狭窄する眸(2)
「ルナ、起きて」
甘い少女の声と共に身体を優しく揺すられて、ルナはゆっくりと目を覚ます。
まだ重い瞼を何とか開けて、最初に見えてきたのは見下ろしてくる青色の瞳――レイラの顔だ。
半身を起こすルナを心配そうに見つめて、彼女は小さく訊ねてくる。
「……大丈夫、ですか?」
「え?」
「なんだか、泣いていたようですけど……。もしかして、怖い夢でも見ました?」
首を傾げて訊ねてくるが、ルナはその質問の意図が分からなくて目をぱちくりさせる。目尻の方に手をやって、そこで初めて自分が泣いていたらしいことに気がついた。
それに対してレイラが本気で心配してくれているのだと気付いて、ルナはくすりと笑みを溢す。まぁ。確かに、それぐらいしか見当はないだろうが。
ともあれ、あれは少なくとも“悪夢”ではないし、心配されるような事でもない。ルナは安心させるように、努めて明るい口調で言葉を返した。
「なんでもないですよ。ただ、ちょっと目にゴミが入っただけです」
「そ、そうですか? なら、いいんですけど……」
レイラが安心したように微笑むのを横目で見て、ルナは立ち上がる。なるべく平坦な場所を選んだとはいえ、山地の真っ只中だ。小石の転がる中で長時間寝転んでいたせいか、身体中が少し痛かった。
テントから出て、最初に目に飛び込んで来たのは峻厳なシュネールプス山脈の峰々だ。どの山も頂上付近には白い雪を被っていて、その標高の高さが伺える。そして。それらの先には、澄み渡るような秋晴れの蒼穹が広がっていた。
吹き付ける冷たい風が、ルナの外套を激しく靡かせる。懐中時計を取り出して見ると、時間は予定通り正午の少し前だった。
情報を聞こうと、通信機を起動しようとしたところで、こちらに気付いたらしいキースが歩み寄ってくる。
「やっと起きたか、戦隊長殿」
「やめてください、それ。私と貴方で階級は変わらないでしょう」
むっとするルナに、キースはけらけらと笑う。どうも、彼にはいつも手玉に取られているような気がしてならない。
んんっと咳払いをして、ルナは真剣な口調で問う。
「……周囲の状況はどうですか?」
「相変わらず、一機の偵察機すら来やしねぇな。やっぱり、〈スタストール〉を刺激する事が怖いのかねぇ?」
「まぁ、そうなんでしょうね」
キースの言葉に、ルナは首肯する。
ここ、シュネールプス山脈は、ルフスラール連邦の北部に位置し、〈スタストール〉支配域と人類圏を隔てる大きな山脈だ。
十年前を最後に〈スタストール〉は攻勢活動を停止しているものの、その活動を完全に停止した訳ではない。侵犯すれば撃墜されるし、部隊を送り込めば攻撃もされる。
つまり、境界線にあたるこの山脈には、迂闊に軍を近づけられないのだ。再び侵攻が開始される恐れも払拭できない分、下手に刺激するような行動が取れない。
「でも、よくこんな場所をキャンプ地に選んだなお前。〈スタストール〉が動いたらどうするつもりだったんだ?」
「それでも、連邦領内で野宿するよりかは幾倍も安全です。……どうせ、失敗すれば私達はみんな終わるんです。あとのことを考えても仕方ないでしょう?」
「ま、それもそうだな」
キースは苦笑したように笑う。再び空へと視線を投げた先、丁度、周辺偵察から帰ってきたセレ達の姿が見えた。
相変わらず予定時間には正確な行動に、ルナはつい感嘆の声を漏らす。正直、セレの方が私なんかよりも何倍も指揮官に向いてるんじゃないかなと時々思う。
「では、そろそろ出発しましょうか」
誰に言うでもなくぽつりと呟いて。ルナは、努めて冷徹な声音をつくって通信機へと告げた。
