女子制服(セーラー服)に憧れもしなかったこと。スカートとセーラー服というファッションはわたしにはエレガントに思えなかったから。じゃあ,どんなファッションに憧れたのか? パンタロンスーツに憧れました。この好みは今も変わりません。スカートよりパンタロン。中性的なファッションが好きなのです。自分が着るのもそうだし,女の人の服装としても,スカート姿よりパンツスタイルの方が好きです。
もう一つ,中学校で新しく始まったもの。中間試験と期末試験。
小学校では,それぞれの教科の小テストが行なわれるだけで,中間試験とか期末試験のような全教科一斉の試験はなかったし,その結果が学年で何番とかクラスで何番と明示されることもなかった。中学校ではそれが明示されます。そして,試験勉強というのも目新しかった。不思議でもありました。高校入試とか大学入試なら,自分の将来を左右するから,そのために勉強するのも分かるけど,たかが学校の試験の成績を上げるために時間を使うなんて……。試験勉強で頭に詰め込んだ知識は試験が終わって1週間もしたら消えてなくなることを思えば,まさに時間の無駄遣いに思えました。そんな時間があるなら,好きな本を読んでいたい。
わたしには競争心がほとんどなかった。自分を周りの人たちと比較するという発想がなかったのでしょう。自分が周りと比べてどれくらいのレベルにあるとか,同級生の試験の番付が自分より上なのか下なのか,そんなことはどうでもよかった。たぶん,比較という作業はある種の同質性を前提にしているのです。同じ世界の住人である,同じ価値観を持ち合わせていると思えばこそ,互いに比較し合い,競い合う気持ちになる。別世界の人間とは競い合う気にもならない,あの頃のわたしの心境はこんなものだったのだろうと思えます。
上品なもの,優雅なもの,洗練されたもの,華奢なもの……それらのものへの憧れが育っていったのは,小学校を卒業し中学校に入学する頃だったでしょうか。それらは一般に「女らしい」とされる美質。自分がそうなりたいと願い,そのような美質を持ち合わせている人に憧れました。美輪明宏(当時は丸山明宏と名乗っていた)が演じる『黒蜥蜴』が話題になったのは,わたしが中学校に入学した頃。ピーター(池畑慎之介)が登場するのはわたしが中学2年生の時。男に生まれながら,女のように,いや女以上に美しい人が存在している。自分には手の届かない世界の人,そう思いながら,でも心の片隅で,自分もあんなふうになりたいと思っていました。
あの頃,化粧品店の店頭で見かけたポスター。エレガントな女性の写真。あんなすてきな人と友達になれるといいなという思いと,自分もあんなふうになりたいという思い,2つの思いがわたしの心に入り交じっていました。
こんな思い,誰にも話はしない。男の子がそんなことを口にすれば,バカにされることは分かっていたから。ただ,姉の部屋で,姉がもらってきた化粧品会社の宣伝パンフレットを一緒に眺めながら,「きれいだね」と語り合ったことはありました。2人のモデルさんの写真を見比べながら,姉が
「どっちが好き?」
と尋ね,わたしが
「こっち」
と答え。
「そう? わたしはこっちの方が好き」
などと語り合ったことも。
同じころ,たまたまレコードショップで見かけた『愛の夢』というフランツ・リストのピアノ曲のレコード。そのジャケットには,10代前半かと思われる美しい人の写真が印刷されていました。寝ている姿勢で撮影した写真。だたし,眠っているのではなく,横になって目を開いているけど,何かを見ているというより,どこか遠くを見るようなまなざし。
常識的には女性,美少女の写真なのでしょう。だけどわたしはなぜか,それがありきたりの女の子よりも麗しく優雅な美少年の肖像写真のように思えました。と言うより,美少年の肖像であってほしい,こんな美しい人がこの世に実在してほしい,この写真は性別を超越した美の化身の肖像であってほしい,そんな気持ちで眺めていました。
このエレガンスへの憧れは,性別違和感を強めたかもしれません。わたしが男子のでなく女の子なら,この憧れ,気品,優雅,洗練への憧れを語ることも許されたかもしれない。そんな思いが心をよぎったことはあります。
こんな不自由感,今の時代なら性別違和感と呼ばれるじかもしれない感情も芽生えていたけど,その頃のわたしには,「男らしさの規範」への違和感よりも世間一般の規範への違和感の方が差し迫って強く感じられました。自分のことを「変な男の子」ではなく,「変な子」と認識していました。
でも,具体的に何に違和感を抱いていたのでしょう?
