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戦場は両国の国境地帯にある荒野だった。
見渡す限り赤土の中で、両軍はおよそ二キロの距離を置き、睨み合っている。
五千人の敵兵に対して、自国の兵は二千人のみだった。
倍以上の戦力差がありながら、しかしドラクルは悠然と構えていた。
「首尾はどうだ?」
「上々です」
ドラクルの背後に控えていた魔術師ブラムは、静かに言った。
「兵はすでに後退をはじめていますが、こちらの動きに敵兵は気づいていないようです。もちろん、カーミラ・サンソンの存在も気取られてはいません」
「あとは魔女次第か」
ドラクルは双眼鏡を覗き込み、両軍のちょうど中間地点に伏せるカーミラを見やった。
星も月もない新月の夜だった。
暗黒の荒野に溶け込むカーミラの姿は、敵軍には発見されていなかった。
ドラクルは特殊な細工の施された暗視双眼鏡で、カーミラが魔術を展開させる様子を観察する。
高揚した表情で、待ちきれないと言わんばかりに。
「まだなのか?書き出しをはじめてもう一時間になるぞ」
「精緻な魔術ですから」
主君とは対照的にブラムは冷静だった。
淡々と、彼はカーミラの魔術について解説した。
「牢の中に残されていた術式から察するに、彼女がいま書き出している魔術は一万の古代文字と数十種類の図形により構築されるはずです。実行までには、どれだけ早くともあと一時間は要するでしょう」
「じれったいな」
カーミラの作業がどれだけ高度なものであるのかまるで理解せず、ドラクルは悪態をついた。
「魔術を発動させる前に敵兵が動いたらどうする。あいつが魔術を成功させなければ、この戦は確実に敗北するのだぞ」
「……彼女は成功させます」
淡々とした口調のまま、ブラムはカーミラを擁護した。
「失敗など、ありえません」
ドラクルは双眼鏡を外し、ブラムを睥睨する。
「なぜ断言できる?」
「牢の中にあった術式は完璧でした」
「ではやつの代わりにお前が発動させるか?」
「ご冗談を。複雑すぎて、私などにはとても扱えません」
「……つまらんやつだ。暇つぶしの相手にもならない」
ドラクルは舌を打ち、再び双眼鏡を当てた。
「退屈しのぎに奴隷でも連れてくればよかった。――――ああ、もしあの魔女の親類がひとりでも生きていれば、その指を一本ずつ切り落としてやるんだがなあ。そうすれば術式の書き出しを急がせることができるし、俺も暇を潰せる。一石二鳥だったのだがな」
それを聞いたブラムは表情を変えた。
けれど双眼鏡を覗くドラクルは、その変化に気づけなかった。
「……陛下」
「なんだ」
「陛下も他の兵たちと共に、後方へ下がられたほうがよろしいのでは?」
「臆病風を吹かせるな。これ以上離れれば、せっかくのショーが見えなくなってしまうではないか」
「……失礼いたしました」
ブラムはそれ以上なにも言わなかった。
彼はいつも通りの能面に戻り、主君と共に見守った。
カーミラの、魔術の発動を。
*
二時間後、それまで地に伏せていたカーミラの影が、ゆらりと立ち上がった。
「いよいよか!」
双眼鏡を覗き込んだまま、ドラクルは立ち上がった。
「ついに始まるぞ!史上最大のショウの幕開けだ!」
カーミラは魔術式の中心に杖を突き立て、呪文を詠唱する。
魔術式が発光する。
夜空に無数の光の球が出現する。
「殺せ!」
光の球は一斉に弾ける。
「すべてを焼き払え!」
弾けた光の球は、五年前と同じように、火の球となって降り注ぐ――――ことはなかった。
「――――は?」
ドラクルは絶句し、双眼鏡を手離した。
見間違いではなかった。
裸眼で見ても、目の前に広がる光景は変わらなかった。
「なんだ、これは――――」
戦場の夜空は、一面の花火で覆い尽くされていた。
*
白金色の光が花開き、瞬きながら消えていく。
咲いては消え、消えては咲き、耐えることなく夜空を照らし続ける。
砕いた宝石をまいたような、燦然とした光で、戦場は埋め尽くされる。
その光は優しかった。
温かく、しかしどこか物悲しかった。
両国の兵士は、突然の出来事にたじろいだ。
攻撃かと勘違いし、将校は突撃命令を出した。
しかし、従うものはいなかった。
みな、空を見上げたまま動けなかった。
一人また一人と、握っていた剣を落としていく。
花火はあまりにも美しかった。
兵士たちを圧倒し、感動させた。
そして強い郷愁の念を掻き立てた。
優しい花火の光に包まれた兵士たちの心には、家族の姿が浮かんでいた。
父母や、伴侶や、友人。
故郷の村の景色、穏やかな団欒のひととき、人生で最も幸福だった日々が想起された。
――――なぜおれはこんなところにいるんだろう?
