第八話 二人のこれから
「ありがとうございます!」
「聖女様のおかげです!」
歓呼の声が王宮に響く。
上空には爽やかな青空が広がり、もうあの魔物の姿をした人もいない。
魔女の残痕はなくなった。
「……マナ!」
執事の肩に腕を回しながら歩いてくるフェアラートが、名前を呼びながら近づいてきた。
「光の中心を探して来てみたが、やはりマナだったか……。本当に助かった、ありがとう」
「とんでもないです。私は私の役目を全うしただけですから」
満身創痍に近いマナは、目を細めてうっすらと微笑えむ。その顔は、疲労と達成感で交差していた。
「皆の命と、この国の危機を救ってくれたんだ。何か、お礼をさせてほしい。欲しいものはないか? 俺に出来ることなら、なんでも……」
真摯な瞳をしたフェアラートはどんな願いも叶えてくれそうだった。
けれど、なんでもと言うのなら、やりたいことはもう決まっている。
「では、一つだけ。フェアラート王を……引っ叩かせてください」
その願いが微笑んだ聖女の口から発せられた瞬間、周囲の空気が一変した。
「田舎育ちのじゃじゃ馬とは言え、しがない女の子の気持ちを弄んだ罪は大きいですよ。……なので、それで『落ちこぼれ』もなかったことにします」
マナの願いは半分は本音で、半分は強がりだった。
だからこそ、彼女は少し強気な笑顔を交えていた。
フェアラートと執事は顔を合わせ、その言葉の意味を悟る。
「マナ様……あなたの行いには感謝しておりますが、王を叩くなんて……」
フォローするかのように口を挟んできた騎士を、フェアラートが制止する。
「わかった。大変申し訳ないことをした。……本来なら、叩かれて済む話ではないな。目の覚めるような一発を頼むよ」
執事の肩から腕を取り、その場に片膝をついたフェアラートは深々と頭を下げて謝罪をすると、マナが叩きやすいように顔を上げ、すっと目を閉じた。
「じっとしててくださいね」
マナは穏やかな微笑みを浮かべると、ゆっくりと腕を上げ、手のひらをフェアラートの顔に向かって振り下ろす。
その時が来るのを、周囲は固唾を呑んで見守るしかなかった。
マナの手のひらが彼の頬に軽く触れた瞬間、水滴が水面に落ちるような静かな音が響いた。
そのままそっと彼の頬を包んで、マナは治癒魔法をかけ始める。
「……マナ?」
「まだ完治してないのに動いちゃ駄目じゃないですか」
「どうして?」
手痛いビンタを覚悟していたフェアラートは眉をひそめた。
本当なら、マナも思いきり引っ叩いてやるつもりだった。
だが、昨晩聞いた王室での会話がそれを止めた。
この人もまた、父親の影響を受けながら、国を良くしようと無我夢中だったのだろう。
そう思うと、自然と手に力が入らなかった。
「……フェアラート王は『この国を救いたい』って一心だったんですよね。やり方はどうあれ、その気持ちには賛同したんです。フェアラート王なら、きっとこの国を変えられると思います」
マナの言葉に嘘偽りはなかった。
彼には国王としての覚悟と才能があり、すでに人々の信頼も厚い。
若さゆえに過ちを犯すこともあるだろうが、この経験がいつかきっと彼のためになる日が来るに違いない。
続けて、マナは悪戯っぽく笑ってみせる。
「それに、リリィが私の代わり以上にやってくれたみたいですしね」
「……ありがとう」
それ以上の言葉は必要ないと感じたのか、二人はただ静かに微笑み合う。
穏やかな空気が流れる中、突然マナの治癒魔法が空気に溶け込むように消えてしまった。
フェアラートの頬に触れていた手が滑り落ちる。
足の感覚がなくなり、膝が曲がりかけた。
視界が揺れ、ふらつく身体を必死に支えようとしたが、力がまったく入らない。
──あ、もう……だ、め……。
マナの意識はついに途切れてしまう。
あわや地面に倒れ込むところを、レイが間一髪で抱きかかえた。
マナの身体は抜け殻のようにぐったりとしているが、微かな胸の動きが無事を示していた。
「何が起きた……?」
フェアラートが険しい表情で問いかける。
その問いに答えたのは、マナを抱いたレイだった。
「力の使いすぎだな」
「マナは大丈夫なのか?」
「寝ているだけだ」
それだけ言うと、レイはマナを抱きかかえたまま、フェアラートたちに背を向けた。
「待ってくれ……! マナを、どうするつもりだ?」
「こいつは俺の主だ。俺が連れて行く」
「マナは恩人だ。そう易々と連れてかれるわけには……!」
「安心しろ、悪いようにはしない。こいつがいないと、俺も困るからな」
ふっと笑ったレイは、それ以降のフェアラートの言葉に聞く耳を持たず、瞬時に姿を消してしまった。
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「……ここは?」
心地よい陽だまりの中で、マナは目を覚ます。
周囲には生命力あふれる木々が立ち並んでいて、生い茂った草花の匂いが鼻をくすぐる。
「気がついたか。ここは俺を召喚したあの森の中だ」
「良かった……。森も緑を取り戻したのね」
マナはゆっくりと上半身を起こし、全て終わったのだと安堵の息を漏らす。
「レイと契約したのは不本意だけど、ああしてなかったら、今の景色だって見れてないんだよね」
そう言いながら、隣に座っているレイへと視線を向ける。
「一応、お礼はしておく。……ありがとう」
マナはどこか照れくさそうにしながらも、素直な気持ちを込めて言葉を紡いだ。
「悪魔に礼を言う聖女なんて、聞いたことないな」
レイは薄く笑いながら肩をすくめる。
「……もう! 人がせっかく感謝してあげてるって言うのに!」
素直に「どういたしまして」と言わないところが悪魔らしい。
「これからどうするつもりだ?」
レイの何気ない問いかけに、一呼吸置いて、ゆっくりと答えた。
「……このまま田舎に戻ろうと思って。お母さんの書物を調べたいの。あのブルーダイヤモンドについて、何か書いてあるかもしれない」
「そうか」
森を吹き抜ける風が心地よく、穏やかな時の中で木々の葉がさらさらと揺れる音が響く。
「それで、レイはどうするの?」
「どうするもなにも、お前が大聖女になるまでそばにいるだけだ。契約したからな」
レイはあくまで当然のように言う。
その言葉に、マナはふっと笑みをこぼした。
──レイと契約したことに、後悔なんてない。
そうしなければ、みんなを守れなかった。きっと、その方を後悔していたに違いない。
「わかった。その時まで力を貸してね、レイ」
花が咲いたような笑顔をしたマナの頬に、レイは軽く唇を当てた。
「…………っ‼︎ なんでまたキスするの⁉︎」
顔を熱くしながら、キスされた頬を手で覆う。
レイは意地悪そうに笑っていた。
「聖女の生気が思っていた以上に美味でな。心臓をいただくまでは、これで我慢してやろう」
妖艶に微笑んだ彼が、再びキスをしようと顔を近づける。
だから、思いっきり言ってやった。
「……命令よ! 私から離れなさぁぁい!」