これまで一年間ずっと君と絆を育んできたけど、僕はもう一緒に明日を歩めそうにない。
穏やかな日差しが、地表に降り注いでいる。今日という日を迎えられて、本当に良かった。
琉花は、もうすぐ悪戯顔で来るだろう。あの子はいつもそうだ。内心投げやりになりたくてもぐっとこらえて、僕の前では笑顔を絶やさない。
「……おーい! 黒―!」
飼い猫を呼ぶ口調で原っぱを下ってきたのは、僕が待ち望んでいた彼女だった。黒というのは服や帽子の色ではなく、僕の本名だ。
琉花は高校生活にもすっかり慣れ……たとは言い難く、クラスの治安が原因でよくずる休みをしている。それを指摘する資格は、僕に無い。
彼女がよく漏らす一言がある。
『……黒は、強いんだね。私なんか、ずっと弱音を吐いてばかりで……』
琉花がそう肩を落とすとき、僕はこう切り返す。
『……弱音を正しく吐ける琉花は、弱くなんかない』
傷の舐めあいと捉われてもいい。僕は、琉花の心を泥沼に沈めたくないのだから。
彼女がここに来る目的は、さまざま。お悩み相談、ちょっとした愚痴漏らしが大半だ。たまにファストフードに誘ってくれることもある。恥ずかしながら、代金は琉花持ちだ。
たまには僕が奢らせて欲しいと願い出たこともあったけど、小遣いに余裕があるからと断られた。二人で食べたチーズ牛丼が、今でも舌にこびりついて離れない。
……あの格別な味を嗜むことは、もう二度と叶わないんだな……。
後ろめたさを晴らして微笑んでいる琉花をぼんやりと眺めていると、これから迫りくる非情な運命も溶けていく。このまま彼女との日常が永久に続くなら、喜んで試練を受けよう。
「琉花、今日も平日だぞー?」
「しょうがない、いつもの先生だったから。難癖付けられる前に、学校出てきちゃったんだ」
罪悪感の重しを言葉に括りつけず、琉花は気軽にずる休みの報告をしてきた。一応断っておくが、僕は心理カウンセラーではない。たまたま知り合った一般人……になるのだろう、琉花からすれば。
高校は義務教育でない。学校の授業に毎時間出席する義務もない。琉花は罪を犯しているのではなく、イジメられる授業を逃れただけの話だ。
ずる休みを叱責して矯正させる責務を、僕は負っていない。最終的に選択するのは、琉花なのだから。
「……でも、このままだと高校卒業できないかも……。黒、教えてくれない?」
「僕は、勉強大嫌いだから……。教えられないなぁ……」
『また今度』と出かけた言葉を、あと一歩のところで飲み込んだ。無駄な期待を彼女に持たせてはいけない。
僕は、勉強どころか義務教育も受けたことが無い。一般教養と呼ばれる基礎知識は頭に詰め込んだが、テストの点数は琉花に大差で負けるだろう。
「……僕が琉花と出会えたのも、一種の奇跡だよね……」
「なあに、黒? そんなにしんみりしちゃって……」
その時が来るまで琉花に死の気配を悟らせてはならないと分かってはいても、初対面が走馬灯で流れてくる。
琉花に出会った……と言うよりも見かけたと表現した方が正しいだろうか。ちょうど一年前の春である。
河川敷でのうのうと歩いていた僕は、水しぶきが川から上がっていることに気が付いた。知識のないすっからかんの頭でも、ここ一帯に噴水が無いことは把握済み。異常事態が起こっていた。
時折水面上に出る、華奢な手。苦悶の表情を浮かべて空気を吸おうとする少女。彼女は、琉花であった。
生まれてから、僕は人に興味を抱いてこなかった。野外で生まれ、野外で育ち、野外に生きてきた。すばしっこく逃げ回るネズミやトカゲを捕まえて食べる生活。人間が入り込む余地はなかった。
そんな河原を主戦場にしていた僕を見て、最初に興味を持ってくれたのが琉花だった。時折遊び相手になってくれた彼女を、僕も毎日のように探すようになっていたのだ。
彼女は、もだえながら沈んでいきそうだった。異物の侵入に抵抗していた手足も、徐々にその勢いを弱めていく。
あと一分もすれば、川底へと静かに落ちていくに違いない。
(……何でも良いから、早く琉花を助けたい!)