第1章でも書いた,「わたしが好きなことを周りの子たちは好きでなく,周りの子たちが好きなことをわたしは好きじゃない」というのもそうだし,ガキ大将が威張る学校という狭苦しい世界への違和感もあるけど,この頃になると周りの子供たちだけでなく,大人たちの立ち居振る舞いにも違和感を覚えるようになっていました。そして,中学生くらいになるとそれを少しずつ言葉で言い表せるようにもなりました。つまり,大人の世界も子供の世界と同じように窮屈で不合理だということ。「無理が通れば道理が引っ込む」世界であり,空気を読むことを強いられる世界であり,義理人情のしがらみに絡め取られた世界であること。
わたしは自由で道理の通る世界に憧れました。であればこそ,歴史の本で知ったフランス革命が掲げた自由と平等は魅力的でした。自由とは,だれにも口出しされずに自分の好きなことをやれる状態だと,素直に理解し,それはとてもすばらしいものだと思った。平等は,そういう自由を誰もが同じように持ち合わせている状態,誰もほかの誰かの言うなりにさせられず,またほかの誰かを無理やり自分の言うなりに従わせることもできない状態なんだと理解し,それもまた,わたしにとってかけがえのない大切なものに思えたものです。
残念ながら,わたしの周りの世界は自由でも平等でもない。身の周りだけでなく,たまに見るテレビで演じられる会社員の世界も同じようでした。同じ会社に勤める者どうしの仕事場での付き合い,さらに,仕事が終わってからも一緒に食事をしたり酒を飲みに行ったりする付き合い,こんな人間関係のしがらみは仕事よりもっとわたしを疲れさせそうでした。それに加えて,上司への気遣い,へつらい,ごますり。上司が好むものは,内心では好きでなくても,「いいですね」とお世辞を言うような生き方。自由も平等もない世界。
そんな世界とはなるべく係わり合いたくない。できるだけ人付き合いを避けて生きていきたい。でも,そのためにはどうすればいい?
子供時代はいつか終わる。子供はいつか大人になり,大人はなにがしかの仕事をして自分の稼ぎで自分を養わないといけない。これは,庶民の子供が物心つく頃から肌身にしみて学び取っている現実でした。
あの頃,中卒で働き始める人も1クラスに4~5人くらいいました。働くことは身近な現実でした。わたしは高校には行かせてもらえるだろう。大学にも行けるかもしれない。でも,ギリギリそこまで。そこから先は働かないといけない。それで,つらつら考えました。
力仕事はぜったい無理。不器用だから職人仕事もだめだろう。会社勤めもハードルが高すぎる……こうやって,できない仕事を一つ一つ消去していくと,あとに何も残らない気がする。結局,具体的な仕事選びは諦めました。《どんな仕事かは思い付かないけど,ともかくなるべく人と交わらない仕事で最低限の収入を得て,図書館の近くに小さな部屋を借りて慎ましく暮らし,仕事以外の時間は図書館から借りた本を読んで過ごす》これが,その頃のわたし考え得る一番幸せな人生。“Boys, be ambitious”「少年よ大志を抱け」など,わたしにはまったく縁のない言葉でした。
その後の人生で,この願いはそれなりに叶えられました。わたしは会社勤めをしたことがない。人付き合いも自分の意志で避けられる境遇に身を置くことができました。このおかげもあって,多くのセクシュアル・マイノリティーの人たちが直面せざるを得なかった困難(の一部)を避けることができたのでしょう。
話が先走りました。中学生時代に戻ります。
中学生は女子と男子の距離が一番広がる年頃かもしれません。小学生の頃はまだ男女の違いをあまり気にせずに混じりあって遊ぶこともある。高校生になれば,恋愛感情を伴う男女の付き合いが見られるようになる。その中間の中学生の年代は,女の子と男の子のグループ分けが際立つ年頃かも。小学校は私服で通学できたのが中学では男女別の制服を着せられるようになって,その区別がさらに鮮明になるという事情もあるでしょう。
男子の間では「悪ガキ文化」が広まります。世間のしきたりや規範に逆らう態度を誇示する立ち居振る舞い。わざと乱暴な言葉遣いをするとか,下品な話題を語り合うとか,これ見よがしにルールを破るとか。
乱暴な言葉遣いや下品な話題には拒絶反応を起こしました。世間のしきたりや規範には,わたしも納得できないものも多かったけど,なぜか悪ガキたちはわたしが納得できる規範を破りたがり,わたしが納得できないしきたりは尊重するようでした。
