4
***
カーミラが自分に特別な魔術の才能があることに気づいた日、彼女の両親は死んだ。
ゴミ捨て場で拾った魔導書だけを頼りに、カーミラは魔術を行使することができた。
この世界で魔術を扱えるものはごく限られた才能を持つ者だけだ。
そのため魔術使いは重宝されている。小さな火の魔術をひとつ扱えるだけで、一生食うに困ることはない。うまくいけば、貴族に囲われ、貴族並みの暮らしを送ることができる。
これでもう貧しさに苦しむことはない。
調子の悪い両親を医者に診せてやれる。
妹と弟に腹いっぱい食わせてやれる。
貧困街を出ることができる。
家族四人で、ふつうの町で、まっとうな生活が送れるようになる。
歓喜に胸を躍らせながら、カーミラは家に帰った。
しかし両親は、すでにベッドの上で冷たくなっていた。
数日前から、調子が悪いと起き上がれなくなっていたのだ。
子どもたちに与えてばかりで、ろくな食事をとっていなかった二人は、枯れ枝のように痩せ細っていた。
栄養失調による衰弱死だった。
カーミラは愕然とした。
そんな彼女の膝に、まだ幼い妹と弟が縋りついてきた。
「おなかへった」
二人は虚ろな眼をして、カーミラを揺すった。
「おなかへった。おねえちゃん」
カーミラは愕然とした。
「なに言ってるの……?」
カーミラは二人を突き飛ばし、父母の遺骸に抱きついた。
石のように冷たかった。
いつものように、おかえりなさいとは言ってくれなかった。
疲れたでしょうと、労ってはくれなかった。
大きな手で、頭を撫でてはくれなかった。
心のこもった優しい抱擁を、返してはくれなかった。
「なにか食べたい」
聞こえるのは、幼い妹弟の訴えだけだった。
「おなかへった」
二人は尻餅をついたまま繰り返した。
カーミラはかっとなり、怒鳴り返した。
「なに言ってるの!?お父さんとお母さん、死んじゃったんだよ!?それなのに――――」
言いかけて、息を飲んだ。
妹と弟の顔からは、一切の感情が抜け落ちていた。
落ちくぼんだその眼は虚ろだった。
血の気はなく、頬はこけ、手足は父母に劣らず細かった。
「――――ごめん」
カーミラは二人をきつく抱きしめた。
「ごめんね……!」
妹弟は父母と同じように飢え、衰弱していたが、まだ温かかった。
「おなかへったよね。いまごはんにするからね……」
涙があふれてとまらなかった。
カーミラは悟った。
妹と弟は、悲しむ力さえないのだ。
涙に割く力さえ、その身体には残っていないのだ。
飢えた幼い身では、父母の死を理解することもできないのだ。
それを知ったカーミラは父母の死よりも、さらに大きな悲しみに襲われた。
「おねえちゃん、どうしたの?」
妹は、カーミラの頭を撫でた。
「おなかへったの?」
弟は、カーミラの涙を拭った。
「泣かないで。ぼくたちのごはんも、食べていいから」
カーミラは首を振った。
嗚咽を必死に堪えながら、だいじょうぶ、と答えた。
「大丈夫。お姉ちゃんは、大丈夫だから――――」
カーミラは細い腕で妹弟を抱き上げた。
ふらついたが、どうにか持ちこたえ、立ち上がった。
「安心して。これからは毎日、おなかいっぱい、ごはんを食べさせてあげるから。二度と貧しい思いはさせないから――――」
妹弟を抱く彼女の腕も、細かった。
栄養の不足した身体は小さく、骨と皮ばかりだった。
それでもカーミラは、妹弟のために献身した。
カーミラは我が身を顧みず、妹弟のためだけに、日々を生きるようになった。
両親に報いることができなかった分まで、妹弟と豊かな暮らしを送る。
二人を、悲しいとき涙も流せないような人間にはさせない。
カーミラは、父母の遺骸に誓いを立てた。
妹弟を、必ず立派に育てあげます、と。
*
カーミラは魔術の腕を磨き、さまざまな仕事を請け負うようになった。
独学のカーミラには、精巧な魔術は扱えなかった。
発火や煙幕、爆破といった、単純で扱いやすい分、コントロールの効かない魔術ばかり身につけていった。
しかしそれで十分、カーミラは重宝された。
焼き畑や開墾、掘削において、カーミラの力は絶大だった。
