表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/11

出奔

 命を狙われた直堅は友人が死んだことへの悲しみもあったが、自分が狙われたことに対する恐怖もすさまじく、今回は命拾いしたが、またいつ狙われるか分からない。不安に押しつぶされそうになった。

『これから食事は誰かが毒見をすることになったが、毒見役は死んでもいいのか。毒を入れることを諦めても街中で辻斬りに会うかもしれない。敵は城の中にいるかもしれないので、城の中でどう身を守ったら良いのか。』頭の中でいろいろな可能性を探ったが、解決には至らなかった。

「逃げよう。この城にはとても居られない。」17歳になっていた直堅は福井藩の城主への道にこだわりはなかった。誰にも知られず一人で生きるのも言いだろう。命を狙われ、友人を失うことになってしまった。父の光通に相談したかったが、こんなことで相談しても彼は気にするなと言うだけだろう。そう思うとすべてを投げ捨てて家を出るしかないという考えに至った。

 警備が厳重になった福井城で誰にも知られずに出奔することは困難を要した。部屋住みの身ながら城主の息子が家を出るというのはただ事ではなく、夜中に出ていくにしても城の門は夜中は堅く閉ざされている。何処から出て良いのかもわからない。具体的な方法が浮かばないのだ。

 結局彼が計画したのは鯖江の吉江藩に仕事上の予定を作り、鯖江に行くと言って出かけ、そのまま北陸道を西に歩き、敦賀から近江に入り、東海道から江戸にいくという計画だった。鯖江は父の光通の弟である昌親が分家した藩があった。親戚なのでお爺さんの忠昌の法事の品を届けるという用向きで出ることにした。計画が実行されるのは延宝元年、6月の事だった。


 お爺さんの忠昌は福井藩2代藩主の忠直公の弟で、高田藩に分家したが兄の乱心騒動で福井藩を継ぐことになり、福井に入った。北の庄という名前を福井という名前に変えたのはこの忠昌公である。福井藩と言うのはこの忠昌以降とする説もある。しかし正保2年(1645年)病死して藩主を10歳の光通に渡している。28年目だが30回忌として法事が行われた。その法事の引き出物を鯖江に届ける役目は誰にでも頼めることではなかった。お供の役人を2人連れて鯖江吉江藩に向かった直堅は江戸に出奔する意思を隠して歩いた。鯖江までは半日で着く距離だった。朝早くに出た一行はお昼前には吉江藩の城に付き、城主の昌親にお目通りして挨拶を済ませて、しばらく休憩していた。直堅はお付きの者たちの目を盗んで城を出るタイミングを計っていた。


「鯖江は忠直公が開墾した鳥羽野がある。この城の高台から鳥羽野の様子を見てまいる。しばらくお主たちはこの部屋で休んでおれ。」と命じて神明の高台にある鳥羽野を一望できる場所へ行った。家来たちは城の中であり大事ないと思い、部屋で休憩することにした。鳥羽野は忠直の父である結城秀康の時代から開墾がすすめられたが、日野川の湿地が広がり、大木が生い茂りどうしようもなかった土地を忠直の時代にようやく開墾に成功した土地で、大きな農地が広がる有望な土地に変貌した場所だった。鳥羽野を見学した直堅はそのまま城に戻らず、小さな裏門から城外に出て準備しておいた旅姿に着替えると一目散に南へと出発していった。

 残された家来の中に堀十兵衛がいた。もう一人の家来と共に部屋で直堅の帰りを待っていたが、いっこうに帰ってこないので捜索を始めたが、しばらくすると目撃者が現れた。

「旅姿に着替えたお侍さんが南の方へ歩いていきました。」という証言で堀十兵衛はもう一人の家来である安竹健三に

「福井に戻って殿にご報告せよ。わしは南に向かい直堅様を追いかける。」と残し、速足で南に向かった。

 必死に歩く堀十兵衛だったが、直堅も決死の覚悟の出奔である。福井藩に対する裏切り行為なので捕まったら命はない。必死に速足で逃げる直堅が鯖江から府中、さらに南条を経て木の芽峠に向かう直前の宿場町の今庄に差し掛かった時、峠の向こうに夕日が沈む時間になっていた。峠は深く、道は厳しく夜中に歩くことは困難が予想された。身ぐるみはがす山賊が出るかもしれない。仕方なく直堅は今庄の宿で一泊することにした。宿は何軒もあり、この宿場はそばが有名だった。身分を隠し安宿に入ると名物の今庄そばを頂いた。北國街道を行き来する多くの人が難所である木の芽峠を前にして英気を養ったり、逆に命からがら峠を越えた人たちがたどり着いた安ど感から一息ついて食べる蕎麦の味だった。夕餉と蕎麦を頂いているところに、必死の形相で直堅を探す堀十兵衛が現れた。