僕は、天に祈った。短い前脚をくっつけ、そして一目散に彼女目掛けて駆け出した。
成人ほやほやの新参者が水に飛び込んだところで、無駄死にする。そう理解していても、川へ身を投げ出さない選択肢は存在しなかった。
入水して、下半身が冷たくなった。バタ足を敢行すると、頭が辛うじて水から顔を出すようになった。
僕の両腕には、意識が潰える寸前の少女。
奇跡は、ここに誕生したのだ。
その後のことは、無我夢中であまり覚えていない。少女を、琉花を救えたことに、一抹の驚きとそれを大きく上回る安堵に満たされた。
「……でも、黒がいなかったら、私はここにいなかったから……」
「……そうだね。……それでも、琉花はここにいる」
琉花が溺れかけているのを助けてから、僕と彼女の交流がスタートした。
入学したてだった琉花は、学期が開始して間もなく学校を抜け出してくるようになった。厳しく諫めようとも考えたが、それで琉花の生活が好転するとも思えなかったのである。
……もしかしたら、僕が初めて作った『友人』を手放したくなかっただけかもしれない。
過去がどうであれ、琉花は大地に根を張って生きている。
潔く腹を斬るのが日本の流儀だと言われているが、泥臭く這いずっていく生き方も賞賛に値するもの。邪道と横槍を入れられようと、琉花の人生は琉花のものだ。
「……最近、同じ悩み事ばっかりな気がするけど……、人間関係が上手くいかないのって、誰が悪いのかな……」
彼女が高校でついていけないのは、ハイレベルな授業でもネットを活用することでも無い。女子の煮えたぎった人間関係についてである。
僕は、自分以外と険悪な雰囲気に陥った経験が不足している。的確なアドバイスはしてやれないが、人生観なら言葉にできなくもない。
琉花に応援してやれることは、道がこれから先も続いていくことだ。
行き止まりの看板が立てられてしまった僕と違って、彼女は輝かしい明日がある。たかが高校三年間で精神を壊されては、数十年がゴミ同然になってしまう。
「琉花、悲しい時はスマイルだよ。……ファストフードの店員さんみたいな作り笑顔はいらないけど」
脳は、表情を読み取る。涙が零れていれば感情的だと判断するし、口角が緩んでいれば脳もその通りになるのだ。
僕の表情筋は、脳の指示通りに動いてくれない。仮初めの体で動かしにくい上、無理がたたって体力も残りわずかだ。
琉花は、地に落ちていた目線を上げた。正面を向くだけで、彼女の美しさは数倍もアップする。
「……今日は、いつもと答えが違うね? ロボットと勘違いするところだったよ?」
「それは……、琉花が笑ってる姿を見たかったから」
「もうー、そういう事ならズバッと斬り込んでくれればいいのに……」
僕にだって、直接伝えづらい事がある。まさか、冥土の土産に持っていきたいとは口が裂けても言えない。
初めての親友は、熟れたリンゴのように赤みが増していく。一齧りすると、甘さが口いっぱいに広がりそうだ。
河原の側に、背の高い学生らしき男と妹のような女。通りかかった人が兄妹と認識してくれているようなら、僕は誇らしい。
通行量の多い車に比べて、歩行者の姿は見当たらない。河川敷まで降りてくるマニアがいないのは通常運転だとしても、人っ子一人いないのは珍しい。これも、天が僕に授けてくれた死に場所ということか。
「……私にも、黒みたいなお兄ちゃんがいてほしい……。学校で上手くいかなかった時、優しい言葉で励ましてくれる黒がほしい……」
「途中から本音が漏れ出てる。……それに、勉強下手で頼りにならないかも」
「黒はそう思ってても、私は違うなー。家に楽しみが増えるだけでも、大満足だよ」
……僕は、何か思い違いをしていたようだ。
僕が相応しくないと考えていても、それは自身の意見だ。自己中心の視野で世界を見渡すだけでは、偏った思想になってしまうことが多い。
琉花が満足だと言ってくれているなら、それで十分なのだ。客観的に不幸で無いのなら、彼女の意志を尊重するべきである。
生まれ変わるなら、彼女のような家庭の兄になりたい。彼女がSOSを口に出すのも憚られる心境になっても、人間関係を拗らせて引きこもりになってしまっても、傍で抱擁する大木でありたい。