彼女一人を雇えば、多くの人夫も火薬も不要となる。
使い勝手のいい、低コストな火薬として、魔術師カーミラの噂は瞬く間に広がっていった。
そんなカーミラにいち早く目をつけた貴族が、シュタイマルク公爵だった。
カーミラが魔術師として生計を立てるようになってから上向いていた生活は、公爵に雇われたことでさらに一変する。
公爵家の専属魔術師となったカーミラは、屋敷の離れを居として与えられた。
カーミラはそこで妹弟と共に、貴族さながらの暮らしを始めた。
豪華な調度の、温かい部屋。
柔らかく清潔なベッド。
食事は好きなときに好きなだけとることができる。
身の回りの世話をする使用人までつけられた。
カーミラがなにより喜んだのは、幼い妹弟に教育を受けさせることができるようになったことだ。
記憶力の良い妹は勉学に、度胸のある弟は剣術に、それぞれ精を出した。
「いつか書記官としてお城に仕える」
それが妹の夢だった。
「おれも!王様の騎士になるよ!」
それが弟の夢だった。
出世をすること。自分で大金を稼いで、姉に楽をさせること。
これまで自分たちを養ってくれた苦労に報いること。
それが二人の夢だった。
「私のことはいいから、あんたたちは、自分が幸せになることだけ考えなさい」
カーミラは二人が優しい夢を語るたびに、そう言って諭した。
「私はもう十分、報われているから」
カーミラは妹弟が自分の進みたい道に進んでくれれば、それでよかった。
嬉しいときに笑い、悲しいときに泣くことができる、飢えや寒さとは無縁の暮らしを送ってくれれば、それで十分だった。
だからこそ、カーミラは守らなければならなかった。
二人が自立するまで、今ある生活を、手放すわけにはいかなかった。
*
公爵がカーミラに求めたのは、開墾でも掘削でもなく、人殺しだった。
戦地に赴き、敵軍を燃やせ。
カーミラはその命令を、躊躇いながらも遂行した。
公爵が戦好きであり、進んで隣国との戦に出兵していることは、有名な話だった。
カーミラは知っていた。
彼が自分を手元に置いた理由を。
カーミラは知っていて、彼の配下となった。
妹弟に貴族と同等の生活を与えることができるのであれば、どれだけ手が汚れようとも、罪を背負うことになろうとも、かまわなかった。
すべては覚悟の上だった。
カーミラは従順な兵器として、どのような命令にも従った。
いくつもの戦場を火の海に変え、数多くの兵を手にかけた。
カーミラの魔術によってもたらされた勝利は、すべて主人である公爵の功績とされた。
しかしそのため、妹弟は知らずに済んだ。
愛する姉の耳が、死者の悲鳴で塞がれていることを。
愛する姉の肺が、死者の灰で真っ黒に変色していることを。
自分たちのために、姉が罪を背負い、手を汚し、心を殺していることを、彼らは最後まで、知ることはなかった。
*
「花火を作れ」
突然告げられた命令に、カーミラは当惑した。
「花火、ですか?」
「そうだ。夜空を埋め尽くす数万発の花火を、晩夏の祭りで打ち上げろ」
なにかの比喩かと思った。
公爵から下される命令はいつも、いつどこを燃やすか、それだけだった。
そのため、カーミラは公爵が言葉通り自分に花火を打ち上げさせようとしていることを、すぐには理解できなかった。
「今年の春の戦で、私の武功は国中に知られることとなった。国軍の次期総帥も夢ではない、目覚ましい躍進だ。――――しかし当面の間、戦は起こらないだろう。周辺諸国の情勢も落ち着きをみせてしまった。火種がどこにもない」
私は戦しか能が無いからな、と、公爵は剽軽に笑った。
「しかし一世一代の躍進のチャンスだ。この機を逃すわけにはいかない。――――そこで考えたのだ。我が領地で開かれる晩夏の祭り、私の武功もあって、今年は多くの貴族が参列を表明している。国王陛下も、息子を伴っていらっしゃるそうだ。そこで過去最大の花火を打ち上げる。史上もっとも盛大で美しい花火だ。私の力がいかなるものか、より多くの人間に知らしめるのだ」
公爵は屈託なく宣言した。
しかし彼が言う「私の力」とは、カーミラの魔術のことだった。
臣下は主人の所有物。
