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薔薇と茨  作者: 松村順
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第1章

 第1章


 わたしには,自身のキャラクターもあいまって,トランスジェンダーの知り合いがわりと多くいます。そんな人たちの中には,幼稚園児の頃から自分の性別に違和感を覚えていたと語る人もいます。トランス女性なら,自分に買い与えられた青のバッグでなく女子用のピンクのバッグがほしかったとか,ズボンでなくスカートをはきたかったとか,中には,同じクラスの男の子を好きになっていたとか。

 でも,わたしはそんなに早熟ではありませんでした。そもそも幼い頃は性別を意識していなかった。母親に連れられて銭湯の女湯に入り,自分とほかの女の人たちの体の違い(ペニスのあるなし)に気付いてはいたけど,そしてそれが女と男の違いなのだということは分かっていたけど,それがさほど重大なことだとは思っていなかった。今から振り返ると,それが当時のわたしの素直な気持ちだったろうと思います。

 そもそも,1956年生まれのわたしの幼年時代,1960年代初め頃の日本の(より詳しく言えば福岡の炭鉱街の)庶民の世界は性におおらかというか無頓着でした。たとえば,夏の暑い盛り,金だらいに水を張って玄関先の道ばたに出しておく。午後になれば太陽に熱せられて水はほどよい温かさのお湯になっている。わたしはそのお湯で水浴びをしてました。もちろん裸で。すぐそばを道行く人たちが通り過ぎるけど,ぜんぜん気にもしなかったし,その人たちもわたしのことを気にもしなかった。上流社会はどうだったか知りませんが,わたしが生まれ育った庶民の世界ではごくありふれたことだったのです。

 庶民の世界のこんな性への無頓着が性別への無頓着につながっていたのかどうか,それは分かりません。ただ,わたしは性別に無頓着でした。自分が男であることをほとんど意識しないで生きていた。


 わたしには姉がいます。2歳年上だけど,わたしが早生まれなので,学校に行くようになってからは「一つ上」と意識するようになりました。姉弟の仲は良かったはず。ケンカした記憶はありません。

 幼い頃の2歳の年齢差はそれなりに大きいです。姉はわたしにお手玉とかあや取りとか,いろんな遊びを見せてくれました。わたしは,

 「ワーッ,すごい」

 と感心して見ている。たまに自分でやってみるけど,姉のようにうまくはできないから,たいてい姉の手際を見てるだけです。それで満足でした。

 わたしは人付き合いが苦手で引っ込み思案な子だったけど,姉は社交的な人でした(美人でもありました)。だから姉に連れられて姉の友人たち(女の子たち)と遊ぶことが多かった。それを親からとがめられたことはありません。親もそんなことに構ってる暇はなかったのでしょう。あの頃の庶民は生きることで精一杯だったから。

 レンゲの花の首飾りの思い出は,小学校に入学する前だったか,入学した後だったか。あの頃,自宅から5分も歩けば田畑が広がっていました。西日本の二毛作地帯,米の裏作に麦や菜種が植えられていたけど,レンゲが植えられた田んぼもあり,春になればレンゲ草が一面に咲きました。そこで姉や友人たちはレンゲの花で首飾りを作る。わたしはそんな器用なことをできないから見てるだけ。見てるだけでも楽しかった。

 今,あの時の情景を思い浮かべると,それから数年後にヒットしたタイガースの『花の首飾り』の歌詞が自然に心の中に響きます。その歌で語られるのはレンゲの花の首飾りではなく,ひな菊の花の首飾りだけど。


 小学校3年生の頃,わたしは本を読む楽しみを発見しました。毎日,学校の図書室から本を借りて読むようになり,姉に連れられて遊びに行くことはほとんどなくなったけど,だからといって姉弟の仲が疎遠になったわけではありません。それからもずっと,姉はわたしにとって一番信頼できる人,一緒にいて安心できる人であり,姉の周りの世界はわたしが一番くつろげる世界でした。


 こんなおおらかで牧歌的な世界,繭に包まれたような安穏な世界に小さな亀裂を入れたのは,性のわいせつさです。

 小学校4~5年生の頃。年上の子供たちから仕入れたらしい性や性行為に関する話を同年配の男子たちが下卑た口調でひそひそ語り合っている。それを聞かされる。話を振られることさえある。その男子たちの下品な話し方や表情にどうしようもない嫌悪を感じました。性の話そのものではなく,それを語り合う男子たちの口調や態度がわいせつだった。

 その少し後だったか,小学校5年生か6年生の頃,ギリシア神話の本を読んでいた時のこと。その本には挿絵としてギリシア神話を題材とした西洋絵画が所々に挿入されていました。西洋絵画の伝統として,女性はほぼ裸の姿で描かれている。わたしは,いやらしいとは思わなかった。たぶん,性や性別に無頓着だった頃の名残で,裸にも無頓着だったのでしょう。でも,そこに鉛筆で下卑た落書きがしてある。たぶん男子の仕業だろうと推測しました。《ほんと,困った人たち……》

