毒殺未遂
国姫の葬儀から1週間が過ぎた。49日の喪が明けるまでは光通も江戸屋敷に残っている。光通は毎日仏壇に向かって手を合わせ念仏を唱え、国姫の成仏を願った。光通は国姫を嫌っていたわけではなかった。できれば国姫との間にこれからでも世継ぎを作りたいと考えていた。しかし妾との間に子を作ってしまい、国姫の理解を得られなかったことで夫婦間がぎくしゃくして信頼関係を崩してしまったことで、国姫の自殺を誘発してしまったのだ。国姫を自殺に追い込んだのは自分だったのだという思いに取りつかれ、国姫に対する申し訳なさと自分に対する嫌悪感でつぶされそうになっていた。
翌朝も早くから仏壇に手を合わせ、何回も般若心経を唱えていると、いつの間にか太陽が高く昇っていた。光通の身の回りのお世話をする女官たちが遅くなったが朝餉の準備は出来ていると述べると、光通は我に返り朝餉の場所に移ろうとした。しかしその時、家来が
「天崇院勝姫様がお出でです。客間にお通ししてあります。」と告げた。朝餉を食べようと思っていた光通は勝姫を待たせるわけにもいかず、朝餉を後にして客間へ向かった。客間は城主が大切なお客と謁見する部屋で、襖絵は威圧的な虎の絵ではなく梅と桜の花が客人をもてなす。福井藩の江戸屋敷は御三家に準ずるお家柄なので、家康の時代から外堀の内側の江戸城に近い場所に陣取っていた。勝姫は江戸城の中で生まれ、この福井藩江戸屋敷に嫁いだわけだ。しかし実際には江戸城内に部屋を持ち、ほとんどを江戸城内で過ごしている。客間に入った光通は
「おばあ様、良くお出でくださいました。本日はどのようなご用件でしょうか。」と述べながら上座に用意された座布団に座ると
「光通殿、国姫の葬儀から一週間経ちましたが、直堅への御沙汰はどのようにお考えですか。国姫との間に世継ぎを作ることが出来なくなったからといって、このまま直堅を次期藩主にするおつもりではないでしょうね。国姫の御自害はあの直堅が原因なのですよ。幕府に説明がつくような形で世子を定めないと、福井藩は改易も考えられます。秀康公からの由緒ある福井藩をお取りつぶしや国替えなどにならないように、直堅をしかるべきご処置をして、適切な家柄から御養子を迎えられ、幕府にご説明なさいませ。」と迫った。光通は強烈な勢いで迫ってくる勝姫の圧力にたじたじになりながらも
「直堅に対するしかるべき処置と言いましても、あの者もまだ15でございます。どうしろと言うのでございますか。」と言葉を選びながら静かに反論した。勝姫は
「少なくても福井藩から追い出さなくては藩の中が収まりません。そうでなければ幕府を納得させることは出来ないと思います。殿がまだ手を下せず、そのようなお考えならば、わたくしがお力をお貸しいたしましょうか。」と自らの力を誇示してきた。64歳の老婆になっていたが、幕府内では大きな力を持っていた。さすがは秀忠の娘である。それにしてもおばあさまはどうしようと思っているのか。何か難癖をつけて福井藩から追い出す策をめぐらすと言うのか。それとも刺客を発して、直堅を忙殺しようというのか。光通は考えを巡らせば巡らすほど目の前が真っ暗になっていった。妾の子と言っても直堅は我が子に間違いはないのである。
直堅の母のお三の方は福井城に勤めていた女官で、お三の父は福井藩の分藩である大野藩の片桐氏である。福井城では藩主の身の回りの世話をしていた。その日、光通が風呂に入るため湯殿へ白衣を1枚着たままで入って行った。するとそこに湯殿での世話をする女官が控えていた。その女がお三だった。彼女も白衣を1枚着ているだけの様相だった。風呂桶にお湯が貯められ、そのお湯を桶に取り分けて城主の背中や胸元を流していた。お三の足元は白衣からのぞいた白い足が膝まであらわになっていた。帯はきちんと結んでいたが、一生懸命働くにつれ少しづつ緩み、胸元がほのかに開いていた。江戸に妻子を残し、半年以上たっていて、まだ若かったので側室も囲っていなかった光通には刺激が強く我慢が出来なかった。おもわず湯殿でお三にお手を付けてしまったのである。