全ては、夢物語だ。理想像を語っても、実現する可能性はシャットアウトされている。
僕には、未来が平等に与えられていないのだ。
「しばらく、お喋りだけで終わってたよね? たまには、思いっきり体を動かしてみない?」
「……運動は、苦手なんだけど……」
「嘘を付いたら、泥棒の始まりだよ? 出会ってすぐは、あれだけ全力疾走してたのに」
魚屋から秋刀魚や鮭を盗んだことは、何回もある。泥棒だとののしられても反骨心は生まれてこない。……最も、琉花は僕をブタ箱に入れるつもりではないだろうけど。
一年前は、まだ成長期だった。人間の体もリンクしていたのは驚いたが、成人男性に劣らない筋力が付いていた。
それが、能力の使い過ぎでこのザマである。日々細くなりゆく筋肉は、直立姿勢を維持することすら支障をきたす。ゴールテープを切ることなど、手の届かない天空の城になってしまった。
「……さあ、行こうよ。黒、久しぶりに勝負だよ!」
「……」
琉花に腕を引っ張られた。
彼女に一切の悪気はなかっただろう。学校外で出来た年上の友達に、遊び相手になって欲しい。純粋な思いが、琉花の原動力になっている。
だが、僕の衰えた体幹で彼女の力に抵抗することは叶わなかった。マネキンの腕を取ろうとして傾くように、僕の視界はゆっくりと地面へ迫っていった。
踏ん張りの効かない足に文句を浴びせたのもつかの間、鈍い打撲音が僕を襲う。まともに受け身が取れない体で、初めて味わった痛みだ。
「黒!? ……どうしちゃった……?」
地面にうつぶせになっていた頭を、どうにか琉花が起こしてくれた。河原で転んでしまったがために、額がジンジンとうねりを上げていた。
鼻筋から唇に向かって、粘性の液体が伝っていく。心臓が微かに叫ぶ度、送り出された血流が傷口から垂れ出てきているのだろう。
僕の体は、自己免疫が崩壊するまでに悪化していたのだ。今日が命日なのは、揺るぎない事実として固定されたのである。
……ここで死ぬとは薄々感づいてたけど、今日にならないで欲しかったな……。
一日でも長く生き延びて、琉花との思い出アルバムを制作する。本望が達成される光は、失われたのだ。
正座でバランスを立て直そうとした僕だったが、もう全身の臓器は限界を超えていた。喉奥から、濁流がこみ上がってくる。
「黒、体調悪いの……? 疲れてるんだったら、今日は……」
労おうと手を合わせてくれた琉花が、停止ボタンを押されたように固まった。
僕の口からは、鮮血が吹き出していた。灼熱の業火で、喉が焼かれている。
琉花、僕はここでお終いみたいだ。選択肢の表示があったとしても、もうここから進めない。
「……これ、血、だよね……。そ、そうだ、救急車呼ばないと……!」
「……琉花、もう僕は……限界なんだ。……隠してて、ごめん……」
「あとできっちり怒ってあげるから、今は救急車を……。……スマホも小銭も無い……」
民家が建っていない、だだっ広いだけの河原。琉花が精いっぱい叫んだとしても、悲痛の願いは届かない。彼女にとっては皮肉だが、僕にとっては好都合だ。
最期の時は、着実に近づいている。砂時計が、いつ止まってもおかしくない。
「……琉花、さよなら」
死ぬ間際の姿を、琉花に見せたくなかった。目撃されたら、今までの絆が跡形もなく崩れ去ってしまうような気がして。
僕が持っているエネルギーを、足の筋肉に集中させた。これで、ものの一分後には魂が天に召されることだろう。放っておいても野垂れ死にするのだ、死期が僅かに早まることに恐れは感じない。
別れの挨拶に呆然としている琉花を置いて、僕は全盛期の脚力でコンクリートの橋脚へと駆けていく。柱の裏側に回り込めば、彼女から僕の無様な姿は見えなくなるはずだ。
琉花は、失望するだろうか。余命を宣告された事実を隠し通されて、追いかける気も無くしてしまうだろうか。
僕は、それでもいい。記憶から消しゴムで忘れ去られても、文句の一つ付けるつもりはない。
僕は、琉花の世界に存在してはならなかった。
