エヴァンジェリンと家族
馬車が公爵邸に着くと、ケーリッヒはエヴァンジェリンを抱き上げたまま、エヴァンジェリンの部屋に向かう。
屋敷で二人を出迎えた使用人達が、エヴァンジェリンの様子に驚きを隠せない。
「エヴァンジェリンが吐血した、直ぐに医者の手配だ!」
家令のクロノスを見ると、足を止めないでケーリッヒが指示する。
「クロノス、父上と母上にも連絡を入れてくれ」
母は屋敷にいるが、父は王宮に出仕している。すぐには帰ってこれないだろう。
吐血は最初の一回だけだったので、エヴァンジェリンは落ち着いた様子で運ばれている。
ケーリッヒはエヴァンジェリンをベッドに寝かすと、メイドに着替えを言いつけ自分の部屋に戻った。
バタン。
扉を閉めると、上着を脱いで椅子に放り投げた。
首のタイを緩め、テーブルのデキャンタから水をグラスに注ぎ、飲み干すと一息ついた。
エヴァンジェリンが吐血した映像が頭にこびりついている。
意識もあり、落ち着いてはいるが命に係わる病気かもしれない。吐血するなど余程のことだ。
ミッシェル・ビスクス。
アイツが僕の妹を追い詰めたのは間違いないのだ。
空になったグラスをテーブルに置き、ケーリッヒはエヴァンジェリンの部屋に行った。
すでに母親のオフィーリアが来ていて、ベッドの横に座っていた。
「ケーリッヒ、エヴァンジェリンは眠ったわ」
「そうですか、すぐに医者も来るはずです」
母親の横に椅子を持って来て、ケーリッヒも座る。
「エヴァンジェリンの食が落ちていると聞いてたの。
顔色も悪かったのに、どうしても買い物に行くと言うから。貴方に付いて行ってもらってよかったわ。
ドレスに血が付いてた、あれは?」
オフィーリアが事情を聞きたいのも当然であろう。
買い物に出かけた娘が、兄に抱きかかえられて戻って来たのだから。
ケーリッヒは一瞬戸惑ったが、母親がミッシェルの素行やエヴァンジェリンが吐血したことに耐えれないと判断した。
「長くなりそうなので、父上が戻られたらご一緒にお話しします。すぐに医者が来るでしょうから診察をまずして貰いましょう」
トントン、とノックされてクロノスが医者を伴って入って来た。
医者がエヴァンジェリンの脈を計っても、エヴァンジェリンは起きそうになかった。
「公子、お嬢様はどうされたのでしょうか?」
ケーリッヒはチラリと母親を見てから、話し始めた。
「母は、妹の体調がよくないことに気が付いていたようです」
そうでしょう? と視線をやればオフィーリアが頷く。
「エヴァンジェリン様が吐血したというのは緊急を要する事態です。
公爵夫人、どうか些細な事でも結構ですので、思いつくことがあれば教えてください」
医者は記録を残すために、助手に筆記させる。
「エヴァンジェリンの顔色が悪いと思って、メイドに確認したら食が細くなっていると聞いたのです。
結婚式が迫ってきて繊細になっているのだろうけど、結婚相手の良くない噂が耳に入っていたので心配でケーリッヒにお願いしたの」
公爵夫人である母がミッシェルの噂を知らないはずがない。
公爵である父も同様であろう。それでも結婚式の準備を進めているのは、それぐらいでは中止する懸念ではないという事だ。
だが、事態は変わった、とケーリッヒは考えている。
それに、この腕の中に落ちてきた妹を守りたい、と思った。
いつの間にか疎遠になっていた家族、だが、愛情はあったのだと思い出した。
「先生、妹は僕と一緒に街に買い物に行きました。
最近、妹を悩ませている問題の原因が街にあって、それと出くわしてしまったんです。
悩ませている問題を、言うことはできません。
それは、僕でも殺したくなるほどの怒りでした。その時、エヴァンジェリンが吐血したのです」
ケーリッヒはエヴァンジェリンのドレスを差し出し、吐血の量を示した。
「公爵夫人、公子、吐血というのは命と直結するぐらい危険な事です。
まだ予断はできませんが、危険な状態であるなら、もっと痛みがあったり、他の症状もあります。
息が正常で、脈が落ち着いています。先ほどのお話から精神的なことが大きい可能性があります。
まずはそちらの治療ということでよろしいでしょうか?
精神的な負担が少なくなれば、従来あった病気の治療に入ります」
医者は確認を取ると、助手に指示を出した。
「吐血は胃からきているようです。胃薬と精神安定剤をお出しします、ただし絶対安静ですから、面会人も家族だけでお願いします」
テーブルの上に、いくつかの薬が入った袋が出され、医者は助手と共に帰って行った。
「ケーリッヒ、その殺したい程って?」
オフィーリアは気になっていたであろうことを確認する。
「ミッシェル・ビスクスです。
父上が戻られたら、詳しくお話しします。覚悟なさった方がいい話になります」
それ以上は話せないとばかりに、ケーリッヒは立ちあがりエヴァンジェリンの部屋から出て行った。
代わりにメイドが水を持って入ってくるのを見て、お湯とタオルも持って来るよう指示を出す。
エヴァンジェリンの身体を拭いてあげようと思ったのだ。
襲ってくる不安に押しつぶされそうである。
だが、一番辛いのは眠っているエヴァンジェリンなのだ。
エヴァンジェリンが吐血したと聞いて、急に身近に感じた。
産んだ娘であっても、乳母が育てているのが貴族の家だ。
お母様と呼ばれて手を繫いで歩いた幼い娘は貴族の教育が始まり、自分は社交へと離れていった。
そして家の為に、親の決めた家に嫁いで行く。自分もそうだったし、娘もそうだと思っていた。
エヴァンジェリンが死ぬかもしれない。
私は、娘を愛している。