翼の魔物
魔物が人の姿へと進化を果たす。
初めて魔物と意思の疎通を交わし、そして仲良くなれるのだということに喜びを感じていた私は、それがこの世界においての種別の均衡を揺るがす程の革新的な出来事だということに気が付いていなかった。
そしてその相手がまさか、自分に付き従う存在になるなんてことに。
「…んしょ!えっとね、これが『コップ』。これでお水を簡単に飲んだり出来るのよ。」
「コップ……ミズ……カンタン……ノム……。」
彼は知能が高いのか、私が話す言葉やその意味をどんどん覚えていく。
それが嬉しいのか、私も身振り手振りも交えながら夢中になって言葉を教える。
リュックサックに入れて持ってきていた物を見せて、道具についてなんかも説明を始めた。彼は拙いながらも私の言葉を繰り返しながら、興味津々といった様子でそれを眺めている。
「それでね?これが――あっ……。」
……けれど、暫くして視界が少しずつ揺らぎ、段々と体が重くなるのを感じ始めた。
最初は話し疲れてきたのかと思ったけど、威勢良く鳴り始めたお腹がそれは違うと訴えを始める。
そうだった…すっかり忘れてた。
昨日から、お腹が減っていたのに無理して魔力を使った。しかもその後も飲まず食わずで彼とお喋りをしていた。だから空腹と疲労、そして眠気までもが一度にのし掛かってきたのだろう。動く気力さえもままならない中、私は横になりながら呻いた。
「うぅ…お腹空いたぁ…どうしよう……。」
頭は眠いのに、お腹の虫は容赦なく音を鳴らして攻め立ててくる。このまま眠ってしまったら、飢えで死んでしまうかもしれない。そんな恐ろしい考えさえも頭をよぎる。
「……ミサオ……?オナカ……?」
彼は不思議そうに首を傾げながら、お腹を押さえる私の様子を見ていた。
「オナカ……ミサオ、オナカ、スイタ?」
やがて彼は、自分のお腹に触れながら私の顔を覗き込み、私に何かを確認するような仕草を見せ始める。
「あっ……うん、そう。お腹が空っぽになっちゃってるみたい……ううっ…何か、食べ物でもあれば……。」
それを聞いた彼は、しきりに自分のお腹を押したり、腰を回したりするような動きをしている。
「オナカ……。カラッポ……タベモノ…………。」
……もしかして、私の空腹を理解しようとしてるのかな?
頭を悩ませるようにしていた彼だが、やがて突然何かを思い付いたように叫ぶ。
「…………ミサオ、オナカ!……タベモノッ……!」
そう叫んだかと思うと、彼は一目散に洞窟の外へと身体を向けていってしまった。
「え!?あっ…!ど、どうしたの!?ちょ、ちょっと……待って!」
私も重い身体を引きずるようにしてその後を追うと、洞窟の入り口から出た彼が裸のままで何処かへ走っていくのが見えた。
でも、なんだか足下がおぼつかなくてフラフラしている。走るというより身体を前に向けて必死に動かそうとしてるように見えている。
「あ、そっか……昨日までは背中の翼で宙を舞ってる魔物だったんだものね。」
二本の足で歩くとか走るという感覚が初めてなのかもしれない。だけど――。
「あ……。もう、あんなところまで……。」
彼は考えることなく本能のままに身体を動かしているみたい。
最初は走る時に両手を羽ばたかせるような動きだったのが、やがて腕を前後に力強く振ってバランスを取ることを学び始めたのか、徐々に自然な動作になってきている。そうして目で追っている内に彼はそのまま力強く駆け抜け、やがて近くの木立に姿を消してしまった。
「あっ……行っちゃった……。ふぅ、折角仲良くなれたのかなって思ったのになぁ……。」
そんな風に溜息を漏らしたら、遂に最後に残ってた体力も尽きてしまったみたいで。私は出口の壁にもたれかかるようにして座り込んでしまった。
あんなに扱いきれないほど、魔力を持っていたはずなのに。もう最後の一滴すら身体に残ってないのかもしれない。 ……だけどだけど私は、何故か悲観的な気分にはなれなかった。
だって、魔力で何かを壊してばかりいた私の魔力が、初めて魔力で誰かを癒せたのだから。魔物に力を分けてあげるなんてとんでもない真似しちゃったけど、あのまま目の前で苦しむあの子を眺めてるままでいるよりは、ずっといい。
「…………それにしても、どうして……あの魔物が人間の男の子みたいに……?」
ぼんやりとした意識の中、ふと私は今まで忘れていた事実を思い出した。
私が魔力を傷口に注いだら、魔物の傷口が塞がるのと同時に身体が震えだしてた。そこから先は気を失っていたみたいだから分からないけど、魔力があの魔物の何かに作用して、人の姿に変わったということみたい。
こういうのをなんていうんだったかな…『進化』とか呼んでいたような?