彼にとってはそれが常識であり、彼女の魔術を自身のものであると言ってのけることに、なんら憚りはなかった。
公爵は裏表のない人間だった。
サディストで、戦好きで、道徳心に乏しく、功名心が強い。
彼は屈折のない、正直者の、人でなしだった。
「お前の火力があれば、花火で夜空を埋めることなどわけないだろう?」
問題は火力ではなく、火力をコントロールする複雑な術式だった。
魔術師の家系である公爵だったが、彼自身の魔術的素養は低く、故に理解していなかった。
花火の打ち上げは高等魔術であり、ただ火炎を放出することとはわけが違うことを。
「――――わかりました」
カーミラは理解していた。
例えれば、カーミラは四則計算しかできなかった。
これまで彼女が行使してきた魔術は単純だったため、四則計算だけどうにか術式を編むことができていた。
しかし花火の打ち上げとなると、四則計算だけではあまりにも膨大かつ複雑な術式となってしまう。
火薬の量から構成、打ち上げ角度、延焼時間、それらすべてを四則計算のみでひとつの術式にまとめなければならない。
不可能ではない。
しかし気の遠くなるような作業だった。
たったひと文字の過ちで、すべてが瓦解するような精密な術式を編まなければならなかった。
「――――承知いたしました」
できるわけがない。
カーミラはそう思った。
けれど口には出さなかった。
彼の臣下となって三年、カーミラは一度たりとも公爵の要求に応えなかったことはない。
従わなければ屋敷を追い出される。
魔術があれば、すぐに新しい職は見つけられるだろう。
路頭に迷うことはない。
しかし現在妹弟に与えている贅沢な暮らしや教育は、ここでしか望めない。
カーミラは拒否することもできたが、どうせ屋敷を追い出されるなら、悪あがきをしようと思ってしまった。
その選択が、過ちだった。
*
カーミラは懸命に術式を編んだ。
与えられた猶予はわずかひと月だった。
カーミラはその間、休むことなく術式の構成にあたった。
一文字がニ十画前後もある古代文字を五千と、一センチのずれも許されない図形を十種。
これらを正確に組み合わせることで、花火は打ちあがる。
カーミラは自分の知る、ごく基礎的な魔術理論だけを用いて、高等魔術を構成した。
理論上はうまくいく。
しかし実際に花火を打ち上げるためには、本番当日、最初の一文字を刻んでから三時間以内に、この難解な術式を一人で完成させなければならない。
幾度か試してみたが、まるでうまくいかなかった。
正確性を求めれば、時間が足りない。
急げば、術式を間違える。
いずれにしても失敗すれば、魔術は暴発してしまう。
カーミラは試作段階で、幾度となく魔術を暴発させた。
出力を押さえていたにも関わらず、巨大なクレーターを作ってしまったこともある。
ひと気のない山奥での実験だったことが幸いしたが、カーミラはもし周囲に人がいたらと思うと、ぞっとして血の気が引いた。
カーミラ自身は、魔術がいかに暴発しようとも傷一つ負うことはなかった。
魔術師は自分の魔力由来による魔術で傷害を負うことはないのだ。
けれどカーミラは試行を繰り返すうちに疲弊していった。
右手は重い腱鞘炎を患い、常に激痛が伴うようになった。
指には大きなタコができ、関節も誇大化した。
試行を繰り返せば繰り返すだけ、魔術の精度は落ちていった。
*
――――無理だ。
カーミラがようやく諦めたのは、期限の一週間前だった。
祭りの本番まであと一週間ある。
いまならまだ、代わりの花火を用意できる。
これまで通り、魔術によるものではなく、本職の技師による花火を打ち上げる。
そうすれば、公爵の体面も、最低限は保たれるだろう。
これまでの尽くしてきた功績もある。
きちんと事情を説明すれば、許されるかもしれない。
クビは免れるかもしれない。
そんな、一縷の希望を胸に、カーミラは公爵のもとへ赴いた。
「ダメだ」
しかし公爵は、カーミラの謝罪と懇願を一蹴した。
「余地はない。花火はなんとしても打ち上げろ」
「しかし、失敗したら、大きな被害が――――」
