全部間違っていた
紗央莉からの電話で再びホテルの部屋に戻った政志。
室内は緊張感が張り詰め、誰も口を開こうとしなかった。
「...とにかく話し合いを再開しましょう」
弁護士が沈黙を破る。
離婚問題を専門に扱う事務所だけあって、雰囲気に呑まれる事は無かった。
「もう全部話した通りだ、俺が史佳とやり直す事は無い」
「そんな...」
政志の言葉に史佳は項垂れる。
ずっと泣き続けていた目から、また涙が溢れた。
「奥様辛いでしょうが、ご主人の事を考えて下さい。
これは充分過ぎる離婚理由になりますから」
「ですが...」
掠れた声で史佳が呟く。
窶れて、疲れきった妻の姿に政志の心が痛む。
しかし、辛いのは政志も同様であった。
「お待たせしました」
ノックをして、室内に紗央莉が入って来た。
「...紗央莉」
五年振りに紗央莉の姿を見た政志の目。
懐かしさと、どこか愛おしむ政志に史佳は目を伏せた。
「子供は?」
「別室に居る史佳さんの両親に預けて来ました。
人見知りなのに、亮二君と仲良くなったみたい、珍しいわね」
「そっか...亮二は保育園でも友達が多いからな」
優しく亮二の名を口にする政志。
血の繋がりが無いと分かっても、切る事が出来ない親子の縁を感じさせた、それが偽りと分かってしまっても...
「頼む史佳、俺は限界なんだ。
もう一緒には暮らせないよ、このままじゃいつか亮二を、お前や義父母さえ憎んでしまうかもしれない」
「私はどれだけ...憎んでも良いから。
だけど亮二だけは...お願いします」
「...無理だよ」
血の繋がりの無い家族に一人だけ混じる他人。
それは両親を早くに亡くし、預けられた親戚の家で過ごした経験を持つ政志には出来ない相談だった。
「お金は要りません...生活費は全部私が...足りなかったら何とかします。
慰謝料だって」
「バカを言うな!」
政志の言葉に怒気が滲んだ。
「自分の都合で子供にお金の苦労させてどうするんだ?
息子の...亮二の事をもっと考えてやれ」
「...だけど」
怯む史佳、弁護士は畳み掛けるように口を開いた。
「奥様、ご主人様は慰謝料を一切取らないと仰有ってます。
今まで掛かった養育費もです、こんな条件は殆ど無いケースなんですよ?」
「...そんな」
経験から来る弁護士の言葉に返せない史佳。
追い詰められた史佳は紗央莉にすがり付く視線を送った。
「済んだ事...」
紗央莉が静かに呟き始めた。
「もう終わった事なの、過去には戻れない」
突き放すでなく、何かを思い起こす様に紗央莉は続ける。
「どれだけ悔やんでも、後悔しても...もう遅い、あの時こうしていたら、次は失敗しないのに...みんなそう思うのよ」
「紗央莉...お前は」
「....紗央莉さん」
語り掛ける紗央莉、その瞳に涙が浮かび、流れ始めた。
「史佳...貴女には両親が居るじゃない...絶望しても、後悔しても支えてくれる人が....私は居なかったんだよ」
「紗央莉...おじさん達は?」
「死んだよ、娘がお腹に居る時に...二人共病気で...結婚も無くなったの...それは良かったんだけど」
意外な言葉。
紗央莉の両親と面識もあった政志、良くして貰っていた人が既に死んでいた事実に言葉を失う。
「まさか...それじゃ何の為にお前は...俺と...」
「全くの無意味だった。
大学の学費だけなら、奨学金でどうにかなったのに...お父さんだけじゃなく、お母さんまで苦労掛けちゃって...何の為に別れたんだろうね...」
紗央莉に限界が訪れる。
声にならない紗央莉の呻き声が室内に響いた。
「ごめんなさい...政志さん」
そう言って史佳は政志に頭を下げた。
「あなたを苦しめてごめんなさい...幸せにすると誓ったのに、最悪の形で裏切ってしまって...紗央莉さんから...私は...あああああ!!」
髪を振り乱し、テーブルに突っ伏す史佳。
二人の女が出す叫び声に近い慟哭、さすがの弁護士すら言葉を失ってしまいそうな程だった。
「では、離婚に同意されるという事で宜しいですね?」
落ち着いた頃を見計らい、弁護士が念を押した。
「は...はい」
震える手で史佳は離婚の同意書にサインをした。
「息子さんの籍も」
続けて親子関係の解消についての同意書を史佳に提示した。
「そ...それだけは」