「戦隊各員へ通告します。これより、私達は基地への撤退行動へと移ります。キャンプ地の撤収作業を行ったのち、各隊員は隊長の指揮の下、撤退を開始してください」
†
基地へと着く頃には、陽の光は西の空へと落ちていた。
西日の朱色が辺りを染め上げる中、ルナは途中で仲間と別れて一人司令官舎へと向かう。
――紅闇種は人間ではなく、人間に仇なす悪魔であり、黒妖犬である――。
帝国に住む人ならば、誰もが知っている標語だ。六年前、帝国が紅闇種人から全ての権利を剥奪した時に使われた言葉である。
この標語の下に、紅闇種だった母は秘密警察によって問答無用で射殺され、反対派だった父は白藍種だったのにも関わらず殺された。
身寄りを亡くした私と妹は強制収容所へと連れられ、そこで秘密警察から二択を迫られた。
一つは、魔術特科兵として戦地に赴き、軍人となって報国するか。そしてもう一つは、内地で過ごす代わりに、一生を白藍種の玩具として生きるかだ。
選択肢は前者しかなかった。当時九歳の妹にそんなことは絶対にさせれなかったし、何より離れ離れになるのは嫌だった。……それに。ルナが魔術特科兵になりさえすれば、妹は私の人質として軍に保護されることになる。そうすれば、少なくともルナが死ぬまでは妹は生き抜くことができる。
そして、三年の過酷な訓練を経て。今、ルナはここにいる。
暫く歩いて、見えてきたのは豪華絢爛な造りをした三階建ての建物だ。それこそが、この戦隊の指揮管制官が駐在する隊舎である。
人間である白藍種が、悪魔の犬である紅闇種と同じ建物になど住める訳がない。
そういった考えの下、ルナ達紅闇種と彼ら白藍種の士官は居住地が異なっているのだ。
ろくに警備もされていない門を抜け、隊舎の扉をくぐる。入ってすぐに鼻を劈いたのは、アルコールと煙草の混ざった臭いだった。
つい先程まで大自然の空気を吸っていたこともあって、少し頭がくらくらする。思わず、眉を顰めた。
酒に酔った将兵達の下卑な笑い声が響く中を、ルナは目を伏せて無表情を装いながらすたすたと歩いていく。ハンドラーの部屋は、中央の廊下を歩いた最奥だ。
「お、少佐の駄犬ちゃんが帰ってきてるじゃねぇか」
「今度は何匹見殺しにして帰ってきたんだろうなぁ?」
無遠慮に罵声を投げかけてくるのを、ルナはぎりと奥歯を噛み締めながらやり過ごす。今、ここで反抗的な態度をとれば、何をされるか分からない。
「にしても、少佐も物好きだよなぁ。あんな雌を抱くだなんてよ」
「いや、俺は少佐が抱くのも分かるぜ。だって、あの雌の髪色見てみろよ。俺らと変わんねぇだろ?」
「……確かに。言われてみれば」
「それに加えてあの身体だろ? そりゃあ、迫られちゃあ我慢できねぇだろうよ」
「…………よし、決めたぜ、俺」
そう言うのが聞こえた直後。
「おい、〈アメシスト〉。止まれ」
後方から呼び止められた。咄嗟に立ち止まるが、その言葉の中に下卑た思惑があるのに気付いて、ルナは再び足を進める。
すると、今度は強引に腕を掴まれた。
「止まれっつってんだろ!」
「や……、は、離してください……!」
恐怖で怯える心を叱咤して、ルナは振り返る。そこには、差別意識を隠しもしないで嗤う男の姿があった。服装から察するに、彼もこの部隊の士官か。
「雌犬風情が、人間様に抵抗してんじゃねぇよ!」
彼はそう言って拳を振り上げる。怯えた心は、ルナの抵抗意識を根本から掻き消していた。
目を瞑って、来るであろう衝撃に備える。しかし、無防備な頭上に彼の拳が降り注ぐことはなかった。
「大尉。私の飼い犬に易々と触らないで頂きたいな」
その代わりに別の若い男の声が聞こえてきて、ルナは恐る恐る目を開く。視線を上げた先、そこには振り上げた拳を掴むもう一人の青年将校がいた。
