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国姫の死

 直堅の元服の式が行われたのが寛文10年(1670)の1月だったが、それから3月が過ぎ季節は春になった。4月は参勤の季節である。徳川家光が改訂した武家諸法度で「大名小名在江戸交替相定也、毎歳夏四月中可参勤」と示され参勤交代が制度化された。それ以来春は江戸から領地に帰る大名と領地から江戸に上がる大名とが街道を行き来した。

 光通は江戸に出向くと1年ぶりの江戸屋敷での国姫との対面となった。この頃は国姫も光通も34歳になっている。まだ子供を諦める年齢ではない。3か月前に庶子の直堅(権蔵)の元服の式が行われ、直堅の存在が内外に公式に伝えられた。国姫は心中穏やかではなかったが、勝姫に後押しされて世継ぎを産む妊活に励もうとしていた。しかしこの夫婦の間に一度出来た溝は簡単には埋まっていなかった。初めて権蔵の存在を知ったのは権蔵が8歳で初めて城にのぼった日の事だった。その知らせを受けて江戸屋敷に勝姫が来て、騒ぎ立てたから怒っているのは勝姫だけだったように思われがちだったが、国姫ももやもやした胸のうちはあれ以来消えていなかった。

 江戸屋敷に光通が来た翌日、光通が国姫の寝所を訪ねた。

「国姫、今宵はここでくつろぐと致す。少しばかり酒を用意してくれ。」と言うと女官たちが慌てふためいて酒と魚を用意し、国姫の衣装も床入れ様に着替えさせた。酒の準備が整うと光通が

「一杯注いでくれるかな。」と国姫に向かって盃を差し出した。国姫は黙って酒を注ぐと

「直堅の母はどんなお方なのですか。」と聞きにくいことをストレートに聞いた。

光通は注がれた酒をこぼしそうになったが

「そのようなことは気にするな。そなたには申し訳ないが城中の女中に手を付けただけのことだ。私の妻は国姫だけじゃ。」と耳元でつぶやいて彼女の手を引こうとした。国姫はその手を払い、毅然とした態度で

「では権蔵とやらが生まれてから8年もの間、どうして私には内緒だったのですか。」と問い詰めた。光通にとって答えなどない。ただ面倒くさいことになりそうだから黙っていただけのことだ。ただ8歳になり国姫からはなかなか世継ぎが生まれないから、城にあげただけのことだ。光通にさほどの大義はなかったのだ。

 沈黙の時間が流れる中、国姫は涙を流しながら

「殿、ご自分の寝所へお戻りください。こんな気持ちで抱かれたくありません。今晩はお願いですからお引き取りください。」と懇願してきた。光通は勝姫に諭されて勝姫との間に世継ぎをもうけなくてはいけないと考え子作りしようと思ったのだが、国姫からは拒絶され、所在なさげに自分の寝所に戻っていった。


 こんな事があり、夫婦の間の溝はさらに深くなっていき、床を共にすることがほぼなくなってしまった。その間も定期的に天崇院勝姫は越前福井藩江戸屋敷を訪れ、国姫にも光通にも世継ぎの大切さを説教していった。勝姫は

「国姫、権蔵は名を直堅と改めました。光通様が元服する権蔵に名を与えたのですが、ご自分の名の一字をお与えすることをなさらなかったのです。これは世継ぎとして元服するのではないことを世に示されたのです。国姫は安心して子作りに励みなさい。世継ぎの男の子を産めばそれだけで福井藩は安泰なのです。幕府からも注視されているし、家臣たちも正当な世継ぎの誕生を待っています。頑張るのです。」と語りかけていた。国姫は権蔵のことなどどうでもよいと考えるようになっていて、光通本人を信じられなくなっていることが夫婦の間での大問題になっていたのだ。

「おばあ様、私はもう2人の娘を産みました。残念ながら市は幼くして病で死に別れましたが、布与は元気に育っています。布与といる時が一番幸せです。殿は私に隠し事をしていましたので殿を心の底からはお慕いできなくなってしまいました。」と言うと

「そんなことは福井藩に何か関係があるのか。好きとか嫌いとかなんてどうでもよいのだ。とにかく殿の子を宿して産むことが姫の役割なのです。子を産まないならば姫がこの屋敷に住んでいる意味はありません。つべこべ考えず素直に殿の思いを受け止めなさい。」と強硬に言って来た。国姫は正室としての存在意義に触れる勝姫の発言に激しく動揺した。


 翌春、江戸屋敷にも桜が咲き、美しい季節がやって来た。4月を前に光通は再び福井に帰っていった。また江戸にやってくるのは1年後だ。国姫は寂しい気持ちと安堵した気持ちが混じった複雑な感情を感じていた。この1年、江戸屋敷に光通はいたが夫婦が床を共にしたのは1度もなかった。子などできるはずがなかった。光通が江戸を後にしたのが3月20日。福井には4月初めには着くだろう。江戸屋敷の庭で国姫は布与と2人、桜を眺めながらこれからの福井藩と2人の生活について考えていた。