たとえば,自分より弱い者に暴力を振るってはいけないとか,順番を待っている行列に割り込んではいけないというような規範は破りたがるのに,学級委員は男子,副委員は女子というしきたりや,たった1学年の違いでも後輩は先輩に奴隷のように服従するというしきたりは尊重する。わたしには異星人のようでした。彼らからすれば,わたしこそが異星人だったのでしょうけど。
ただ中学生になると,こんな「腕と度胸」を自慢する悪ガキたちとは別に,ごく少数ではあるけど,知的な物事とりわけ理系の知識に興味を持つ子の小さなグループができました。アインシュタインをヒーローと崇めるようなグループ。このグループに集う科学少年たちとは,わたしも多少の付き合いがありました。
科学少年……あっさりこう書きました。そのとおり,このグループには男しかいなかった。もしわたしが女の子だったら? 拒絶はされないまでも白い目で見られたかも。《女のくせに理科が好きなんて》こんな視線をわたしは浴びずに済みました。その当時はこんなこと考えもしなかった。そのグループに受け入れられることを当たり前と思っていた。いや,「当たり前」と自覚することさえなかった。今,トランスジェンダーの視点からこの時のことを振り返って,認識できます。男子のカテゴリーにくくられるのは,楽しくはなかったけど,それで得をすることもあったということ。
このテーマには,あとでまた立ち返りましょう。
ともあれ,九州の田舎の中学校にも科学少年の小さなグループがあった。文学少年のグループはなかったのか? ありました。メンバーが重なることも多かった。中学生の年代では,まだ文系・理系の区別は明らかでなく,自然科学にも文学にも興味のある子,要するに本を読むのが好きな子はいました。そして文学なら,文学少年だけでなく文学少女もいました。
図書室で何度も顔を合せるうちに少しは打ち解けてくる。本の感想などを語り合うようにもなります。男子と女子に仕切られることの多い中学にあって,男子と女子が混じりあう機会でもありました。そして,女子と一緒にいる方が心地よくリラックスした時間を過ごせることは何となく自覚していました。
中学生時代に読んで印象に残っている文学書。まず,ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』。この時代の文学少年の定番かも。
最初に読んだのは,小学校5年生か6年生の時。その後,中学生の時と高校1年生の時に読み返しています。最初に読んだ小学生の時は,ただハンスの運命に同情しただけです。
2度目,中学生の時は,ハンスの運命と自分の将来を重ね合わせました。世間をうまく渡っていく才覚を持ち合わせていないわたしは,結局ハンスのような人生をたどることになるのかな? きっとそうだろうと思いました。それは悲しかったけど,だからといって,世間を渡る才覚を磨こうとは思わなかった。所詮,わたしには無理なことと諦めていたのでしょう。
3度目,高校1年生の時は,ハンスの同級生で親友だったヘルマン・ハイルナーの姿が強く心に残りました。ヘルマンは,ハンスと同じように世間になじめないのに,ハンスのような自滅の運命は免れた。この二人は,どこが違ったのだろう。まだ世間を知らない幼い頭で真剣に考え,そして自分なりに納得のいく結論を得ました。
ハンスは中途半端だったんだ。世間のしきたりになじめないのに,無理に世間に適応しようとして,自滅した。世間になじめないのなら,世間の常識にこだわらず,自由に生きていけばいい。ヘルマンがそうしたように。
その翌年,16歳のわたしは家出をするけど,この結論が決断の要因の一つになっていたのか,無関係なのか……。
済みません,また先走ってしまった。中学時代の読書体験に話を戻します。
堀辰雄の『風立ちぬ』。こちらは文学少女に人気があった。定番とまで言えるかどうかは分からないけど。
出会いの場は,中学校の図書室の本棚。背表紙のタイトルを目で追っていて「これは……」と直感したのです。その頃,わたしはそんな直感を持っていました。背表紙の色や装丁の質感,タイトルの名前,印字の形,そんな印象全体から「これは……」とひらめく。そうして選んだ本に「はずれ」はほとんどなかった。
この時もそうでした。中学・高校生向けの文学作品集のシリーズの一冊で,『風立ちぬ』,『菜穂子』,『幼年時代』それと『大和路・信濃路』も入っていたかな?