国姫の喪が明けて光通は福井に戻って来た。福井でも葬儀が行われ、福井藩の歴代藩主の墓が置かれる菩提寺の大安寺に納骨された。墓は光通が死んでから一緒に作ることになり、しばらくは骨は寺預かりとなっていた。
福井での葬儀から一連の行事が終わり、ようやく一息ついたころ、光通は直堅を藩主の部屋に呼んだ。直堅は普段は下級の武士として他の者たちと一緒に藩の健全財政のために勤務についていた。
藩主の部屋に来た直堅は緊張した面持ちで大きな部屋の外陣中央に座って藩主の登場を待った。内陣の左側の襖が開けられると藩主が内陣に現れ、中央の一段高い段の上の座布団に着座した。直堅は襖が開いた瞬間から低頭の姿勢で額を畳に擦り付けていたので、藩主の足音しか聞こえなかったが、光通の声がして
「面を上げよ。」というご指示で初めて頭を上げて、光通の姿を見た。今までなかなか直接お話しする機会はなかった。城に上がったのが8歳の時だったが、お世話をしてくれる女官たちに囲まれ、元服してからも城主の息子として扱われたが、正式には世継ぎと認められていなかったので、光通が会いに来てくれることもなかった。だから、遠くから眺めたことはあったが、このような部屋で対面して姿を見たのは元服の式典以外では初めてだったのだ。
光通が沈黙を破って言葉を発した。
「直堅、元気だったか。困ったことはないか。」と声をかけると
「有難きお言葉、感謝申し上げます。城に上がらせていただいてから7年、毎日十分な食事を頂き元気に過ごさせていただいております。元服の式後には皆様と共にお仕事を頂き、少しでも殿のお役に立ちたいとお仕事に励んでおります。仕事場では周りの皆様が心優しくご指導していただいておりますので、困っていることはございません。」と答えた。光通は直堅にもっと近くに寄るように手招きをして
「国姫が死んで正室から世継ぎを産むということが出来なくなった。今後私は側室を持てと圧力を受けるだろう。側室を設けて世継ぎを産ませることになるかもしれない。しかしお前も私の息子だ。もしお前が世継ぎに指名されてもその覚悟はあるか。」と優しく問いかけた。部屋には2人以外誰もいなかったが、襖の裏では家臣や女官たちが聞き耳を立てているだろう。聞かれてしまったらその日のうちに噂が町中に広がる事だろう。出来るだけ小さな声で話の中身が外に漏れないように気を配った。直堅も光通にだけ聞こえるような小さな声で
「私のような低い身分の生まれの者が福井藩などと言う天下の大藩の世継ぎになるなどありえないことでございます。ただ殿の御命令であれば殿のご意思に従います。」と述べ再び低頭の姿勢をとり畳に額をこすりつけていた。
しかし家臣たちは城主と長庶子の会談を聞き逃すはずがなかった。襖や障子、さらには畳の下にまで忍び込んだものがいたのかもしれない。城主の光通が長庶子の直堅を世継ぎにする可能性が高まったという噂は瞬く間に家臣団に広がった。家臣たちにとって誰が世継ぎになるかは大問題なのである。情報が大切なのはこの当時から変わらないのである。しかもこの噂は江戸の天崇院勝姫や高田藩の光長の耳にも素早く入っていた。
67万石の大藩は家臣団も一つにまとまることは難しいが、この後継者争いは3派閥の分裂の様相を呈していた。光通に正統な後継者がいなかったので光通の兄弟ということで、長子でありながら母の身分が低いということで分家していた松岡藩の昌勝派閥、光道の弟にあたる三男で分家していた鯖江吉江藩の昌親派閥、そして直堅派閥である。もともと福井藩の家臣団は創設者の秀康が結城家時代から従えていた関東勢と関ケ原の戦いの頃に召し抱えた寄せ集めの武士集団、そして福井藩67万石を新設するときに幕府から派遣された武士団、それぞれに家老がいて、大きな派閥になっていたが、それぞれが次の藩主候補を擁立する形になっていたのである。
