理想の自分の行方。
明け方の4時30分頃、玄関横で飼っている柴犬が吠え、私を起こした。明け方の犬の鳴き声は例外なく耳に響く。静寂な世界に挑戦状を叩きつけ、もれなく近隣住民のアラームとしてその目的を果たす。私は飼い主として注意しなければいけない。面倒くさいが、ぼやけた視界で玄関を開ける。
白い光が私を出迎え、全身を優しく包んできた。景色はいつもと変わらない。柴犬もキョトンとした顔で私を見ている。まだ、日常は動き出していないようだ。
理想の自分が声をかけてきた。私そっくりの声色で突然、どこからか自己紹介された。男性としては甲高い部類の声だと思う。そして彼は言った。
「私は昨日、この世界に一生戻れない身となりました。とりあえず、あなたには伝えておこうと思って」
とりあえず。私は彼の他人事のような、重要性をさほど感じていないであろう言葉に引っかかった。自動レジの方が抑揚のある言葉を発する。感情が見当たらず、改善の兆しすら許さない。機械化を目指している途中なのか、諦めの領域に住んでいるのか。今の私に正しい答えを見つけられる力はなかった。
私は彼に対し、いくつか質問をした。頭が悪いなりに、疑問点を抽出することができた。しかし、何を疑問に思い、質問したのか思い出せない。覚えているのは、白い光が全身を優しく包んでいたことだけ。柴犬と目が合い、音のない世界の住民となる。
彼は心に残る名言を発することなく、いつの間にか消え去っていた。まるで、冷蔵庫に残していたシュークリームのように。私は柴犬をなで、しばらく玄関横にいた。蚊がよってこようが、新聞屋さんが配達に来ようが、余韻を味わうためにその場から動く気になれなかった。
理想の自分が何故、この世界に一生戻れない身となったのか。思い当たる節がないことはないが、どうして昨日なのかは分からない。これといって変わったことはなかったが、どこかに変化が生まれていたのだろうか。
それに、理想の自分に会いたいと願ったことは一度もない。私の頭の中で作り上げられたイメージにすぎないのだから。
ある日の記憶が蘇ってきた。彼なりのメッセージなのだろう。彼は自分が死んだ原因を私に伝えようとしている。元々同じ人物なのだ、私の脳を操作することなど朝飯前に違いない。
当時の情景を細部まで逃すことなく復元し、正確な情報を伝えてくる。私の心に一生消えない傷がついても構わない、恐らく彼はそう思っている。私は彼を捨て、この世界から追い出した犯人なのだから。
私は何に対して反省すればいい? 悔やめばいい?
答えが見つかる気配はない。新たな疑問が増え、頭が重くなっただけだ。体につけられた見えないおもりが、どんどん重くなっていく。
結果、彼が死んだ原因については見当がついたが、昨日死んだ理由と私が背負うべきおもりについては、分からないままだった。
目撃者や関係者がいるわけではなく、自分の心と頭の中で起きた問題。他人が入り込む余地はなく、全て自力で解決しなければいけない。これ以上被害者が発生する見込みがないことだけは、不幸中の幸いだった。
思えば、私は彼の言葉を少しも疑うことなく信じた。普段、家族や友人に都合の良い嘘をつき、職場でも頻繁に嘘をついている。理想の自分とはいえ、私と彼の心と頭は同じ。雲行きが怪しくなってきた。
私はとりあえず報告を受けただけだ。明け方の4時30分頃、白い光に包まれながら。柴犬が吠えなければ、確実に夢の中だった。意図しない偶然の産物。運命の糸を掴んだわけでも、運を手にしたわけでもない。
日常が動き出していれば、偶然は起きなかっただろう。地面を熱する強力な太陽光、元気よく響く工場音、スマートフォンが放つ誘惑、そして最も厄介な他人の視線。偶然も運も、雑味が多すぎて逃げていく。
私は家の中に戻って渇いた喉を潤していると、母が寝室のある2階から降りてきた。
「また野良猫でもいたの? それともセミ?」
