王崩御
その一報は、王宮を巡った。
そして、それはすでに準備を終えていた高位貴族達によって速やかに処理されていく。
アナクレトに引き立てられた兵士達には、驚きと悲しみで受け止められた。王の仇討ちに出ようとする兵は、仲間の兵に止められた。もう手遅れなのだ、と。
シェレス宰相とホルエン司令官は、ヘルフリートとケーリッヒ達が王の執務室にいる間、情報を完全に止めたのだ。
軍を掌握するのではなく、何年も準備して、王の執務室で起こっている事を何処にも漏れない体制を作っていた。
だから、アナクレトの親派も知らなかったのだ。
自分達の王が、襲撃されていることを。
シェレス公爵達にとって、王はヘルフリートでなければならなかった。
ヘルフリートが王になる意思がない時から、密かに準備してきた。それは秘密を知る僅かな高位貴族と先々代の王との密約。
シェレス公爵自身が、前宰相であった父親から受け継いだ秘密だ。
自分達が、アナクレトと王子を暗殺して、残ったヘルフリートが王になるしかない、という状況を作ることさえ考えていた。
ヘルフリートがエヴァンジェリンの為に、王になろうとしたのは僥倖であった。これで、秘密を墓場まで持っていける。
ガン!!
リュシアンが壁に手を叩きつけていた。無理して動いていた負担で背中の傷は開き血が滲んでいる。
壁にはヒビが入り、手にも血が滲んでいる。
「リュシアン、傷にさわる。もう、止めておけ」
ケーリッヒがリュシアンを止めに入る。
振り返るリュシアンは涙と、噛み締めた唇が切れて血が流れている。
「ケーリッヒ様、同じ場面になったら、またきっと同じ事をする。だけど、だけど!」
リュシアンは何年も王妃の元にいた。
何もなかったはずがない、ケーリッヒもそれは分かっている。
その女をリュシアンは斬ったのだ。
そっと差し出したつもりのケーリッヒの腕は、強くリュシアンを抱きしめた。
優しく抱きたかったのに、ケーリッヒの感情はそれを否定した。
「お前、優しすぎる。
バカだ、全部僕の為だとすればいい」
強くリュシアンを抱きしめると、リュシアンはケーリッヒの背中に手を回してきた。
ケーリッヒは、リュシアンの傷ついた唇を舐める。それから、抵抗のないリュシアンの唇に唇を重ねる。
何度も唇を重ねると、うっ、うっ、とリュシアンの嗚咽が聞こえてくる。
リュシアンがケーリッヒの肩に顔を埋めて、ケーリッヒの背中に回した手に力が入る。
ケーリッヒの手が、リュシアンの頭を撫でる。それは優しくて・・・
「うわぁああ!!」
リュシアンの悲鳴のような鳴き声が響いた。
返り血を浴びた王位簒奪の実行犯達は、それぞれが部屋で着替えて気持ちを落ち着かせていた。
ヘルフリートは傷を負っていた。深い傷ではないが、包帯できつく縛っておかないと、血が流れてくる。
だが、血が流れ続けているのは心だ。
アナクレトと、王妃、事務官達は同じ部屋に寝かされていた。その前にヘルフリートは一人で立っていた。
「兄上」
子供の頃から、それぞれの母親が敵対していた。
父である王は、正妃であるヘルフリートの母親を優遇したが、王太子をアナクレトからヘルフリートに変える事はしなかった。むしろ、子供には関心がないようだった。
アナクレトが生まれた時に、父に王位を譲位した祖父の前王がヘルフリートを可愛いがった。
父から与えられぬ愛情を、祖父から与えられていた。
アナクレトには、それさえなかった。
子供心に、レクーツナの王女である母親の重要性を悟っていた。
「兄上、祖父に贔屓されている私には、それに負けない貴方が眩しくて、強い貴方に憧れていたのです。
エヴァンジェリンを手に入れる為に王位を望んだ愚かな弟を許してくれ、とは言わない。だけど、貴方が目指した国を必ず引き継ぐから」
幼児の時、誰も教えなくとも悪い噂があるのを知っていた。
私が知っていることを、兄上が知らないはずがない。
それが、子供だったアナクレトにどれほどの苦しみを与えたのか、想像するまでもない。
30年前から準備されていた、その言葉が昔の悪い噂を思い出させる。その準備と自分の出生は無関係ではないような気がする、とヘルフリートは考えてしまう。
「兄上」
どんなに呼んでもアナクレトが答える事はない。ヘルフリートが斬ったからだ。
ヘルフリートは冷たくなっていく兄の顔に手を添える。その手には手袋はない。
シェレス公爵達が準備してきたこと。後で出てきますので、ここでは詳細を秘匿にしております。