誰もがそう思った。
家に戻りたい、と。
愛する人のところにかえりたい、と。
兵士たちは戦意を失い、一人また一人と、踵を返した。
数人の将校たちは敵前逃亡だと馬上で剣を振り回したが、数千人の逃亡兵を止める術はない。
両軍は完全に瓦解してしまった。
彼らが去った跡には無数の剣が残された。
剣はどれもきれいに磨き上げられたままで、上空の花火を反射し、大地を水面のように輝かせた。
*
最後に小さな、けれど長く尾を引く花火が打ちあがり、戦場は静まり返った。
そこはもはや戦場ではなくなっていた。
一滴の血も流されないまま、戦場はただの荒野に戻っていた。
その中心で、カーミラは一人、空を眺めていた。
憑き物がおちたような顔つきだった。
その眼は深く淀んだままで、疲労も色濃く表れていたが、しかし幽閉されていた頃の張り詰めた雰囲気はなくなっていた。
「――――どういうつもりだ?」
憤怒に震える声を聞き、カーミラは視線を移した。
目の前に、ドラクルが立っていた。
ブラムも一緒だ。
野営地からカーミラのもとまで駆けてきた二人は、カーミラを睨んでいた。
「申し訳ありません」
カーミラは微笑んだ。
「どうやら私は、失敗してしまったようです」
「……なんだと?」
「お望みのとおり、この地を火の海に変えようと思ったのですが、術式に誤りがあったようです。――――まさか、花火が打ちあがってしまうなんて」
お詫びのしようもありません、と、カーミラはすこしも悪びれずに言った。
いかなる処罰もお受けします、と、膝をついて頭を垂れた。
まるで首を落とせといわんばかりに。
「……魔女め」
ドラクルは剣を抜いた。
「よくも俺を謀ったな。幽閉されていた腹いせのつもりか?それとも本当に術式を誤ったのか?――――どちらにせよ腹立たしい!」
ドラクルは剣を高く振りかぶった。
「楽に死ねると思うなよ!全身の皮をはぎ、指先から細切れにしてやる!乳房を削ぎ、眼球を抉り、股を貫いてやる!史上で最も残酷な方法でお前を殺してやる。お前ひとりで、今日俺が眺めるはずだった数千人分の死を賄ってもらうぞ!」
カーミラは満面の笑みを浮かべた。
「臨むところです」
剣が振り下ろされる。
渇いた荒野に、その晩はじめて、血が染みる。
落とされた首は、転がることもなく、地に張り付く。
「――――あ?」
ドラクルは低い声を漏らし、ぐるりと眼球を動かす。
彼の目に映るのは、剣を握ったブラムだった。
「……え?」
カーミラは乾いた声を漏らし、瞠目する。
首を落とされたのは、カーミラではなくドラクルだった。
そして彼の首を落としたのは、彼の臣下である、ブラムだった。