わたしは,一気にその世界に引き込まれました。そして,この人の作品をもっと読みたいと思いました。でも,中学の図書室には他に堀辰雄の作品はなかった。どうしようと考えあぐねて,本を買うことにしました。
それまでのわたしにとって,本は学校の図書室から借りて読むものでした。本を買うという発想がなかった。でも,その頃,ちょっとしたきっかけで本は買うこともできることを学んでいた。それで,文庫本で手に入る堀辰雄の作品を買い揃えました。
角川文庫がお気に入りでした。創業者で国文学者だった角川源義が健在の頃,文庫のラインアップはオーソドックスで,日本文学関係が充実していた。堀辰雄の作品は6冊刊行されており,主な作品はこの文庫で読めました。しかも1冊ごとに巻末に,ちょっとした評論と言えるほど詳しい解説が付いている。堀辰雄に係わって書かれたものは何でも読みたいほどのファンになったわたしは,作品はもちろん解説も熱心に読みました。
堀辰雄に係わって書かれたもの,そして彼に影響を与えたとされる作品は何でも読みたかった。コクトー,ラディゲ,プルースト,モーリアック……。さらに,それらの作品を原書で,フランス語で読みたいとも思うようになりました。もともと,フランスは憧れの国だったし。それで,ポケットサイズの仏和辞書を買って,暇な折にパラパラめくったりしていました。結局,それ以上には進展せず,フランス語学習計画は立ち消えてしまったけど,高校生になって再チャレンジする火種ではあったかも。
いつか小説を書きたい,これは文学少年少女が一度は思い描く夢でしょう。わたしもそんな夢を見ていました。ただ,その頃,その夢を冷ましはしないまでも,抑制するあるいは方向づけるような文章に出会いました。今となってはそのタイトルも書いた人の名前も思い出せません。当然,正確な引用もできません。記憶に基づいて再構成します。
― 日本には職業作家が多すぎる……ヴァレリーは生涯アヴァス通信社に勤め生計の手段を確保した上で,本当に書きたいことだけを書き綴った。ジードやプルーストは資産ある家族の一員として生活の心配をせずに十分な時間をかけて作品を練り上げた。日本の職業作家たちは文筆で生計を立てようとする。そのため,自分の内的欲求にも作品世界の成熟などにもおかまいなしに毎月一定量の文章を製造せざるを得ない。文字通りの売文稼業。それこそ,文学を冒涜する振る舞いであろう…… ―
およそ,こんな文章。わたしは心から共感しました。そして心に決めました。《わたしも文学を飯の種にはしない。金儲けの手段にはしない》
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あれは中学2年生の秋のことでした。
小学生の頃から田畑や野原を散歩する趣味があったけど,中学生になるとその延長で,近くの里山に登るようにもなりました。登山というよりもっと気軽な,ちょっと長めの散歩という気分。
その日も,ジーンズに運動靴という気楽な格好で山を歩いていました。里山の頂上に登って,家に向かって帰っている時のこと。狭い山道を抜けて,自動車が1台通れるくらいの道に入り,しばらく歩いていると,バイクに乗った若い男に声をかけられました。「後ろに乗せてやる」と言われたので,わたしは乗せてもらい,自分の住所を告げました。バイクはわたしの家に向かって軽快に田舎道を走る。あと10分くらいで着くと思う頃,道をはずれてそばの池のほとりに乗り付け,男はバイクを止めた。
「○○のまねごとをさせろ」