その中で天崇院勝姫と自殺した国姫の父である高田藩の光長にとっては絶対に直堅だけは次期藩主にするわけにはいかなかった。高田藩から嫁入りした国姫を苦しめたのが直堅の存在だったからである。
国姫が自殺した翌年。寛文12年(1672年)江戸城の勝姫の部屋に一人の武士が呼びつけられた。もともとは福井藩の家臣だったが光長が高田藩に国替えになった時に、国姫や光長に従って高田藩に仕えるようになった坂下健剛である。坂下家は福井藩時代から隠密の家系で忍びの術を大切にしてきた。関ケ原の乱から大坂の陣まではその働きが重宝がられたが、太平の世になると忍びの術はあまり必要なくなって、普通の家臣として江戸の高田藩江戸屋敷で勤めていた。今日は勝姫の呼び出しで江戸城への登城となった。緊張した雰囲気で城内を進み、高田様と呼ばれていた勝姫の部屋の前に到着すると前室で控えるように言われた。前室でしばらく待っていると中に入るように言われたので襖を開けるとさすがに秀忠の娘にあてがわれた部屋である。豪華絢爛な狩野派の襖絵に囲まれた部屋で、一段高い上段には勝姫が座って待っていた。
「久しぶりですね、坂下。元気でしたか。今日はそなたに頼みがあって来てもらった。福井藩で妙な噂が出回っていることは知っていますか。藩主の光通殿は国姫が死んで何を血迷ったか妾の子を世継ぎにしようと企んでいるようです。直堅という妾の子を城にあげているのですが、私は絶対に許しません。幕府を動かしてでも高貴な福井藩の血筋を守らなければなりません。そこでそなたに頼みたいのですが、秘密のうちに福井の城に入り、直堅を毒殺してもらいたい。出来るか。」と言われると坂下健剛は
「福井城に忍び込むことはさほど難しいことではございません。太平の世になり、どの藩も安全管理に対する意識が下がり、警戒は弱くなっています。ただし私共の忍びの術も使う機会を失われ、錆びついてきているのも事実です。何とか忍び込んで、姫のご意向に沿いたいと思います。それにしてもお命を頂戴するというのはただ事ではないようですが、姫はなぜそこまで執着されるのですか。」と聞いた。すると勝姫は
「そなたはそのようなことを考えなくてもよい。ただ私の夫である松平忠直は結城秀康様が幕府の将軍職を継いでいたら、その長子であった忠直様が3代将軍になられていたはずなのだ。その忠直様が失意のうちに乱心の汚名を着せられ、国替えで大分に行かされてしまった。せめて忠直様の血筋を福井藩に残そうと嫁に出した国姫が世継ぎを残さぬままに自殺してしまったのだ。妾の子など由緒ある福井藩の世継ぎで出来るものか。私の目が黒いうちは絶対に許さない。」とその怒りを表情に表し、目をぎらつかせて語った。
翌日には坂下健剛は旅支度を整え、福井へ向けて旅立った。福井には親戚筋の者もたくさんいるので宿を心配しる必要もなかった。10日後には足羽山のふもとの福井藩家臣の岡林信康の屋敷に逗留していた。岡林家は坂下健剛の母の実家である。勝姫の密命については隠したまま、福井の城に用事があるとして江戸からやってきたが、岡林家の人たちは何の疑いも持たずに坂下健剛を迎え入れてくれた。
翌日には福井城に高田藩江戸屋敷からの連絡事項として登城した。表向きの仕事内容は国姫の葬儀の時に高田藩から費用の一部を分担したが、再計算してみると間違いがあったので一部を返してほしいという中身だった。福井藩の江戸屋敷に申し出てもすでに終わったことだとして取り合ってもらえなかったので、藩主の光通がいる福井城まで直訴しに来たという形になっていた。