 それまでも男子たちと仲良く付き合っていたわけではないけど,これらのことがあってから,なおさら疎遠になりました。でも,それを「男の世界」になじめないとは思わなかった。世間一般になじめないと思っていました。それくらいの年頃になると,自分が世間のしきたりになじめない「変な子」であることを自覚していたから。


 たとえば,もうちょっと後のことになるけど,こんなことがありました。

 小学校の卒業式が間近に迫った頃,クラス会で生徒たち一人一人が心境を語る。みんなが口を揃えたように「小学校を離れるのは悲しいです」とか「小学校の先生たちと会えなくなるのは悲しいです」と語っている。わたしはそれが不思議でした。小学校を卒業するのは,そんなに悲しいことなのか? わたしにとってそれは,特に悲しいことではなかったし,「おめでとう」と祝福するほどのことでもない。小学校6年生の3学期を終えれば卒業する,それは,日が沈めば夜になるというのと同じくらい当たり前のことで,何もそれを悲しむことはない。わたしは語るほどの心境がない。だから簡単に「早く中学生になりたい」とだけ述べました。一瞬,その場がしらけた。

 今,あの場面を思い返しても,あの場にいた40人くらいの生徒がみな,わたしのほかは,本気で卒業を悲しんでいたとは信じられません。しんから悲しんでいた子も何人かはいたかもしれないけど,多くは,「こういう場面では別れを惜しんで『悲しい』と語るものだ」という世間のしきたりに従っていたか,あるいは,最初の一人二人が「悲しい」ということを語って,それがその場の空気となって,その空気に従っていただけなのだと思います。わたしは,しきたりに従わず,空気を読まず,自分の気持ちを率直に述べた。そして,場はしらけ,わたしはその場から浮いてしまいました。

 絵に描いたような変な子。卒業間際に突然変な子になったわけではありません。そのずっと前から,3年生,4年生の頃からそうでした。

 そんな「変な子」はいじめられなかったか? 物を取られるとか隠されるとか,あるいは体を小突かれるとか,そんなはっきりしたいじめを受けた記憶はありません。仲間はずれにされてたことはあったかもしれません。仮にそうだったとしても,実害を感じはしなかった。群れを離れて一人でいることが少しも苦痛ではなかったから。わたしは一人で静かに本を読んでいられるなら,それで幸せでした。


 小学生のわたしが好んで読んだのは,まず小説。男の子が好む『宝島』や『三銃士』や『巌窟王(モンテ・クリスト伯)』のような冒険小説も読んだけど,『アルプスの少女(ハイジ)』や『秘密の花園』や『足長おじさん』など少女小説も好きでした。こうやって数え上げると,みな外国の作品ですね。確かに,この頃の読書歴を振り返ると,日本の作品はあまり読んでない。外国の作品が好きでした。そして,それらの作品の背景となっている外国の風土,社会,歴史にも興味が広がりました。

 アメリカよりヨーロッパに心惹かれました。アメリカになくてヨーロッパにはある(と思えた)歴史に裏打ちされた洗練や優雅さに心惹かれた,というのは今から振り返って解釈することだけど。行ったことのない,いつか行けるようになるとも思えない(その頃の庶民にとって外国旅行など夢のまた夢でした)ヨーロッパ,そんな遠い見知らぬ国を理想化して憧れていたのでしょう。地図帳を眺め,地理や歴史の本を読み耽るようになりました。特にお気に入りはフランス。「花の都」パリ。

 それに並行して理科,自然科学系の本も読むようになりました。理科に導かれた経路はいくつかあります。まず,地理への興味から派生して,生物地理学(世界各地の植物や動物の分布を記述する学問),地学,海洋学,気象学などの本に手を出しました。

 もう一つは,ギリシア神話。ギリシア神話には星座の由来を語る物語がいろいろあります。オルフェウスの竪琴,おおぐま座とこぐま座,オリオン座とさそり座,アンドロメダとペルセウスとペガサスなど。そこから星の話,天文学,さらに星の誕生・成長・消滅を説明する宇宙物理学,星が発するエネルギーの源を解き明かす原子物理学も。

 そして無視できないのが,あの頃の時代風潮。湯川秀樹に続いて朝永振一郎が日本で2人目のノーベル賞(物理学賞)受賞者になったのが1965年,東京オリンピックの翌年,わたしが小学校4年生の年。理系の知は明るいプラスのオーラを放っていた。そんな時代の雰囲気にわたしも浸っていたのです。

 小学生の頃のわたしのお気に入りの分野は天文学と地質学でした。中学,高校で好きになり得意科目にもなる化学にはまだ興味が湧かなかった。天文学は何百光年,何千光年という人間離れした空間のスケールが好きだった。地質学は,何百万年,何億年という人間離れした時間のスケールが好きでした。こんな果てしない空間と時間のスケールの中に身を置くと,人間世界の悩みや悲しみなんで,ちっぽけなことに思えました。