「失敗しなければいいんだ」
公爵は平然と言ってのけた。
「私が魔術で花火を打ち上げることは、すでに国中に広まっている。国王陛下も楽しみにしていると仰ってくださった。もうあとには引けないんだ。成功させるしかないのだよ」
カーミラは青ざめ、首を振った。
「申し訳ありません。ですが、無理です。私にはできません。何十回も、数えきれないほど試行しましたが、一度も成功していないんです。暴発して、周辺一帯を吹き飛ばしたことも、二度や三度ではありません。どうかお考え直し下さい」
カーミラは歪に変形した右手を公爵に掲げた。
「万が一にも魔術が暴発したら、それこそ閣下の沽券に関わります」
「二度も言わせるな、失敗しなければいいだけの話だろう」
公爵は、カーミラの右手を無視し、彼女の肩を叩いた。
「何十回やってうまくいかなくても、百回目はうまくいくかもしれないだろう」
そう言う彼の眼には、屈託がなかった。
少しも悪びれることなく、公爵はカーミラを激励した。
「理論上は可能なんだろう?それなら、成功しないのは、お前の努力が足りないからだ」
「……は?」
「死ぬ気でやればできないことなんてなにもない。失敗するのは、お前ががんばっていないからだ」
カーミラは言葉を失った。
「気持ちが足りなんだよ。気持ちが」
公爵はカーミラから術式の概要を聞かされていた。
その複雑さ、難しさは、理解しているはずだった。
「主人に尽くそうという気概が足りないんだ。拾ってやったのに恩に報いる気が無いのか?これだから貧民は嫌になる」
しかし公爵は、まるでカーミラがごく簡単な仕事もこなせない怠け者であるかのように詰った。
「理解できないやつに礼節を説いても仕方がないか。しかし、どうしたらやる気を持たせられるのか――――そうだ!」
公爵はカーミラの前に、カーミラの妹弟を引き連れてきた。
そして妹にペンを、弟に剣を握らせた。
「お前たちのことは聞いているぞ。二人とも素晴らしい秀才だそうじゃないか」
状況を理解していない二人は、公爵に褒められて、嬉しそうにはにかんだ。
カーミラは震えながら、その様子を見守っていた。
「二人とも右利きか。ふむ。ならばそちらは残すとしよう」
公爵はそう言うと、顔色ひとつ変えずに、二人の左手を切り落とした。
「――――!」
二人は声にならない悲鳴をあげて倒れる。
カーミラもまた悲鳴をあげて、二人を助け起こそうとするが、控えていた公爵の従者によって取り押さえられてしまう。
別の従者が喚く妹弟の口を塞ぎ、左腕を縛り上げ、止血処置を施す。
「そう騒ぐな。死んだわけでも利き腕をなくしたわけでもない」
公爵は晴れやかな笑顔をカーミラに向けた。
「だが、どうだ?これで少しはやる気をもって仕事に取り組めるだろう?」
カーミラはそこでようやく後悔した。
この命令には、最初から背くべきだった。
追い出されることを覚悟で、できないと拒否するべきだった。
いや、そもそも、この男の配下になるべきではなかった、と。
しかし今さら後悔したところで、もうあとには引けなかった。
「打ち上げに失敗すれば、この二人の残る三肢も切り落とそう。それが嫌なら、泣き言なんて吐かずに、誠意をもって、仕事に励むことだ」
*
悲憤も慷慨も飲み込んで、カーミラは再び杖を握った。
ペンとして握るには太すぎる鉄製の杖だった。
しかしそれが最もカーミラの手に馴染んだ道具だった。
いまさら他のものを試している暇はなかった。
カーミラは激痛に耐え、術式を編んだ。
逃げ道はなかった。
成功させるしかなかった。
公爵の言った通り、彼女は死に物狂いになって魔術を成功させようとした。
一週間、ほとんど眠らず、食べず、魔術の試行を繰り返した。
その一週間で、カーミラの髪は老婆のように色が抜けてしまった。
急激に体重が落ち、原因不明の吐血があった。
動悸が止まらず、日に何度も過呼吸を起こした。
しかし心身の消耗に反して、魔術の精度はあがっていった。
カーミラは命を削って、魔術を発動させていた。
そしてついに、祭りの前日、カーミラは花火の打ち上げを成功させた。