種族の境界を越える事は、禁断の術。これを犯した者は、何かしらの代償を支払わなくてはならない。
その禁忌を破った僕は、確かに当初の目的を達成できた。溺れている少女を救い、切れてしまうはずの人生を繋ぎ留めたのだ。
「……黒、待ってよ……!」
琉花が懇願する声が、後方から風に乗って流れてくる。それでも、僕の足は去ることを辞めなかった。
陸に彼女を引き上げて、そのまま一言も会話を交わさずに去ってしまえば、また別の未来が訪れていたのだろう。二人が共存出来たルートは、そこしかなかった。
琉花は、謎の青年を引き留めた。学校内で味方がいなかった彼女は、外で心を許せる親友を作ろうとしたのだ。
……ここまでくれば……。
高架下の、不透明な橋脚の元までたどり着いた。エネルギー切れを起こした僕の全身は、今にも機能を停止させようとしている。
琉花から逃げきっても、人間の死体が残ってしまっては無意味。悪戯に悲しみを長引かせてしまう。
「……人間化……解除……」
見た目は青年なのだが、喉から捻りだした声はしわがれたおじいさんであった。吐血と入り混じって、聞き取れない。
そう、僕の名前はクロ。生まれてすぐ呼ばれた名前だ。
野良の世界で産声を挙げた僕は、盗みを働いて生きるより無かった。生物保護という名を冠した職員に捕まれば、自由が奪われる。人間を嫌悪したことはあっても、好意を抱くことは有りえない。そう思っていた。
転機がやってきたのは、一年前のこと。河原沿いに来て、ぶつくさと愚痴を垂れ流す少女がやってきた。まだ生後半年と経っていなかった僕のことを、よく可愛がってくれたものだ。
彼女の遊び相手常連となった僕は、日を追うごとに少女を待ち焦がれるようになった。動物なりの恋心を、異種である人間に持っていたのだ。
そしてあの事件が起こってからは、ドミノ倒し。一年間、人間の姿を借りて友情をはぐくんできた。
僕が得た『人間化』の能力は諸刃の剣で、一度使用する度に寿命が減っていく代物。琉花に会う前の僕であれば、一生使用する機会に恵まれなかっただろう。
『私、また黒に会いたい。……いつでも、いいからさ』
思い詰めた目で哀願されて、断れやしなかった。
彼女の願いを叶えるということは、イコール僕の寿命を捧げていることに繋がる。そのような人生(人ではないが)も、また一興というものだろう。
澄んでいた視界が、外側から順に濁っていく。手足を動かすことも出来ず、頭が地べたにそっと降りた。
これは、禁断の掟を守らなかった僕に与えられる天罰だ。ジタバタするのは見苦しい。
心臓の拍動が、消えかかっている。健康体では人間より速いテンポを刻む血液ポンプは、役目を終えようとしていた。
「……あれ、黒は……?」
肩で息をしながら、琉花が近くまでやってきたようだ。丸まっている僕の姿は丸見えだろう。視野が閉ざされていて、永遠に彼女の満開笑顔を目に出来ないのは心残りだ。
……琉花、頑張って……。
琉花は、僕が過ごした人生の何倍も長く生きることになる。逃げ出したくなったり、消えてしまいたくなる時もあるだろう。
命の尊さを、せめて僕の死を以て覚えてほしい。一時的な苦しみを乗り越えた先に、ご褒美が待っている。
別れは、そこで終わらない。新たなスタートラインに立つ儀式だ。
僕の屍を、乗り越えてゆけ!
「……あれ、いつかぶりの……」
ほんのり温かい感触が、僕の全身を覆った。
熱い水の粒が、蛇口が完全に閉まっていない水道のように滴っている。
「……そうか、君が黒だったんだね……」
……立派に独り立ちをしようと思ってたけど、結局そうできなかったのか……。
猫は、誇り高き種族。弱みを決して見せず、力尽きようとも他人にはいつも通り振舞う。
意識が、天に吸い取られていく。全身がさび付く苦痛が、ひっそりと引いていく。
「……大好きだよ、黒……」
「……ニャーン……」
神経がシャットダウンされるコンマ数秒前、確かに鳴き声は琉花に届いた。
―――誰も目をくれない、高架下の橋脚の側。そこでは、少女が黒猫の亡骸を抱きしめていた。
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