わたしは驚いたけど,不思議と恐怖感はなかった。言われるままに,パンツを下ろし,池のほとりの草の上にうつ伏せになると,男は自分のペニスをわたしの尻に押し付けました。何度か入れようと試みたけど,入らなかった。それ以上,無理に入れることはしなかった。
「もういいよ」
そう言われてわたしはジーンズをはきました。男はわたしの見ている前でペニスをしごき始め,そして,射精してみせた。
50年以上も前のことだけど,今もよく覚えています。
性犯罪被害,まさにそのとおり。だけど,この経験がわたしのトラウマにはならなかった。ぜんぜんショックを受けなかったわけではないけど,たとえば一人で本を読んでいる時にその記憶が突然蘇って恐怖に駆られるとか,夢の中にその時の情景が侵入して,うなされて目が覚めるとか,そんな深刻な事態は経験してません。
医療従事者として何人かの患者さんのいろんなトラウマに関わる中で,あるいはメディアで報じられる性犯罪被害者のトラウマの事例を知る中で,《なぜ,わたしはあんな経験をしていながらトラウマにならずに済んだのだろう?》という疑問が生じてきました。そして,改めてあの時の自分の気持ちを振り返り,分析するようになりました。
2つの要因が思い当たります。まず,わたしにとって性やそれに係わることがらはさほど大事[おおごと]ではなかった,ということ。幼い頃の性への無頓着がまだその頃のわたしに残っていたのかもしれません。目の前で男のオナニーを見せつけられることや,自分の気持ちに反して肛門にペニスを押し入れられることは,もちろんいやなこと,不快なことには違いない。でもそれは,たとえて言えば,平手で頬を殴られるようなもの。確かに,ショックだし,痛いし,悔しいけど,その後ずっと心に傷を残すようなものではない。
自分の気持ちに反して何かをされるということは,できれば避けたいけど,人生で何度かは経験する。それが暴力的な行為なら痛い思いもする。だけど,子供の頃から毎日のように両親から暴力を振るわれたというような事態を別にすれば,単発的,一過性の出来事であるなら,痛いのはその時限りで,心に傷を残すようなことではない。わたしにとって,性に係わる不本意な出来事も,それと同じようなものなのだったのでしょう。だから,トラウマにならなかった。
もう1つの要因は,その時のわたしの感情。わたしは,最初の驚きが鎮まった後は,冷静にその男を観察していました。「男って,こんなことをする生き物だよね」と醒めた気持ちでその男を見ていました。男の性欲を実地観察するような態度。
それまでの年月,わたしは男子・男性に分類され,男たちのグループに混じることもありました。男だけしかいない場所で,男たちは卑猥なことを語り合う。女がいても,かなりえげつない話をするけど,女がいないともっとえげつない話をします。それを聞く(聞かされる)機会はわたしにもありました。そして,「男って,こんな生き物だよね」という感覚を身につけた。その時も同じような気持ちだったのでしょう。
加害者に精神的に圧倒されないことは(肉体的には圧倒されるとしても),被害をトラウマにしない条件の一つかもしれません。強姦未遂犯を冷静に眺めることで,わたしは精神的に圧倒されずに済んだのでしょう。
この2つの要因のおかげで,わたしはトラウマを背負わずに済みました。それでも,不愉快な気持ちは残りました。「こんな生き物」と同じカテゴリー,「男」というカテゴリーに自分も組み入れられていることは不愉快なことでした。