 蝸牛角上,何事か争わん

 石火光中,この身を寄す

 という白楽天の詩を知るのは中学生になってからだけど,これに共鳴する気持ちは芽生えていたかも。


 あの頃の読書体験は二度と繰り返せません。今のわたしにとって,読書はすでに馴染の分野について新たな知識を少しばかり付け加える作業です。それはそれで楽しいことではあるけど,読書に親しみ始めた頃は,手に取る本1冊1冊が新しい世界への扉でした。1冊読むたびに世界が広がっていく感覚。あの心ときめくような感覚は二度と味わえないでしょう。こんなふうに本の世界にのめり込む中で,わたしはますます変な子になっていった。

 わたしが感じる心のときめき,眼の前に知の世界が広がっていくのを実感するときの躍動感は,ほかの子たちには無縁な,理解できないことのようでした。ほかの子たちは外で遊んだりテレビを見たりする方が楽しいみたいでした。それらは,わたしには楽しいとは思えない。自分とほかの子たちとの断絶。だから悲しいとか辛いとは思わなかったけど……。


 こんなわたしも,姉とは相変わらず仲が良かった。そして,幼かった頃ほどではないけどたまには姉の友人たちとの付き合いの輪に交ぜてもらうこともありました。ひょっとして姉は,友達のいないわたしのことを気にかけてくれていたのかな? 分からない。ともあれ,姉を取り巻く世界は基本的に女の子の世界,そこはわたしにとって,男の子の世界よりはずっとくつろげる場所でした。

 この頃になると,親も少しはわたしのことを心配するようになりました。親はわたしに元気な男の子を期待していたみたいです。明るく,活発で,誰とも仲良く付き合える男の子。《そんなの無理なのに》と心の中でつぶやいたけど,面と向かって親に逆らうことはなかった。

 たまには

 「本を読んでばかりいないで,外で遊んでこい」

 と言われて家から追い出されることもありました。

 仕方がないから外に出る。とはいえ誰かと遊ぶわけではなく(遊ぶ相手もいなかった),外を散歩する。自宅の周りはそれなりに家が建て込んでいるけど,5分も歩けば田んぼや野原や竹藪のある田園風景。そんな自然の中を歩くのは嫌いではなかった。それでも,《女の子なら,うちでおとなしく本を読んでいても文句を言われずに済むのかな》と思うことはありました。それを「性別違和感」と呼ぶのはちょっと大げさな気がするけど。


 小学校は,いやな所ではなかった。勉強はそれなりにできる方でした。これもまた,姉のおかげの部分があります。夕方,姉が親(主に父親)と学校の勉強の話をすることがある。それを傍で聞いているうちに,門前の小僧が習わぬ経を覚えるように,知識を吸収していたようです。ひらがなやカタカナ,そしていくつかの漢字は入学前に覚えていた。その後も,ほかの子たちより1年早くいろんな漢字に親しんでいた。算数も,足し算,引き算,かけ算,割り算のやり方,マイナスの数,分数の計算(分数の割り算はひっくり返してかける,とか)などを聞きかじっていました。そして,1学年上の姉の教科書を暇にまかせて読んでいた。

 4年生,5年生頃になると,読書によって蓄積された知識が学校の教科,とりわけ社会と理科そして国語の成績に反映されるようになり,次第に周りからも「勉強だけはできる」と認められるようになりました。勉強「だけ」。音楽は,歌はそれなりに歌えたけど,楽器の演奏はぜんぜんだめ。絵は下手としか言いようがない。そして何より体育が苦手。小学校では……今の小学校の事情は知らないけど,あの頃,1960年代の九州の田舎町の小学校では,勉強ができる子より,絵がうまい子や運動が得意な子の方が脚光を浴びました。

 5段階評価の通知表の点数は,音楽と図工(美術)はなんとか3をもらえたけど,体育は6年間を通して2でした。1年生の1学期の通知表を見て,わたしよりも親が落胆したようでした。わたしもうれしいわけはなかった。それでも,2学期,3学期,2年生の1学期,2学期……と過ぎていく中で,そんな評価にも慣れていった。親はともかく,わたしは気にしなくなりました。親も,だからといってわたしを音楽教室やスポーツジムに通わせようとはしなかった。そんな経済的な余裕はなかったし,そもそも音楽教室やスポーツジムなどという洒落たものはわたしのふるさとの町になかった。「古き良き時代」かな?

 やがて,3年生,4年生,5年生となるにつれ,音楽と図工はともかく,体育に関しては,

 「体力勝負,腕力勝負の野蛮な世界で落ちこぼれるのは少しも恥ずかしいことじゃない」

 と開き直るようになりました。初めのうちは負け惜しみ。でも,だんだんと本音になっていった。

 小学生時代はこんなふうに過ぎていきました。


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