と、母は少量の怒りを混ぜながら言った。
「いや、何もいなかったよ。理由は不明」
と私は言った。強力な眠気があっても、よどみなく嘘をつくことができた。
母は私の言葉を信じていないのか、カーテンを開けて外の景色を見た。白い光が数秒ごとに薄れ、今日も猛暑をもたらす太陽がやって来ていた。
私は僅かに不安を覚え、母の横に立って景色を見た。野良猫もセミもいなければ、理想の自分もいなかった。もうすぐ日常が動き出すことを予感させる空気が、窓越しでも十分伝わってくる。
母は何も言わずにカーテンを閉め、寝室へと戻っていった。私は数秒してから、後を追う用に階段を上った。その時、母が前夜セットしていた炊飯器が動き始めた。味気ない空間に、一滴の絵の具がこぼれ落ちてきたような感覚だった。
***
理想の自分が死んだのは、今回が初めてではない。私の実力が足りないばっかりに、5、6人の自分を捨ててきた。恐ろしい病のように、助かった事例はない。
環境のせいにもした、社会のせいにもした。私自身は問題ないと思うことで、新たな理想の自分に出会えたこともあった。もちろん、私に捨てられた彼たちをないがしろにしたことはない。頭の引き出しに丁寧にしまい、キッカケがあればすぐ思い出せる状態にしている。
今回、理想の自分に話しかけられたのは初めて。彼は過去の自分に比べ、大人しいタイプだった。少なくとも、自らの死をアピールするタイプではなかった。だって彼は、最も実現可能で日常に密接した男だったのだから。
彼とは25歳の時に自宅のリビングで出会った。3人掛けソファに1人で座りながら、録画したテレビ番組を見ている時だった。2人の女性タレントが北海道へ旅行に行く番組。時刻はお昼の2時過ぎだったと思う。
私は仕事をしていなかった。何に対してもやる気が出なかった。ボーッと時間が経過するのを待つ日々。つまり、ニート。
真っ白なキャンバスに身を投じてみると、体がみるみる健康になっていく気がした。母の小言や近所の目が煩わしいだけで、人間らしさを取り戻すことができた。その時、彼と出会ったのだ。
人生の原点に立ち返ったような理想の自分。ノルマに追われ、会社の不正を見て見ぬ振りしていた私を浄化してくれる。
彼はちょっとした出来事で見失ってしまうほど、繊細で小さなピース。落ち葉のように軽く、希少価値もない。
彼を見失うたび、私は心を痛めつけた。激しい劣等感にも襲わせた。私という人間の価値を下げ、彼の価値を上げていく。社会には悪魔の手先、誘惑がそこら中に存在する。私は馬鹿正直に戦うことで、彼を守った。
でも、私は彼を捨てた。25歳男性、職業ニートという肩書きを、誰も許してくれなかった。私は自分を守るために仕方なく再就職した。
人間らしさを勉強机の引き出しにしまい、鍵をかけて保管した。それさえ自宅で守っておけば、いつでも彼と会える。そう信じていたが、あっさりと打ち破られた。私は嘘をつく人間、理想より社会に馴染む方が簡単だった。
***
観測史上最も暑いといわれたGW後だったと思う、彼を捨てたのは。
夕方の5時過ぎ、1人で近所を散歩している時だった。前から2人組の女の子が歩いてきた。多分、小学3年生か4年生。休日ということもあり、ランドセルは背負っていない。
キャッキャ楽しそうに話している。私との距離がどんどん近くなる。恐らく、すれ違う時に会話が途切れるだろう。あの静寂に、気まずさを感じなかったことは一度もない。
あと3秒もあればすれ違う。2人とも知らない顔だし、ササッとすれ違えば心のダメージも少ないだろう。日常の一コマ。目を瞑った時、思い出すかも分からない些細な時間。
「こんにちはっ」
1人の女の子が発した言葉は、何色にも染まっていない空間に放たれた。行き先が見つからず、ふわふわとクラゲのように漂っている。
女の子の挨拶を聞いた時、私は彼を捨てた。がっちり繋がれていた手をパッと離し、人間として欠落している自分を守った。