カタコトだけど人の言葉を発しているし、少しずつ言葉の意味も理解し始めているように思えた。本で見た魔物なんて、最初に襲ってきたコウモリの魔物たちみたいに人間を襲うことが当たり前で、仲良く会話しようだなんて思わないはずなのに。一体、どうして――。
私が眠気に抗うように考えを巡らせていると、そんなことを考えさせた張本人が大声をあげながら私の傍に駆け寄ってきた。
「ミサオーーッ!」
「……あ。戻ってきて、くれた……の?」
私の問いかけに対して、彼は此方を見つめながら呟くように答える。
「…………タベ、タベモノ。」
「え……?」
傍まで来た彼は、両手で抱えていた何かを私に見せてくる。拳より大きなまん丸い形をしたそれは、食べてくれとばかりに赤く色づき、甘い香りを漂わせている。
「これ……え?君が採ってきたの?」
「……トッテ、キタノ。」
彼は頷かない。その代わりに、目を真っ直ぐに見ながら返事するように声を返した。
その彼の目は、私のことだけを見て、私のことだけを考えているくらい澄んで見えた。……例え、その返事は私の言葉を繰り返しただけだとしても、信じてしまっていいと私は心の底から確信した。
これを食べて欲しがっているという想いに、私は涙が溢れそうなほど感激してしまった。
「あ、ありがとう!…っ……うん、いただきます!」
「イタダキ…マス!」
私は彼の持ってきてくれた食べ物を手に取った。
……もし仮にこれが毒入りだったとしても、食べなければどのみちこのまま飢えて死んじゃうだろう。だったらいっそ、食べてしまおう。そう思って私は、薄い皮を剥ぎ取り中の柔らかい部分に口をつけた。歯を立てた瞬間、溢れんばかりの瑞々しい果汁が私の口に飛び散りながら、喉の奥に流れ込んでいく。
それは、限界に達していた私の飢えと渇きをいっぺんに満たしてくれるのを感じた。
「んむっ……ん、美味ひぃ……!」
きっとこれは、何かの果実だろう。
お店では見たことがないけど、人間が食べても良い果実だ。手がべとべとするのも構わず、私は果実を食べ続ける。飛び散る果汁に苦戦していても、私の体に活力が戻って来るのがわかった。
もっとこれをお腹いっぱいに食べたい!そう欲張り始めた私は、彼に聞いてみることにした。
「あ、ねぇ!これって、一体どこで……!」
「フォフォフェ?」
彼は口一杯に同じ果実を頬張りながら私の顔を見つめる。
「あ、ごめん……。ごっくんしてからでいいよ?」
「プシュッ……ンクンッ。」
私が喉を指さして言ったことに応じるように、口の中の果実を噛み潰し、中身を文字通りごくりと飲み込む。
「ン……ミサオ?」
私が何か聞きたがってることを察したのか、彼は私の名前を呼んで次の言葉を待っている。
「……あ、そういえば。」
飢えと渇きが満たされたことで少し体力が戻ったのか、緩やかに動き始めた私の思考があることを気付かせる。
「ねぇ、君って名前はあるのかな?」
「ンゥ?キミ?…ナマエ?」
首を傾げながら私の言葉を反復する。
そっか…それはそうだよね。魔物達の間に名前で呼び合うなんてことがあるのかも分からないけど。少なくともこうして話し始めた人の言語では、そんなものある訳がなかったんだから。
だったら――。
「ねぇ、ナ・マ・エ、君の名前。私、ミサオが付けちゃってもいいかな?」
私は彼と自分を順々に指差しながら尋ねる。
「…………ナマエ!キミ、ナマエ!」
その私がする動作で、私がしたがっていることを理解してくれたらしい。自分を指さしながら、とても嬉しそうに口をあけて目を輝かせ始める。名前とまでは理解してないかもしれないけど、私が彼をどう呼ぶのかを期待してくれているのかもしれない。
とはいったものの…咄嗟にこれといった名前が思い浮かばない。
「……ミサオ!…ナマエ…キミ、ナマエ!」
うわぁ、すごい期待してくれちゃってるみたい!?
動物なら尻尾を振って待ってそうなほど、期待に充ち満ちているのが全身から伝わってくる。うーん…こ、こんなに期待されちゃってるって思うと、変な名前で呼ぶ訳にはいかなくなっちゃうなぁ。せめて良いお名前で呼んであげたいし…。
「そうだなぁ…。」
「……ソウダナ?」
「あっ、ち、違う違う!…うーん……。」
私は今一度、じっくりと彼の身体を見てみる。
「ナマエ…ナマエ……。」
「……ん?」
期待の眼差しを向ける彼の背中辺りから、僅かにカサカサと何かが擦れる音が聞こえてくる。私はその音がする方へと目を向けた。
「あっ!」
彼の背中に僅かに生えている小さな翼が、まるで羽ばたくようにカサカサと揺れていた。それはまるで、動物が嬉しさを尻尾で表すみたいに――。
この翼、動かせるんだ?……そっか!彼は元々コウモリ型の魔物だったし…今も、背中に小さな翼がある。魔物……翼……。
「んっ……翼の…魔物?」
…………そうだ、確か人魔大戦のお話の中で、翼を携えた魔物が呼ばれていた名前があったような…。あれは確か――。
「……ギタート。」
「ンゥ?」
「そうだ…あれは『翼の魔物』って意味なんだっけ……うん!それだ!」
私は彼を指さして言った。
「ギ・タ・ト…君のことは、ギタトって呼ばせて?」
「キミ……ギタト?」
彼も自分のことを指で差して反復する。
「そう!私はミサオ。そして君の名前は…ギタト!だよ!」
彼の名前を、ギタトと名付けた。
――その名前がやがて、『翼魔公爵』として世界に知らぬ者がいない程になるなどと。
「私は、ミサオ。そして君は…ギタト!」
「ギタト!ギタト!」
私も、そしてギタト本人さえ夢にも思っていなかったのだ。