第9章
第9章
『エリザベス』という女装クラブを知ったのは1995年,3年生の秋でした。知ったきっかけはもう覚えていない。当時は亀戸にありました。トランス女性の間でかなり有名な場所だと知ったのはそれからずっと後になってから。
ともかく,女装できる場所があると知って,黒のチャイナドレスと黒のブラジャー,ガーターベルト,ストッキングを持って出かけました。みな通販で買ったもの。その頃はまだ,ジャケットやパンタロンはともかく,女物の下着やドレスをお店で買う勇気がなかった。
ビルの2階にあったドアを開け,スタッフに初めてであることを告げる。更衣室で持参したドレスに着替えて,メイクアップ用の部屋に入る。慣れた人は自分で化粧するけど,わたしはスタッフにお願いしました。大きな鏡の前の椅子に座ったわたしをスタッフが手際よく化粧していく。自分の変貌を鏡越しにジッと見つめていました。
化粧が終わると,フロアに通され,他の人達に紹介されます。紹介されて,いろんな人たちと思い思いにおしゃべりする。語りあう話題は様々。カラオケ装置があるから,知ってる歌を歌うこともあります。エリザベスに集う人たちは,トランス女性もいたけど,狭い意味の女装趣味者,自分が男であることを疑っていないけど趣味として女装を好む人たちもたくさんいました。そして意外に,と言っては失礼だけど,知的レベルの高い人が多かった。
こんな語らいの合間に,スタッフが写真を取ってくれる。まだデジタルカメラが登場する前,ポラロイド写真です。今,わたしの手元に30枚くらいの写真があります。
その頃のエリザベスは,特別なイベントの日を除いて,女装したままでの外出は禁止でした。メンバーたちをぶしつけな好奇の眼差しに晒さないための配慮でもあり,「変態」が集まる場所として排斥されないための配慮でもあったのでしょう。当時の状況を考えればやむを得ないこととして納得できるけど,ドレスを着て外に出てみたいという気持ちもありました。
それで,何度かエリザベスに通い,女装にそれなりの自信を得た頃,ドレスを着て外出してみました。エリザベスのスタッフさんの手際を思い出しながら自分の部屋で化粧して(化粧品と化粧道具は通販で買いました),ドレスを着て,夜,アパートの隣人に見とがめられないようそっと部屋を出て,千葉市の小さな盛り場に出かけました。
街中をブラブラ歩き回るだけです。ピーナツボウルに入るのは控えておきました。知った顔に合うのは避けたかったから。女装趣味者たちの中にはとても化粧がじょうずで,別人と見違えるほど化ける人もいるけど,わたしはそこまでの腕はなかった。化粧していても素顔を見破られる。「それでもいい」と思い切る勇気はまだありませんでした。人前でドレス姿で踊るようになるのは,まだずっと先の話です。
一見の客としてスナックバーに入ったことはあるけど,2~3回でやめておきました。男客に言い寄られるのが面倒で不愉快だったから。
エリザベスには1年くらい通った後,ご無沙汰するようになりました。1年も通っていると,語りたいこと聞きたいことは語り尽くし聞き尽くした感があったし,それを越える楽しいこと有意義なことは見つけられなかったから。
ところで男性のための女装クラブはあるけど,女性のための男装クラブはありません(わたしは知りません)。その理由は,たぶん,必要がないから。女性が男装するのに,秘密結社めいたクラブは必要ないのです。パンツスタイルでふつうに暮らせるから。パンツスーツで仕事にも行けるし,ジーンズを履いて遊びにも行けます。
実を言えば,女物のパンツスーツと男物の背広は仕立て方が違います。そして,敢えて男物の背広を着る女性もいます。でもその姿は男のスカート姿ほど奇異には見られません。女のパンツスタイルは,少なくとも日本などの先進国では,すっかり定着し社会に受け入れられています。
でも,これを取り上げて,「女は得だ」とディスるのは軽薄です。今の状況を手に入れるために,女たちはそれ相当の努力,苦闘をしてきたからです。
100~200年前,女がズボンをはくのもすごく勇気が要ったのです。100~200年前,その勇気をふるった女たちがいたから,今の女たちはこの種の服装の自由を手にしている。
かつて,男だけに許されていた文化社会的条件(スカートでなくズボンをはくこと,誰かにエスコートされることなく一人で外を出歩くこと,遠慮しないで自分の意見を主張すること,恋愛(そして性愛)でリードする立場に身を置くこと,高等教育を受けること,自分自身の名義で銀行口座を開設すること(この程度のことさえ女には許されない時代があったのです),政治に参加すること,経済的に自立することなど……)を手にしたいと願った女たちは,この100~200年くらいの粘り強い闘いの末,今それを不十分ながらも手に入れた(まだ完了していないから「手に入れようとしている」と進行形で表現すべきかな)。その一環として,ファッションの自由度を広げることができたのです。
では,今の男たちにファッションの自由が制限されたままであるのは,今に至るまでそのような勇気をふるい,粘り強く闘った男たちがいなかったから,つまり男たちは「へたれ」だったから,ということかな?