福井城は結城秀康の頃に、江戸幕府の命令で各地の大名が分担して普請した巨大な城だったので、坂下が下見のために見て回っても回り切れなかった。堀は何重にも巡らされ、巨大な天守閣の周りにはいくつもの建物があって、江戸城を少し小さくしたような様相だった。調査の目当ては光通の妾の子である直堅の部屋とその食事を準備する台所の様子を探る事だった。巨大な城で出入りの人の数も多いので、ほとんど誰からも疑われることもなく、歩き回ることに成功していた。ただし大奥と藩主の住むエリアにはさすがに入れなかった。
おおよその福井城の作りを頭に入れることに成功して、いよいよ夜中の忍び込みに入った。深夜岡林の家を出て、福井城に忍び込み、直堅の部屋近くに床下に隠れた。チャンスを見計らって、直堅が食べる食事にトリカブトの毒を混ぜるだけになっていた。
直堅はいつものように朝早くに起きて、庭先で武芸の稽古に励んだ。稽古相手はいつものように幼馴染の野村作座だ。作座は直堅がまだ権蔵として永見家で育てられていたころからいっしょに生活していた永見家の家来の息子だ。権蔵がお城に上がるときにご学友としていっしょに城に上がり、身の回りの世話もしていた。武芸は直堅よりも作座の方が得意で、体も筋骨隆々で直堅の護衛も兼ねていた。朝稽古を終え、部屋に戻ると台所から
「直堅様、朝餉の用意が出来ております。台所へお越しください。」という女官の声がした。2人は汗を手ぬぐいで拭きながら台所へ歩いていった。
「直堅様、今日の勝負は私が勝ちました。約束通りおかずを一つ頂きますぞ。」と笑いながら作座が直堅に話しかけた。
「わかった。約束だからのう。今日のおかずは何だろうな。一つ取られるのは残念だが、おぬしは食べる量がハンパないからな。存分に食べよ。」と直堅も笑顔で笑っている。2人は気の知れた幼馴染で、大人になるまでずっと一緒にいたいと思いあった仲間だった。台所に着くと板の間に箱御膳が用意され、ご飯とみそ汁、アジの干物と香の物が添えられていた。直堅がお世継ぎに決まれば台所ではなく、直堅の部屋で藩主の後継者として特別扱いで品数ももっと増やしているだろうし毒見もあるだろうが、今はまだ長庶子の部屋住みのみなので、台所でそのまま食べる身分だった。
「直堅様、今日はアジの干物でございます。でもこの干物をもらってしまうと直堅様が食べるものがみそ汁くらいになってしまいます。今日は香の物だけで結構です。沢庵と白菜の塩漬けを頂きます。」と言って座るや否や香の物の皿を手にとって作座の箱御膳に移し乗せた。
「本当に香の物で良いのか。欲がないな。アジをとられなくてよかった。」と言ってまずみそ汁を一口飲み、ご飯を食べた。続いてアジの干物を箸でむしり取って口に入れた。
「うまい。このアジの干物はなかなかのものだ。うまみが凝縮している。」と言ってご飯をさらにかき込むとすぐにご飯をお代わりした。作座もむさぼるようにみそ汁とごはんとアジの干物を食べ、ご飯をお代わりすると香の物をご飯に乗せ、お茶をご飯にかけてお茶漬けで2杯目を掻き込んだ。
「作座、がっつかなくてもご飯は逃げないぞ。落ち着いて食べろ。」と直堅が言うと
「私はこの食べ方が好きなんです。うまい香の物を乗せたお茶漬けは絶品です。」と言うとさらにお茶漬けを掻き込んだ。昨晩ご飯を食べてからずいぶん時間がたっていることと、朝稽古をしてからの食事だったので2人は朝餉を充分に楽しんで台所を後にした。
部屋に戻り、2人は稽古着を脱いで勤務できる服装に着替え城表に出る準備をしていた。すると作座が
「直堅様、前を向いて立ってください。袴のひもを結びます。」と言って直堅を立たせ袴をはかせるために腰ひもを前から後ろに回し、腹の所できちんと結ぼうとした。すると
