第十話 王宮を離れて
「みんなの見送りがすごくて、思わずまた泣いちゃったよ」
「三十分は正門の前でうだうだとやってたからな」
「言い方! 感極まってたの、名残惜しんでたの!」
呆れたように返してきたレイに「まったくわかっていないな」と小さなため息をつく。
「……たったの半年だったけど、本当いろいろあったなあ」
ふと足を止め、後ろを振り返った。
小さくなった王宮を眺めるマナの顔は、どこか憂いを帯びている。
王宮の方から吹いてきた風が別れを告げるように、彼女の髪をなびかせた。
「戻りたくなったか?」
「ううん、そういうのじゃない。みんなならきっと大丈夫って」
魔女がいなくなった今、フェアラートはやっと国を良くさせるために本腰を入れて動くことができるだろう。
あの出来事は、結果として自分や王宮にいた人々の絆と心を強くさせたに違いない。
唇をきゅっと結び前を向いたマナは、静かに歩みを再開する。
その背中を、レイは無言で見守っていた。
少し離れた場所からマナの横顔を眺める。
力強さと穏やかさを秘めた彼女の茶色の瞳が、妙に綺麗に見えた。
──何かを決心した人間は、ここまで変わるのか。
召喚された時に見せていた、恐怖や怯えや迷いの片鱗は、もう見当たらない。
「それにしても、お母さんの空間結界が無事で本当によかったよ」
マナは胸を撫でおろし、ほっとしたように言葉をこぼす。
「魔女は結界を破って外から侵入したのではなく、結界内から発生したものだからな」
「そうだね。でも、もうリリィは復活しない! これもレイのおかげだね!」
てっぺんに登っている太陽のようと同じように、彼女の顔も燦々としている。
その笑顔を見たレイは、ただふっと笑って返した。
「……あ! あの大きな木! お母さんの簡易結界晶がある木かも!」
突然、マナが指を差して叫んだ。
遠くに見える一本の木を指差し、目を輝かせている。
どれだけ離れていてもその木だけが特別に大きいものだとわかるくらい、圧倒的な存在感だった。
「この辺までは空間結界が届かなかったから、その代わりに大きな木に簡易結界晶をつけたって! きっとお母さんの日記に書いてあった木だよ!」
一歩ずつその大樹に近づくごとに、母の遺物があるかもしれないとマナの気持ちが昂っていく。
そんな彼女の様子をじっと見つめたレイは少し眉をひそめると、いつもより低い声で尋ねた。
「お前がさっきから言っている簡易結界晶とはなんだ?」
「えとね、聖女が生成できるもので、その名の通り簡易的な結界を張ってくれる水晶なんだけど……。採れた鉱石を浄化して聖力を注ぐの。それを丁寧に何度も繰り返して出来るのが簡易結界晶。生成者によって形や色は違うけど、どれも宝石みたいに綺麗なんだよ」
マナは嬉々としながら得意げに話し続ける。
「一人の聖女が張れる結界にも限界があるでしょ? だから空間結界は主要部に張る地区がほとんどなの。で、それが届かない場所に簡易結界晶。空間のそれには劣るけど、ちゃんと瘴気や魔獣とかに効くんだよ」
さらに腰に両手を当て、えっへんと笑う。
「それに、お母さんみたいに大規模な空間結界を張れる聖女は少なくて。でも結界晶なら誰でも作れるから、けっこういろんな場所にあったりするんだよ」
「へえ」
一通りの説明を終えたマナの顔は誇らしげであったが、彼はいつも通り無感情に頷いただけだった。
──聞いてきたのはそっちなのに……。
そっけない反応に、少し肩透かしを食らった気分だ。
それでもレイに物を教えたという満足感から、胸を張りながら言葉を続ける。
「それにしても意外だなあ。レイ、簡易結界晶のこと知らなかったんだ」
「お前だって、悪魔のことを一から十まで知っているわけではないだろう? 種族が違うんだ。知らないことの方が多いに決まっている」
「うぅ……。まあ、確かに」
張っていた胸を縮こませた。
初めてレイの言うことに納得したかもしれない。
ふんとすましている顔が、少しだけ自分と同じ人間のように見える。
「じゃあ、もしまたわからないことがあったら何でも聞いて。私もレイのことで知らないことがあったら、ちゃんと聞くから教えてね!」
マナは前屈みになりながら無邪気に微笑む。
その笑顔は、悪魔に向けられたものとは思えないくらい純粋なものだった。
「あ、ほら! もう目の前だよ! 早く行こう!」
期待と興奮を抑えきれないように、その木へと向かって一気に駆け出す。
「……変わった女だ」
彼女の背中を見つめながら、レイは静かに呟いた。
…………
……
…
視界に入りきらないほど大樹。
マナは幹に手を当て、生気を感じ取った。
とめどなく緩やかに流れている生気は、万物の生命力を現しているようだ。
──この大樹に、お母さんの結界晶がきっとある。
木を見上げながら後ろ向きに少しずつ下がっていく。
「……わっ!」
数歩下がったところで砂利に足を取られ、驚きの声を出しながら大きく身体のバランスを崩した。
それをレイが後ろから支えたので転ばすにすんだが、にやりと笑った顔からは嫌な予感しかしない。
「助けてやったんだ。生気くらい、いいだろう?」
「…………っ!」
レイはマナに顔を近づけていく。
案の定そうきたかとマナはまた顔を熱くし、「離れなさい」と口を開こうとした、その時。
「あなたたち、こんな神聖な木の下でなにイチャイチャしてくれちゃってるの?」
可愛いらしい声をした誰かに茶化された。
「イチャイチャなんてしてません!」
レイから身体を離したマナが全力で否定する横で、レイは小さく舌打ちをしていた。
そして、その声の主を視界に入れたマナは口角を少し上げて目をぱちくりとさせる。
湧き上がってくる好奇心は、子供や犬や猫などの小柄で可愛いものを見た時の感情にも近い。
パタパタと羽を動かしてマナとレイの目の前を飛んでいる可愛らしい声の主は、同じように可愛いらしい妖精だった。