ひょっとしたらそうかもしれない。でも,むやみに男たちを貶めることはしないでおきましょう。勇気をふるいたくてもふるえない事情があったのかもしれない。生半可な勇気ではどうしようもないような事情があったのかもしれません。女たちが男の領域への越境を要求するより,男たちが女の領域への越境を要求する方が難しいのかもしれません。
たとえば,「雌雄を決する」という表現があります。どちらが優れているか決めるという意味ですが,これは雄が優れていることを前提にした表現です。似たような表現はいろいろあります。「雄々しい」は褒め言葉だけど「女々しい」はけなし言葉です。
言葉には,そして言葉の背景をなす人々の心には「男が上,女が下」,「男らしさはプラス,女らしさはマイナス」という意識がこびりついている。そのような状況を前提にすれば,男の領域への越境はいうなれば上昇・向上を目指すけど,女の領域への越境は下降・堕落を目指すことになります。たぶん,上昇・向上を目指す方が下降・堕落を目指すより社会的支持を得やすい。
であるなら,男たちはかつての女たちより以上の勇気が必要になります。それが重い負担であるなら,女たちに助力を求めてもいい。女たちは,そんな男たちを応援してほしい。とりわけフェミニストを自認する女たち。「男が上,女が下」,「男らしさはプラス,女らしさはマイナス」という意識をなくすことはフェミニズムの課題であると思うから。
話がずいぶん大きくなりましたね。もちろん,重要なテーマではあるし,今後も取り上げるつもりではありますが,とりあえずこの辺で切り上げて,千葉大の学生時代の体験に話を戻しましょう。
3年生の秋頃から,つまりエリザベスに通うようになった頃から,医師国家試験の過去問に取り組み始めました。初めのうちはチンプンカンプン,五里霧中。でも,1つ1つの問題について,その問題を解くために必要な知識を医学書で確認することを繰り返すうちに,少しずつ霧が晴れてきて,段々と問題文の意味,意図が分かるようになり,さらには問題を解けるようになっていきました。そうなると,おもしろいと思えてきます。ただ医学書を読むより,問題を解くためのヒントを探すため,あるいは問題の答えがこれで良いことを確認するために,そして間違いの選択肢(医師国家試験はマークシート式です)がなぜ間違いなのかを確かめるために,医学書のページをめくる方がずっとおもしろい。
4年生の終わり頃に医師国家試験の模擬試験を受けたら,合格ラインでした。《よし。第1段階の目標は達成》
この間,医学部の授業は基礎医学から臨床医学へと進み,5年生になるとベッドサイド実習が始まります。
医学を学ぶ中で,現代医学でも治せない病気がたくさんあることを認識しました。それまでも,医学が万能だとは思っていなかったけど,改めて,具体的な事実や臨床例を通して理解しました。
進行ガンのような死に至る病気だけではありません。命に係わらないけど,完治のための的確な治療法がなく,長年にわたって患者を悩ませ苦しめる病気もあります。たとえば,この頃(1990年代後半から2000年代にかけて)社会問題化していたアトピー性皮膚炎。あるいは,今も毎年春になると何百万(ひょっとしたら何千万)の人たちを悩ませる花粉症。そんな患者に寄り添い,訴えに耳を傾け,完全に治せないまでも少しでも状態が改善するようできるだけのことをする。そういう仕事もいいかもしれない。
