王子の逃走
王妃のお供で、王宮中は知り尽くしていた。
オブライアン王子が幽閉されている客室は厳重な警備だったが、その為にどの部屋かすぐに分かった。
王妃の情人の一人であるマーシャル・ロットナーは、王妃の部屋から持ち出していた薬を服に忍ばせてタイミングを狙っていた。
すでに日にちが替ろうかという頃になると、王宮の中も静かになり始めていた。
アナクレト王の葬送の処理や、ヘルフリート王の戴冠式の準備で多くの部署が深夜まで動いているからだ。
マーシャルは、オブライアンの部屋の近くの部屋に忍び込み火を点けて、部屋から飛び出した。
「火が!」
それに気が付いたのは、オブライアンの部屋を警備している兵士だ。
入り口に二人体制で警備していたが、一人が消火の為に、煙が出ている部屋に向かった。
「火事だ!」
マーシャルは大声で叫ぶと、逃げ惑う振りをしてオブライアンのいる部屋に近づく。
警備兵はマーシャルが火事と叫んで人を呼んでいるので、油断していた。
即効性の毒を塗った短剣を隠し持っていたマーシャルは、それで警備兵を刺したのだ。
倒れる兵を確認することもなく、マーシャルは部屋の扉を開けた。先ほどの大声にすぐに人が集まって来るはずだ。一刻の猶予もないのだ。
「殿下、早くこちらに!」
マーシャルはオブライアンの姿を確認すると、手を引き逃げ出した。
火を点けた反対側の部屋に飛び込み、準備しておいた縄を窓から垂らす。
マーシャルは王妃に忠誠心があるのではない。
王妃の元には、見目麗しい若い男性が集められていた。マーシャルもその一人だ。
ジェフリー・モーガンと同じように、王妃に献上され、令嬢や夫人達から情報を得るべく遊び相手とされていた。
逃げれるものなら逃げたかったが、王妃という権力者から逃げれるなど不可能だと思っていた。
突然、押し入ってきた騎士達に身柄を拘束され、長い時間、尋問され拘束されていた。王妃が王弟殿下の部下に斬られて絶命したというではないか。
解放されてアナクレト王の葬送式を見れば、王妃を斬ったと聞いたリュシアンは、行方不明だったジェフリー・モーガンで新王の側で堂々と歩いているではないか。
裏切者。
アイツだけが、新王の元で新しい人生を送るなど、許せはしない。
しかも、オブライアン王子を取り押さえて、王を守ったなどと忠義者のつもりか!
オブライアン王子こそが正当な次期王なのだ。
王妃にすり寄っていた貴族はよく分かっている。そこまで逃げれば、オブライアン王子を王に立てる事が出来るはずだ。
窓から垂らした縄をつたって降りると、誰にも気づかれずに地に足が付いた。
反対側の部屋から出ている煙に、皆の注目が集まり、消火が最優先されているからだ。
「殿下、こちらです」
夜の闇に隠れて庭に逃げ込もうとして、人の気配がした。
「王子を捕らえた夜に火事など、都合よすぎる」
暗闇から出て来たのは、ケーリッヒだ。後ろにリュシアンも従っている。
「殿下、マーシャル」
リュシアンは見知った顔がいることに、驚いた。
剣の訓練をしていたリュシアンとは違い、マーシャルはそういう事とは無縁のようだったからだ。
ケーリッヒはリュシアンが名前を呼ぶのを聞いて、王妃の元にいた男か、と察していた。
「ほぉ、すぐに逃げ出した貴族達とは違い、骨のある男がいたようだな」
それはケーリッヒの誉め言葉だ。
王妃の元にいたということは、リュシアンと同じように不遇の中を生きて来たということなのだろう。
「僕こそが真の王なんだ!
叔父上は、乱心したんだ!僕が王太子なんだ」
オブライアンはマーシャルの後ろに隠れながら叫ぶ。
「父上の後を継ぐのは僕だ。正しきメルデア王家の血統は僕だ」
何も知らないオブライアンが、王家の血統と言っても、秘密を知ってしまったケーリッヒは躊躇することもない。
「逃げ出さねば、王族としての死であったものを。
今は逃亡犯として処断する」
ケーリッヒが刀を抜くと、ビクンとオブライアンとマーシャルが震える。
「お前も、そいつに誑かされたんだな。
母上のおもちゃの男し・・」
ダン!!
オブライアンは言葉を言い切ることなく、ケーリッヒに斬られて倒れた。
マーシャルは膝をつき、耳を押さえて身体を丸めた。
『母上のおもちゃの男し』
オブライアンの言葉が耳に響く。
母上のおもちゃの男娼、というつもりだったに違いない。
「マーシャル」
リュシアンが声をかけるが、マーシャルは答えない。
すぐに騎士や兵士が駆け付け、オブライアンの身体を回収して、マーシャルを連行した。
オブライアン・メルデアは逃走途中に死亡、とヘルフリートに報告されるだろう。
「リュシアン」
あの言葉を言わせたくなかった、聞かせたくなかった。ケーリッヒはリュシアンを抱きしめた。
闇が二人を包み込んでいた。