「あれ、少しおかしい。手がしびれてうまく結べません。」と言って手のひらを見つめていた。さらに
「直堅様、わたしは・・・・・・・」口元もしびれてきたようでうまく話せなくなってきていた。見る見るうちにおかしな症状が出て来てついには嘔吐して先ほど食べたお茶漬けを全部吐いてその場に倒れ込んでしまった。
「作座、どうした。しっかりしろ。」と大きな声で直堅が叫ぶと異常を感じて、近くにいた家臣たちが寄ってきた。
「直堅様、いかがしましたか。」と声をかけてきたが作座の様子を見て
「直堅様、すぐに作座を台所へ運び胃を洗いましょう。これは毒です。」と言った。集まった男たちで作座を抱え上げ、台所へ運ぶと大量の水を飲ませ、口に指を突っ込んで吐き出させ、胃の中の毒物を除去しようと試みた。作座の様子は変わらず、気を失ってしびれからか手や足をびくつかせている。そのうちにそのふるえもおさまり、動かなくなってしまった。誰が呼んだか藩医が現れて、作座の手を握り脈を診て、瞼を開けて目の中の様子を確認すると
「すでに死んでおります。この死にかたはトリカブトの毒かもしれません。直堅様は一緒に朝餉を食べたんですか。」と言われたので
「同じものを食べた。私は何ともないぞ。」と言ったが、作座が香の物を2人分食べたことを思い出し、
「朝稽古で勝負して、私が負けたので作座におかずをひとつ渡す約束をしていて、それで作座は香の物を選んだのです。香の物に何か入っていたのでしょうか。」と言うと藩医は
「香の物はまだ残っているか。」と女官たちに言った。女官は漬物桶から沢庵と白菜の塩漬けを出してきて、
「私たちはいつものようにこの漬物を出しただけです。」と涙混じりに弁解した。藩医はその漬物を見て香りを確かめると、
「念のために確かめてみよう。」と言って台所で飼っていた猫を連れて来て、漬物を舐めさせてみた。しばらく沈黙が続いたが、半時ほど経っても猫に変化はなかった。
「漬物桶に異常はないということか。では誰が朝餉の箱御膳を準備したのだ。」と聞くと女中頭のお仙が
「私でございます。漬物を切ってお皿に乗せたものはたくさん用意しましたが、お二人の者はその中から2つ取り出して箱御膳に乗せて、他のおかずやごはんと一緒にして準備出来たら、そこに置いてお二人を迎えに行ったのです。」と言って2人が朝餉を食べた板の間のあたりを指さした。藩医は
「準備してからどれくらいそこに置きっぱなしだったのだ。」と聞いた。
「お二人はなかなか来てくれなかったのです。部屋で汗を拭いていてお話もしていました。」とおびえながら答えた。
「ではその間にこの部屋には誰も来なかったのか。」と問うと他の女中が
「そう言えばよく知らない男の人が入って来ました。」と証言した。
結局、犯人は分からなかった。台所に不審な人物が入って来たことは間違いなさそうだったが、作座の毒の症状が出るころにはどこへ行ったか分からなくなっていた。作座は死んでしまったが、なぜ殺されたのかは謎に包まれていた。しかし奉行所の取り調べでこの殺人が作座を狙ったものではなく、直堅を狙ったものであることが藩主の光通に報告された。事態は福井藩の世継ぎ問題に絡む大事件へと発展していった。
当事者である直堅のふさぎ込みようは大変だった。幼馴染でほぼ生活を共にしていた野村作座が自分の身代わりのような形で殺され、自分は生き残ってしまった。作座にも親兄弟がいて、昔から仲良くしていた。あの時、香の物ではなくアジの干物を渡していれば、彼は死なず自分が死んでいただろう。簡単に考えていた世継ぎ問題は自分が命を狙われるほど家来たちには大きな問題だったということだ。
藩主の光通もこの問題を大きな問題ととらえ、直堅の警備を強化することにした。庶子の部屋持ちなので簡単に考えていたが、周りは世継ぎ候補と捉えているのである。