あるいは,末期ガンのような死が避けられない病気を担わされた患者に寄り添って「そばにいる。あなたは一人ではない」と語りかけるのも。「ホスピス」が日本でも話題になりかけていた頃でした。
ただ,こういう仕事をしたいのであればなおさら,大学病院はわたしの居場所ではないだろうと思えました。
臨床講義であれベッドサイド実習であれ,すべての診療科目をカバーします。それぞれにおもしろいけど,特に興味を引く分野もいくつかありました。
たとえば血液学。大学病院の血液内科では圧倒的に白血病の症例が多いけど,顕微鏡を通してみるメイ・ギムザ染色された白血病細胞の病理標本は美しかった。患者の命を蝕む白血病細胞を「美しい」と形容するのは不謹慎かもしれないけど,どうしてもそう感じてしまう。
それから神経学。最新の画像診断装置に頼らなくても,綿密な問診と患者の状態の観察,そして様々な腱反射の結果を組み合わせ,緻密に論理的に推論することで,的確な診断を下せる。その名人芸じみたプロセスに心惹かれました。
そしてやはり精神医学。もともと文科系の人間として,臨床医学の中で一番文科系に近そうに思えたし,中学生・高校生の頃には北杜夫や加賀乙彦の小説を読んでいたし,医学部生になってからは中井久夫や西丸四方の著書に親しみを覚えていました。でも,だからこそ「はまる」のが怖いという気持ちもありました。
講義や実習をこなす中でこんなことを思いながら,町医者の仕事に魅力を感じていました。「ありふれた病気」“Common diseases”と言えば聞こえがいいけど,大学病院の医者たちが「カゼヒキ,ハライタ」と軽んじる病気にきちんと対応し,的確な治療法があれば治療し,なければ症状をできるだけ和らげるための対応をし,万が一「ひょっとしたら重大な病気が潜んでいるかも」と判断したらしかるべき病院のしかるべき診療科に紹介状を書く,そんな仕事も自分に向いていそうに思えました。
そんな医学部生活も終わりに近付いた頃,性別適合手術(Sex Reassignment Surgery:SRSと略します)に出会いました。正確には再会したと言うべきかも。
SRS,男の体を女の体に,女の体を男の体に作りかえる手術のことを知ったのは1970年代,カルーセル麻紀が登場した頃です。当時は性転換手術と呼ばれた手術,わたしには現実感がなかった。自分がその手術を受けることを,現実にあり得ることとして思い浮かべることができませんでした。
そんなSRSに再会したのは千葉大医学部6年生の年,1998年。埼玉医科大学病院で性同一性障害の治療として実施され,それがメディアで広く報じられた時です。わたしは,医者の卵としての興味はもちろんだけど,当事者としても興味を持ちました。わたしの股間にあるグロテスクな邪魔物。除去できるものなら除去したいという気持ちはありました。
医者になってから出会ったトランス女性の受診者たちが時として語った男性器への切実な思い,こんなものが体に付いていることに耐えられず自殺を考えたことがあるとか,ハサミで切り落としたかったとか,金槌で叩きつぶしたかったとか,そこまで切実な思いではないけど,いやであることは間違いない。あんなものが股間にブラブラしているのは邪魔で仕方ない。そして,グロテスク。
問題は,この嫌悪感と,手術のための費用,手間,そして苦痛と,どちらが大きいかということ。膣を作るとなれば,腹部臓器の重さを支える頑丈な骨盤底筋群に穴を空けるのだから,かなり大がかりな手術であることは推測できました。患者の負担も大きいはず。そこまでする?
