アナクレト・フォン・メルデア
突然届いた婚約破棄の決定書。
婚約解消ならば両家の承認が必要だが、破棄は一方的な通知だ。
ビスクス伯爵は、何度も読み返した。
ミッシェルの不貞が原因による破棄、その証拠書類。
街のカフェで大勢の目撃者がいたのでは、否定のしようがない。
シェレス公爵家からは、共同事業の解消、支援資金の即時返却、エヴァンジェリンへの慰謝料請求の書状が添えられていた。
「どういうことだ?」
伯爵の声は低く、ミッシェルを見る目は怒りに燃えている。
「父上、違うのです。
エヴァンジェリンは拗ねているだけで、直ぐに撤回するはずです」
ミッシェルが言っても、伯爵は睨みつけるだけだ。
バン!
伯爵が通知書を机に叩きつけると、ミッシェルが肩をすくめた。
「バカモノ!」
伯爵も息子の噂を聞いていたが、まさか男爵令嬢を妊娠させているとは思ってなかった。
それをエヴァンジェリンとケーリッヒの前で、エヴァンジェリンに子供を育てさせると言うなどと、公爵家の怒りを買うのも尤もだ。
シェレス公爵家だけではない、多くの貴族が公爵家を擁護するであろう。
「大丈夫ですよ、父上。
アイツは僕でないとダメなんですよ。僕の気を引きたくて、大げさにしてい」
ガン!!
言葉の途中で、ミッシェルが伯爵に殴られ弾き飛んだ。
「どこまでバカなんだ!」
伯爵の怒鳴る声に、ミッシェルは殴られた頬を押さえながら立ち上がる。
「アイツは僕でないとダメなんだよ!」
そうでないとダメなんだよ。
エヴァンジェリンは僕から離れたり出来ないんだよ。
ミッシェルがふらりと部屋を出て行くと、ビスクス伯爵は頭を抱えた。
簡単に用意できる金額ではない、それどころか共同事業の失敗で多くの負債を抱える事になるのだ。
生き残る策を考えねばならない。
王宮では、王の寝室に灯りが付いていた。
国王アナクレト・フォン・メルデア。
「とうとう弟が動いたか」
最初から信用なんてしてなかったよ、お前は全てを持っているから。
王の補佐で飼い殺しにするつもりだったのに、従順な振りは止めたんだな。
「ブラウリオ」
王が呼べば、すぐ隣から返事がある。
「はい、陛下」
ブラウリオ・ベンハミン。王の側近であり、従兄でもある。
「動ける者を集めよ。
シェレス公爵家に娘はいらないな」
アナクレトが手にしているのは、ヘルフリート・フォン・メルデアとエヴァンジェリン・シェレスの受理された婚約申請書。
「陛下、すぐには無理でしょう。シェレス公爵邸の警備は厳重です。
手の者を公爵邸に潜ませます」
「娘が婚約破棄した男のことも調べろ。
男に瑕疵がある形で破棄するとは上手くやったが、すぐに婚約するのは浅はかだったな」
アナクレトは、ヘルフリートと婚約する為に、エヴァンジェリンがミッシェルと婚約破棄したと思っている。
アナクレトはグラスに酒を注ぎながら、クスクスと笑い出した。
「陛下?」
異様な気にブラウリオが尋ねる。
アナクレトはもう一杯グラスに注ぐと、ブラウリオに渡した。
「お前も飲め」
カチン、と乾杯とばかりにグラスを合わせる。
「私も甘かったな」
ヘルフリートは王位に未練がないと思いたかった、思おうとしていた。
王補佐としてのヘルフリートは完璧だった。
母の身分も、何もかもヘルフリートの方が上だ。
ヘルフリートが生まれた時には、すでにアナクレトが王太子として立位していた。
そのまま王位に就いたが、常に脅威を感じていた。
もし婚約者であった隣国の姫君と結婚していたら、外戚という後ろ盾を得て、違ったものになっていたであろう。
だが、隣国とヘルフリートの母である正妃の母国が戦争になってしまえば、姫君を娶ることは出来なくなった。
代わりに娶ったのが子爵令嬢だった現王妃だ。
やり手の女だったから、もっと王宮を牛耳ると思っていた。
あれは失敗だった。
まてよ、とアナクレトは思う。
「シェレス公爵令嬢を娶るのが、私でもいいと思わないか?」
シェレス公爵家を味方陣に引き込むことが出来れば、情勢は変わる。
ブラウリオは何も言わずに聞いている。
「私の子を孕めば、私と結婚せざるを得ないだろう。
今の王妃と王太子が病死した後だがな」
エヴァンジェリンとは17歳差、無理ではなかろう。
「ああ、王弟殿下が不慮の事故死でもいいかな」
クスクス笑うアナクレトの空になったグラスに、ブラウリオが酒を注ぐ。
「陛下、楽しそうですね」
「ああ、生きていてよかった、と思うぐらい楽しいよ」
乾杯、とアナクレトがグラスを上げた。
今、とても近くに弟を感じる。
やっと、王が出てきました。
ミッシェルもバカな分、諦めが悪そうですし、エヴァンジェリンはあっちこっちから狙われそうです。
頑張れ、王弟殿下。