「ほら、私の言った通りじゃないか」
それを見た公爵は、カーミラを褒めるでもなく、自身の発言を得意げに繰り返した。
「死ぬ気でやればできないことはないのだ。――――いい勉強になっただろう?」
カーミラはなにも答えなかった。
怒りも悲しみもわかなかった。
彼女は表情を失った顔で、解放された妹弟を固く抱きしめるばかりだった。
*
その晩、カーミラと妹弟は、同じベッドで眠った。
「明日、わたしたちも花火を見に行くよ」
「ねえちゃんの花火、すごい楽しみ。なんていったってねえちゃんの魔法は、国一番だもんね」
無邪気に笑う妹弟だったが、二人の左手は、包帯で固く絞められている。
素早し止血処置とその後施された回復魔法により、傷口はすでに塞がっていた。
しかし落とされた手が戻ることはない。
「……ごめんね」
カーミラは呟いた。
その声に抑揚はなく、虚ろな眼には、涙のひとつも浮かんではいなかった。
カーミラは疲れ果てていた。
消耗した心は、悲しみのためにも喜びのためにも動かなかった。
それでも彼女は詫びた。
自責の念だけは、どれだけ疲れ果てようとも、見失うことがなかった。
「お姉ちゃんはなにも悪くない。お姉ちゃんが謝ることなんか、なにもないよ」
そう言う妹の眼には、涙がにじんでいた。
気丈に振る舞っていたが、彼女は変わり果てた姉の姿に、ひどく心を痛めていた。
「そうだよ!左手が無くたって、剣はふるえるんだ!みててよ、おれいつか、あの野郎をぶっころしてやるから!」
そう言う弟の眼は、怒りに燃えていた。
彼は怒っていた。大切な姉妹を傷つけた公爵を、自分の左手を奪った男を、絶対に許せないと息巻いていた。
「……そうだね」
疲憊したカーミラは、二人にかけるべき言葉を見つけられなかった。
妹弟は労わるように、残った右手で、姉の頭を撫でた。
あたたかい。
そう思いながら、カーミラは目蓋を閉じた。
緊張の糸が切れ、瞬く間に意識を失った。
そして次に目が覚めたとき、すべては終わっていた。
***
「――――え?」
カーミラは呆然とした。
見渡す限り、火の海だった。
熱風が頬を撫で、熱気が肺を焼く。
腐った油が燃えているかのような異臭が鼻をつく。
火の爆ぜる音に紛れて、喘鳴が聞こえてくる。
それも一人だけのものではない。
くるしい。
あつい。
たすけて。
みずを……。
虫の息となった人びとの声が、崩れ落ちた建物の下から響いてくる。
「なに、これ……?」
カーミラは昨晩から今日にかけての記憶がほとんどなかった。
緊張の糸が切れたことで、彼女の心身は限界を迎えたのだ。
「わたしは、魔術を――――でも――――成功したはず――――間違いなんて、なかったはず――――」
うわ言のように、カーミラは呟いた。
頭の中にゆっくりと、今日一日のことが蘇ってきた。
カーミラは妹弟に見守られる中、打ち上げ本番に臨んだ。
緊張はなかった。焦りもなかった。
そのとき、カーミラは魔術のことしか考えていなかった。
脳はそれ以外の機能を停止させていた。
意識も記憶もろくに保てないほど、カーミラは集中して、花火の精製に取り掛かった。
「どうして――――」
術式は完璧に組み立てることができたはずだった。
夜空にあがった火球は、無数の花火として狂い咲くはずだった。
しかし魔術は、暴発した。
打ち上げは失敗し、火球は火の雨となって、地上に降り注いだ。
一面の焼け野原だった。
カーミラは呆然自失として歩き回った。
黒焦げになった遺骸がそこら中に転がっていた。
「……あ」
カーミラは、ふいに足を止めた。
小さな二つの遺骸が、抱き合うようにして倒れていた。
炭化したその遺骸には、左手がなかった。
「……ああ」
カーミラは膝をつき、まだ熱い遺骸を抱きしめた。
熱は感じた。
痛みもあった。
しかしカーミラは火傷のひとつも負わなかった。
「――――!」
この二人を焼いたのはカーミラの魔術だった。
故に、遺骸の熱がカーミラを傷つけることはなかった。
「――――!!」
カーミラは叫ぼうとしたが、声がでなかった。
涙を流すことも、表情を歪めることもできなかった。