そしてまた,そもそもわたしは性同一性障害なのかという疑問もありました。この疾患概念を知ったのもこの時です。精神科の授業では教わらなかった(今の医学部ではきちんと教えていると思います)。生物学的な性別and/or法的・社会的性別と性自認(心の性別)が一致しないため様々な不都合に悩まされる状態。自分はそれ該当するのか?
それまでわたしには,体の性とは別に性自認があり得るという発想そのものがありませんでした。性自認とはいったい何なのか? 自分を男と認識しているか,女と認識しているかということなのかな?
改めて自分のこれまでの人生を振り返りました。わたしは,男の体をもって生まれ,男として出生届けが出され,男として育てられ,周囲から男とみなされている。その事実はありのままに受け止めてきた。女に生まれ変わって女から愛されたいという願いはあったけど,それは不可能なことだと冷静に認識し,その願いを心の奥に封印してきた。それは,自分を男と認識しているということなのかな? でもその一方で,「男らしさ」の規範には適応できないと実感している。男のカテゴリーに入れられることに違和感を覚え,男の世界に参加するよう求められることには拒否感を覚える。それは性別違和感と定義してよいものなのか? そんな違和感,拒否感を抱えながら,社会のメインストリームから距離を起き,男の枠組みに入れられる機会をできるだけ減らし,性別を意識しないで生きていける小さな世界を自分の周りに作ることで,性別に係わる不都合,不具合をあまり感じないでいられる。それなら「障害」とは言えないのかな?……簡単に答えの出ない疑問です。
簡単に答えの出ない疑問はとりあえず放置することにしました。それより大事なことが控えている。まず,この年の11月から12月にかけて行なわれる医学部の卒業試験。そして,翌年3月には医学部生にとって最大のイベントである医師国家試験。
卒業試験はこともなく終わりました。それから3ヶ月間は国家試験のための勉強。あまり知られていないかもしれないけど,医学部の卒業証書はそれ自体としては何の値打ちもありません。医学部を卒業しただけでは医者の仕事はできないのです。医師国家試験に合格し,医師免許を手にして晴れて医者になれます。ただし,医師国家試験を受けるためには,医学部を卒業している(あるいは卒業見込み)でないといけません。言うなれば,医学部とは医師国家試験の受験資格を得るために通う場所であり,医学部の卒業試験は医師国家試験受験資格の認定試験のようなもの。本命は医師国家試験。そんな重大な試験。平均合格率は80%くらいだからめったに落第しないはずだけど,逆に5人中4人が受かる試験だからこそ「落第するのは恥ずかしい」という気持ちもあり,それなりに緊張します。
そんな試験勉強の合間,『日本医事新報』の巻末に掲載さ入れている求人広告を眺めました。卒業後の,より正確には,国家試験に合格すると想定した上で,医師免許を得た後の仕事先を見つけるためです。卒業時点で「定職」が決まっていないのは北大卒業の頃に似ているけど,あの時に比べればずっと恵まれています。医者の仕事についてある程度の情報は持っていたし,求人広告もたくさんあります。その中には新卒者,医師免許取得見込み者でも応募できる求人もありました。
わたしは町医者で修行したいと思っていました。新卒のわたしを助手のように雇ってくれる個人医院はないものか? そう思って,毎週刊行される『医事新報』の求人広告を探していると,3ヶ月のうちにはいくつか見つかり,面接に出かけました。
精神病院の求人広告もかなりありました。精神科には心惹かれるけど,まずは一般内科医,ジェネラリストになる修行をしようと,自分の気持ちを方向付けていました。
今から振り返るとおもしろいけど,精神科の求人を見ながら,性同一性障害のことはぜんぜん思い浮かべませんでした。性同一性障害を精神病とは意識していなかった。そもそも,病気と思っていなかった。性同一性障害は,病気ではなく社会生活を送る上での不都合だと思っていたようです(この発想は実は今もあまり変わってません)。
ともあれこんなふうに3ヶ月が過ぎ,医師国家試験を受験。1ヶ月後に合格発表。晴れて医者になれました。1999年の春。