彼は風船のように、風の行方に左右されながら上空へと飛んでいった。私はただ、無言でその光景を見つめるしかなかった。
催眠術にかけられたように、私の口は開かなかった。今思えば、言い訳としか考えられない。でも、自分自身に嘘をつく時に感じる、あの妙な高揚感と罪悪感は存在しなかった。ということは、真実である可能性が高い。
女の子に挨拶を返せなかった。今の法律にはない悪事に手を染めた、この事実が私の胸に深く刺さった。彼女たちの名前も住んでいる場所も知らない。もしかしたら、二度と会うことはないかもしれない。通行人A、Bにもならないエキストラが、彼を捨てるキッカケになった。
一滴の絵の具がキャンバスに到着するよりも早く、あっさりとした別れだった。予兆や僅かなヒントもなく、突然という言葉以外見当たらない状況。サウナから急に出て行く人を見ているような感覚に近い。
もう一度、彼を連れ戻すことはできる。私が頭の中でイメージを膨らませ、理想の自分を復元すればいい。1分もかからない、簡単な作業だ。
しかし、胸に刻まれた傷がそれを許さなかった。虫歯のようにチクチクと痛む。歯医者に駆け込むほどではないが、2週間後の予約まで耐えなければいけないことを考えると嫌気が差すレベル。行動することを思いとどまらせる、絶妙な痛みだった。
彼女たちは私とすれ違った後、再び会話を始めた。すれ違う前とは声のトーンが違う。周囲の視線を奪う陽の声から、会社や学校等でお馴染みのひそひそ声。いつでも、誰にでもダメージを与えることができるその声は、私の胸の傷にも容赦なく襲ってきた。
***
再就職してから1年が経った。会社に体調不良だと嘘をついて作った休日。妙な高揚感と罪悪感を引き連れて1日を過ごしていると、時刻はあっという間に18時を過ぎていた。
自宅に戻り、用を足そうとトイレへ向かう。太陽が沈みかけ、電気を点けようか迷う時間帯。はっきりとした基準があると息苦しいし、ないとトイレの前で一瞬悩んでしまう。
結果、私は電気を点けない方を選択した。節約にうるさい母の顔を思い出し、小窓から白い光が差している中で用を足した。不自由に感じることは特になかった。
白い光は濁っていた。理想の自分に話しかけられた時とは違い、優しく包んでもくれない。代わりに、私の影を色濃くしていた。
ふと、この先どんな人生を歩むのだろうと考えると、影が冷蔵庫に冷やされたチョコレートのように固くなっていった。人間が主役の社会で、なんとか生きていくことはできている。お金もニート時代に比べると増えた。
一方、人間らしさは失われたまま。私の性格が悪いことに加え、社会に揉まれたことで磨きがかかった。今、思い描く理想の自分はいない。これでは、まだ人間らしさがあったニート時代の方がマシだ。
私は何のために生きているのだろう。会社や顧客のために頑張っても、少ない給料以外に得られるものがない。
明日死ぬと宣告されても、社会から逃げられるのであれば、一定の悲しみを経て受け入れられると思う。
そういえば、彼が声をかけてきた時、昨日死んだと言っていた。同じ脳を共有しているのだ、彼も何のために生きているのか悩み、一定の悲しみを経て死を受け入れられるタイプなのだ。そして、理由もなく限界を迎えて死を選んだ。自分のことしか考えない、内向き志向で。
1人トイレの中で、暗くなるまで待った。影がなくなれば、後ろ向きな気持ちが消えると期待した。けど、理想の自分になれたところで、悩みから解放されることはない。人間として生まれた以上、一生逃れることができないおもりなのだ。
スーパースターでもエリートでもない、ただの人間が意見を発信したところで誰の心にも刺さらない。そんなことは分かっている。だから私はこうして、暗いトイレの中にいる。翌朝、白い光が差してくるまで。
だが、きっとまた影が生まれて悩まされることになると思う、知らんけど。