カーミラはただ、妹弟の遺骸を抱きしめることしかできなかった。
***
それからのことを、カーミラは正確に記憶していない。
気付けば、彼女は王城の尖塔にある牢に幽閉されていた。
冷たい牢の中で、カーミラはただ、祭りの日を反芻していた。
あの日自分が書いた魔術式を再現しては、暴発の原因を突きとめようとした。
記憶はおぼろげで、本当のところはわからない。
しかしそれでも、彼女は結論づけた。
たったひと文字であった、と。
それ以外は完璧に記せていた。
たったひと文字の誤りが、すべてを瓦解させた。
原因を突きとめても、悔やんでも、失ったものは戻らない。
カーミラは絶望の中にありながら、しかし再び小石を握り、術式を編み始めた。
自分の作った花火の術式を解体し、再構築した。
たったひと文字の過ちで瓦解してしまうような、脆い術式ではない。
何重もの予備機構が設けられた、堅牢な術式だ。
万に一つも暴発することのない、加えて、確実に花火を打ち上げる、完全無欠の術式を、カーミラは編み出そうとした。
いまさらなぜそんなことをするのか、カーミラ自身にもわからなかった。
けれど彼女は、疑問も持たずに、牢に入れられてからの五年間、魔術の精製に心血を注いだ。
止める者はいなかった。
牢の中では魔術は仕えない。
非力なカーミラでは、牢を抜け出すことはできない。
カーミラの魔術を利用価値のあるものとして、当時の国王はカーミラを処刑せずに幽閉したが、彼の在位中カーミラが使われることはついになかった。
カーミラはほとんど忘れ去られた存在だった。
故に、魔術式の作成も咎められることなく続けられた。
そしてついに術式が完成したとき、カーミラの前に現れたのが、新王ドラクルだった。
***
「なぜ貴方は花火を打ち上げたのですか?」
悔恨に打ちひしがれるカーミラに、ブラムは優しく問いかける。
「……妹と弟が、私の花火を楽しみにしていたから」
カーミラは独白するように、虚空を見つめながら答えた。
「自分でも、ずっとわからなかった。さっさと死ねばいいのに、いつまでも生き永らえて、魔術の使えない牢の中で魔術を編んで……それになんの意味があるのかわからないまま、ずっと続けていた……」
カーミラは空を見上げた。
花火の残滓は完全に消え、代わりに星々が燦然と瞬いていた。
「でも、花火を打ち上げてわかった。私は妹弟に見せるために、これをあげたんだって」
花火が打ちあがった瞬間、カーミラの心には些細な高揚感もなければ、わずかな達成感もなかった。
彼女にあったのは、安堵だった。
――――わあ、すごい!
――――お姉ちゃんの花火、きれい!
そうはしゃぐ妹弟の声が、いまにも聞こえてきそうだった。
彼女は妹弟の幻影とともに、花火を見上げていた。
「二人は私を誇りに思ってくれていた。お姉ちゃんはすごいって、いつも褒めてくれた。――――私は二人に失望されたままでいたくなかった」
自己満足よ、と、カーミラはいまにも消えそうな声で言った。
「裏切りたくなかった。――――最後まで、自慢お姉ちゃんでいたかった……ただ、それだけ」
カーミラはブラムに顔を向けた。
「でも、だから、これで終わりでよかったの。それなのに――――」
ブラムは主君の首を落とし、カーミラを守った。
それどころか、共に逃げようと、手まで差し伸べてきた。
「――――あなたは、誰なの?」
カーミラはドラクルの臣下、魔術師ブラムの顔を、まっすぐに見つめた。
「なぜ王を殺したの?どうして、わたしの過去を知っているの?」
ブラムは涙を拭い、カーミラの前にそっと手をかざした。
カーミラにかけられていた緊縛術がとける。
カーミラは身体の自由を取り戻したが、もう舌を噛もうとはしなかった。
「あなたとわたしは、昔何処かで、会ったことがある……?」
カーミラは過去を振り返る中で、ブラムの顔に見覚えがあることに気づいていた。
「はい。あります」
ブラムはわずかに逡巡したが、やがて覚悟を決めたように深く息を吸った。
「僕はブラム・シュタイマルク。――――貴方のかつての主人、シュタイマルク公爵の息子です」