『このまま世継ぎを産めずに年老いていったら、福井藩は直堅が継ぐことになるのだろうか。そのことを天崇院様や幕府はお許しになるだろうか。許されなかったら福井藩は改易となり、他の大名が越前に入ることになるのだろうか。』まだまだ先のことだと考えていた不安な未来が少しずつ現実の物になって来た。国姫も今年は35歳になったのだ。


 光通が福井に向けて江戸を出てから1週間たとうとしていた。国姫は部屋から出てこようとはしなかった。自室にこもり、身近な世話をする女官だけを近くに寄せ、食事もわずかしか食べていなかった。

「明日、私は何をしているでしょうか。来年の私はどんな生活をしているのでしょうか。5年後の私は生きているのでしょうか。10年後福井藩はどうなっているんだろう。」

近くにいた女官たちは姫が気になるような独り言をつぶやいているので心配になった。

「国姫様、大丈夫でございますか。お気を確かにお持ちください。」と声をかけたが、庭の桜の一点を見つめるばかりで何の返答もなかった。

 夜になり、女官たちが姫のもとを去りがたく、隣の部屋で姫の様子を見守ろうと待機していたのだが、丑三つ時を過ぎた頃、姫の部屋でガタッと音がした。女官がその音に違和感を感じて中をのぞくと、白い布団の中の国姫が動かずに寝ていた。暗い部屋だったので中の様子ははっきりとはわからなかったが、朝になって明るくなってくるとその様子がはっきりしてきた。布団の中の国姫は守り刀として持っていた短刀を自らの首筋にあて、自殺を計ったようだった。布団の中は血の海になっていて、女官たちが姫の様子に気が付いた時には既に息を引き取っていた。

江戸屋敷は戦場のような騒ぎになり、江戸家老を中心に対応に追われた。福井に帰られた殿への知らせは早飛脚で伝えられたが、殿に連絡がついたのは3日以上たってからだった。殿よりも早く江戸屋敷にやって来たのは高田藩の勝姫と国姫の父親にあたる松平光長だった。光長は福井藩の2代藩主だった忠直公の長男である。本来ならば福井藩の後継者になっていたはずなのだが、忠直公の御乱行により国替えになり、25万石の高田藩主についていた。

 光長も勝姫も普段から実家のように福井藩の出来事に首を突っ込んで意見してきたので、福井藩からは煙たがられていた。それが今回の国姫の自殺という大事件に、いち早く飛んできたのである。

 勝姫は国姫の亡骸に手を合わせて念仏を唱えた後、この惨事の原因について

「何ということだ。国姫はお世継ぎについて悩んでおられた。原因は福井に光通の妾の子である直堅だ。光通殿は直堅を城から追い出すべきです。」と声高に発した。すると一緒に来た光長も

「妾の子を城に入れるから我が娘の国姫は心を痛め、このような行為に走ったのだ。光通殿に申し上げて直堅を追い出さなくては、国姫がうかばれない。」と嘆いた。江戸屋敷では彼らの主張が全体の雰囲気を作り上げ、江戸家老も含めて国姫の自殺の原因を直堅の存在であると結論付けてしまった。


7日後、福井藩主の光通が途中の信州からとんぼ返りで江戸に戻って来た。藩主の到着を待って国姫の葬儀が江戸屋敷で行われた。江戸幕府とのつながりが深い福井藩の正室の葬儀ということで、幕府からも将軍が直々に参列し全国の大名や貴族などおびただしい数の参列者が広大な江戸屋敷に溢れた。

 白装束の光通は悲しみに暮れていた。直堅の存在が夫婦仲をこじらせていたとしても、国姫のことを思う光通の気持ちは変わってはいなかった。国姫が死んでしまった今となっては、その気持ちが強かった時の事しか思い出すことが出来なくなっていたのだ。僧侶の読経が流れる中、参列者の焼香が続いたが、高田藩の勝姫や光長の焼香順は問題となっていた。高田藩は元来福井藩を継いだ忠直の直系で、勝姫は2代将軍秀忠の娘である。

 喪主の光通から焼香は始まったが、幕府の将軍家綱から老中職が続き、高田藩の光長はご親戚として比較的早めに呼ばれた。問題は勝姫である。福井藩でも高田藩でも権勢をふるい、家康の姪として全国に名をとどろかせてきた。しかし福井藩は特別に早い順番で呼ぶこともなく、止め香で最後に呼んだわけでもなかった。途中の平凡な位置で呼ばれた勝姫は怒りを隠しながら冷静を装っていたが震えた手で焼香を終えた。67万石の福井藩からすれば高田藩は親戚ではあるが25万石の分家の小さな藩である。普段から何かと本家筋の風を吹かせて横やりを入れてきた高田藩関係には煮え湯を飲まされてきた。意地でも特別扱いはしたくなかったのかもしれない。この時、高田様と呼ばれていた勝姫が強い考えを持ったことを周りの人たちは感じ取ることが出来なかった。


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