「直堅様、お探ししました。ご自分がなさっていることがどういうことなのかお分かりですか。出奔は大きな罪ですよ。福井藩を裏切り事です。すぐに帰って殿に弁解しましょう。さもなければやがて追手が参りましょう。」と説き伏せようとした。しかし直堅は

「出奔が大罪であることはよく知っている。しかし、お主は私が毒殺されようとしていたことは知っているか。国姫が江戸で御自害されたのは私が生きているからだと言う人たちもいる。妾の子が福井藩と言う大きな藩の世継ぎになるかもしれないというのは、それだけで一部の人間には大罪なのだ。いつ殺されるかもしれぬ故、私は江戸に出て自由に暮らしたいと思っている。そのことは殿にもご説明したいし、将軍様にお目通りできればお話ししたいと思う。お世継ぎを辞退させてほしいと。この気持ち、お主にわかるか。」と涙声で語った。毒殺事件については藩の中では一部の者しか知らされていなかったので、堀十兵衛は初耳だった。世継ぎの候補が命を狙われるという大事件が起きていたということは、まさに藩の中の家臣たちの分裂を意味していると直感した堀は

「直堅様、お気持ちはよくわかります。お命を狙われるということは耐えがたいことでしょう。しかし逃げずに戦ってください。直堅様が悪いのではないのですから。」と申し上げると直堅は

「お主はまだわかっておらぬ。私は命が惜しくて出奔するのではない。私が原因でさらに多くの命が奪われるような事態を招きたくないのだ。私がいなくなれば正当な後継者をみんなで選ぶであろう。」と興奮気味に話した。その声は宿の他の宿泊客たちにも聞こえてしまっていた。ただ、安宿だったので町人しか泊まっていなかったので、心配には及ばなかった。


 しばらく沈黙の時間が流れたが、堀十兵衛は説得を諦めた。17歳になった直堅の強い覚悟が堀の心を動かしたようだった。

「では直堅様、私は福井に帰ります。私にも家族がいますので、直堅様と一緒に江戸に行ったのでは私も出奔の罪をかぶり、家族は生きていけません。ここで直堅様にお会いできたことは福井に帰っても話しません。必死に探しましたが見つかりませんでしたと報告します。木も芽峠を越えて他国に行かれてしまえば捜索は及びません。お体に気を付けてお元気で江戸に到着できることをお祈りいたします。」と最後の挨拶をして堀十兵衛は夜道を帰っていった。直堅は一泊する予定をやめてその日の夕刻、宿を発って木の芽峠越えを断行した。


江戸までの道のりは険しいものだった。途中関所があって怪しいものは江戸に近寄れなかったので手形は重要だった。福井にいるときに事前に準備はしておいたが、何回も怪しまれた。一番大変だったのはお金だ。部屋住みの身分だったのであまり裕福ではなかった。現金の持ち合わせも少なく、ましてや周りをだまして出てきているので、現金の持ち出しもままならなかった。大藩の大名の息子でありながら、切り詰めて安宿を探しながらの節約旅行だった。


約30日の道中を20日で到着した。江戸に着くと直堅は母の実家の片桐氏が仕える越前大野藩の松平直良を頼り、江戸大野藩屋敷に入った。大野藩は福井藩の支藩であり、強い親戚関係にあったが、直良は直堅の不遇な運命に心を痛めていたのだ。江戸での直堅の生活は自由気ままではあったが、福井藩には見つからないように目立つ行動は控えていた。福井藩主の息子(長庶子)としての立場を捨てて、はじめて自由を満喫できた時期だったのかもしれない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