それだけは出来ない、それをしたら亮二は政志の子供で無いと、息子から父親を取り上げてしまう恐怖に史佳は呻いた。
「待って下さい」
「ご主人さま?」
親子関係解消の同意書をテーブルから取り上げる政志。
その不可解な行動に弁護士が驚く。
「いずれ籍は抜きます、だけど...まだ探ってみたいんです」
「探るですか?」
「ええ、僕と亮二...息子との関係...その落とし所を」
「分かりました、では親子関係解消に関しては一旦保留という事で」
「...すみません」
書類を全て鞄に仕舞う弁護士に政志は頭を下げた。
「私はこれで。
また連絡をお待ちしております」
そう言い残し、弁護士は部屋を出て行く。
部屋に残った三人に、沈黙の時間が流れた。
「改めて久し振りだな」
「...そうね」
政志は紗央莉に話し掛ける。
椅子に座る紗央莉の隣に立つ政志、そんな二人を史佳は眺めていた。
「さっき言ってたが、結婚しなかったのか」
「うん...子供が娘だと分かったら、一方的に破談にされたの」
「なんだって?」
紗央莉の言葉に思わず声を荒らげる政志。
「それで、紗央莉はどうやって今まで?」
「その後...私は...」
紗央莉はそれからを静かに語り始めた。
両親の葬儀を済ませた紗央莉は、出産後体調が落ち着くと、小さい頃に住んでいた母親の田舎がある町に引っ越をした。
そこで中古マンションを借りて親子で住み、仕事を見つけ今まで生活をしてきた事を。
「...私生児か」
「認知はしないって条件だったから」
「...ふざけやがって」
「いいのよ、奴等は色々やらかして今は塀の中だから」
金を押し付け、封じ込める。
完全な人権無視、そんな事を続けられる筈もなく、満夫母子は遂に逮捕された。
しかし、政志は収まらない、怒りは頂点に達しようとしていた。
そして紗央莉の辿った過酷な道のりに、史佳も言葉を失っていた。
「...俺が悪かった」
「え?」
「どうしてなの?」
政志は二人に頭を下げた。
「俺が間違ったばかりに、紗央莉も...そして史佳まで不幸にしてしまったんだ」
「そんな事ないわ!!悪いのは私よ、独り善がりで...政志を傷つけて!!」
「そんな事ない!一番悪いのは私よ、政志さんは何も悪くない、紗央莉さんも!!
私が流されたばかりに!!」
「紗央莉...史佳...」
必死の叫び、政志の目に涙が滲んだ。
「その位で止めなさい」
「そうよ、これ以上傷つけ合って何になるの?」
扉が開く、声の主は史佳の両親だった。
「...ママ」
「...志央莉、大丈夫だから」
不安げな娘を紗央莉が抱き締めた。
「...お母さん」
「亮二...ごめんね」
そして史佳も、亮二をそっと抱き締める。
「すみません義父さん、お義母さんも」
「まだ...そう呼んでくれるのか」
「政志さん...ありがとう」
抱き締め合う政志と史佳の両親。
良好な関係を築いて来たからこそであった。
「ママ...このおじさんだあれ?」
志央莉が政志を見ながら首を傾げた。
「この人はね、ママの大切だった人よ」
「へえ...ママの大好きな人か」
「ちょっと志央莉...」
不思議そうに政志を見る志央莉。
「僕のお父さんだよ」
「亮ちゃんの?」
「そうだよ、格好良いでしょ」
「うん!」
子供達の会話に口を挟む事は出来ない。
なんともいえない空気が流れる。
「そ...それにしても珍しいわね、志央莉がこんなに亮二ちゃんと仲良くなるなんて」
誤魔化す紗央莉、さっき言った言葉を繰り返している事に気づかない。
「仲良くしてくれてありがとな」
政志も志央莉に微笑んだ。
「うん、私亮ちゃん大好き!」
「そっか、おじさんも嬉しいよ」
嬉しそうな二人、そこで史佳はある事に気づく。
「まさか...紗央莉さん、志央莉ちゃんは...」
「しっ...内緒」
小さな声で返す紗央莉。
それは史佳だから気づいた事。
亮二が政志に似て欲しいと願い続けた史佳だからこそ...
「貴女と同じ、予想外よ。
でも、あの子が居たから私は今日まで生きて来られたの」
「その事を見合い先の家は?」
「さあ?何でもクソは種無しで、何か言ってたみたいだけど、こっちには書かされた念書が有ったから」
「やっぱり紗央莉先輩には敵わないや...」
紗央莉の言葉に史佳は呟いた。
『娘を盾に結婚を迫ったりしない』
その決意に、史佳は負けたと思い知るのだった。
な...なぜエピローグの存在を!?