彼はルナには目もやらず、きつく大尉と呼んだ男を見据える。大尉と呼ばれた男は、イラつきをあらわにしながら腕を振りほどく。ちっと舌打ちをした後、彼はわざとらしく畏まった動きで敬礼した。
「……失礼しました、フリーヴィス少佐」
言ったきり、彼はそそくさとその場を去っていく。一連の流れを呆けた様子で眺めていると、不意に、少佐はルナの方へと視線を向けてきた。
「……報告、だな?」
「あ……、はい。そうです」
「では、行こうか」
少し戸惑いながらも、ルナは彼の後に続いた。
「――以上が、〈秋桜〉作戦におけるブラッドレイド隊の損害、及び成果です」
先程までの様子とは打って変わって素朴そのものの司令官室で、ルナは任務の報告を終える。
敵基地より三種の最新鋭兵器の奪取は成功も、予備パーツ等までは破壊に至らず。また、〈ジャスパー〉及びその隊員は全滅し、〈アメシスト〉隊もルナを除いて全員が戦死した。
「損失は二十四匹……か」
「……そうなります」
感情の読めない少佐――もといハンドラーの声に、ルナは悄然と目を伏せて言葉を返す。
“人"ではなく、“匹”。帝国では紅闇種は人間ではない。だから、戦死者は人とは数えず、軍馬などと同じ匹でカウントされる。
……経緯はあれど、彼らも帝国のために戦い、散った人達なのに。死してなお、人としての尊厳を踏みにじる表現に、ルナは毎回どうしようもない怒りとやるせなさを同時に感じる。
ややあって、書類にそれらを書き終えたハンドラーが、隣に佇む副官へと告げた。
「今回の作戦で死んだ隊員の妹弟を門前に招集してくれ。彼らには、私が直接話す」
「はっ!」
副官は完璧な敬礼を披露したのち、部屋を退室する。それを確認してから、ルナは静かに口を開いた。
「……あの、ハンドラー」
「なんだ」
「先程は、ありがとうございました」
そう言って、ルナは目の前に座るハンドラーへと頭を下げる。
紅闇種には、軍規は適用されない。だから、あの時ハンドラーは暴行を止める必要はなかったのだ。寧ろ、大半のハンドラーは一緒になって暴行を加えているのだと聞く。なのに。彼は助けてくれた。人間ですらない駄犬のために。
「いや、謝らなくちゃならないのは寧ろこちらの方だよ」
え、と驚きに頭を上げるルナに、ハンドラーは苦笑する。
「どうやら、俺が君のハニートラップに掛かっているとの噂が流れていてね。それで、君にも迷惑をかけてしまった。本当に申し訳ない」
そう言って、ハンドラーは席を立つと頭を下げてきた。完全に想定外の行動にルナは暫し固まって――それから、事態を理解して目を見開いた。
「あ、頭を上げてください! ハンドラーが、私のような駄犬如きにそんな…………!」
慌てて否定するルナに、ハンドラーは真摯な口調で言葉を続ける。
「噂の方は何とかしておくよ。……心配しなくても、食糧の分配は今より減らしたりはしないさ。絶対にな」
「……ありがとうございます」
紅闇種人部隊の食糧事情は、全て白藍種人の士官達に委ねられている。酷い部隊では一切の食糧すらも分け与えられないとも言われている中で、全員が満足できる量を食べられているのは、ひとえにハンドラーである彼のお陰だ。
もし、ハンドラーがフリーヴィス少佐でなければ、今頃どうなっていたのかも分からない。先程の大尉のような人達に、この身体を弄ばれていたのかもしれないのだ。そう思うと、感謝してもしきれない。
「私からは以上だ。君からもなければ、退室して貰っていい」
「は、はい。……では。失礼します」
完璧な敬礼をして、ルナは踵を返して部屋を去った。